プライドを捨てられるほどのプライドはあるのか

先日、自宅でだらだらと晩酌していたとき、急に「電話していい?」と仲のいい飲み仲間から、メッセージが来た。

彼からのスマホ通知はほぼ100%が「飲みの誘い」なので、「今日もまた帰りは遅くなるな」と心の中で覚悟した。

ところがかかってきた電話に出た彼からの一言目は違った。


「最近、辛い」


申し訳なさを押し殺すような言葉の後に続いたのは、ただひたすらに現状に納得できていない気持ちと、今後の自分が向かう先について。


正直、人から相談を受けたとき、基本的に「明確なアドバイス」というのはあまり考えていない。
(ちょっとくらいはするけど、スタンス的な話)

人は誰かに相談するとき、現状の自分を吐き出して、心の整理をしたいのだと思っているから。

相手をぼくに選ぶからには、そこに「ぼりである必要性」はあるのだろうけど、だからといって、「ぼりの意見」が必要かどうかはまた別問題だと思っている。
(もちろん明確な答えをほしがる人もいると思うけど、そういった提案が苦手だから、明確なアドバイスはほぼ諦めているというのもまた事実)

ただただ自分の気持ちを吐き出す彼に、ずっと相槌と質問を繰り返す。

「そうだよな」「そんときはどう感じたの?」

話を聞いている中で、彼は自ら少しずつ言葉にすることで頭の中を整理していき、ひとつの答えにたどり着いた。


「立派な自分でなくちゃいけないと思っていた」


その言葉を聞いたとき、自分にも似たような経験があったことを思い出した。

人がフラストレーションを抱えるときは、自分の「行動」「言動」「意思」のどこかに矛盾が起きているときだと思っている。

立派でなくちゃいけない、弱音は吐いちゃいけない、スマートにやらなくちゃいけない、必死になるのは恥ずかしい。

そう考えて外側に見せる「立派でスマートな自分」を完成させたとき、ぼくは見せる自分と、実際の自分のギャップに潰された。いや、自分で勝手に潰れた。

立派な自分は、誰のために作り上げるものなのか。

おそらく、自分の「見栄」というプライドの為だ。



ここでようやく、「彼がなぜぼくに相談したのか」がちょっとわかった気がした。

彼がぼくを相談相手に選んだ理由はおそらく、今のぼくが「みっともない頑張り方」ができている人間だと感じたから。

ひととおり話し終え、少しスッキリした彼に対して自分なりの「想い」を伝えた。

方法や解決策、アドバイスではなく、自分の想い。

参考になるところがあれば参考にしてくれればいいし、そうしなくちゃいけないとは1mmも思ってほしくない。

だから、自分の「想いを伝える」というのが正しい表現だと思う。

自分の過去体験、そのときに思ったこと、自分が影響を受けた言葉。

そうして伝えた言葉の中にこのフレーズがあった。


「プライドを捨てられるほどのプライドはあるのか」


これは、ずーっと昔のある月9ドラマで使われていた言葉。

大きな目標の為に、小さなプライドを捨てられるのかどうか。そう問いかける言葉だ。


彼は自分の中で何かがスッキリしたようで、「自分がこれからどういった判断をするかはわからないけど、辛いと口にできて助かった、ありがとう、また飲もう」そう口にして、通話を終えた。

本心として、辛いときに誰に相談したいと考えて、自分のことが思い浮かんだってことはすごく嬉しかった。

ただ、ぼくは彼の思う「みっともない頑張り方」が本当にできているのか。
そう言われた訳じゃないけど、やっぱり自分にこそ言い聞かせたい。

スマホを置き、すこしぬるくなったビールを飲み直しながら、今度は自分自身に問いかけた。

プライドを捨てられるほどのプライドはあるのか

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