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【再々反論と解説】緋娜さんの記事『◯◯なんだから△△しろ』を読みました~叩けと言われたので叩いてみるテスト②~

 私の前回の記事に対して、緋娜さんから追記で再反論を頂戴しました。非常に素晴らしいので、私からの再々反論を加えるとともに、解説めいたことをしてみたいと思います。

1.立論ー反論ー再反論の様相解説

 私は「ヴィーガンは肉を食べるな」「高校生なら勉強しろ」の共通性を述べ、前者を正しいと認めるならば、後者も正しいと認めなければならないという形で反論した。この論法はレトリックの分野において、正義原則を用いた類似からの論証と呼ばれる。簡単にいえば「同じ本質的範疇に属するものは、同じ待遇を受けるべきである」というルールに基づいた論証である。

 したがって、緋娜氏がこの論証に対し、提示された類似関係を崩す――ヴィーガンと高校生は同じ本質的範疇にはないと示すこと――によって反論したのは極めて正当である。具体的には次のように述べられている。

「高校生だから勉強しろ」に関して「高校生は勉強することを属性としてもっているのではないか」ということが指摘された。確かに学生は勉強をすることを承知の上で入学する。
が、現実問題として高校に入学さえしてしまえば(だいたいの学校は)勉強をしなくても高校生ではいられるのでこれは不適切だと感じた。
例を出すならばスポーツ推薦などで高校に入学し、その生徒にスポーツ成績のみを高校に求められたなら勉強はしなくてよい場合が存在する(私も中学三年生のとき、とある私立高校に数学の特待生として入学を誘われたが、その場合数学以外は勉強しなくて良かった。同校で、実際にスポーツさえできれば勉強をしなくても良いというのが認められていた)。
別に特待生やらなんやらでなくても最低限の成績を修めていれば(高校によっては授業さえ出ていれば)特段勉強をしなくても高校生でいられるのではなかろうか。
すなわち、こちらに関しては「全ての高校生が勉強をしなければ高校生でいられないわけではない」ことを主張する。

 ここでは、私の指摘した類似関係(ヴィーガンと高校生)が否定されている。その根拠は、ひとまずスポーツ特待生や数学特待生など「勉強しなくてもいい高校生」の存在である。こうした高校生が認められる一方で、ヴィーガンに「肉を食べてもいいヴィーガン」はない。これは一つの決定的な差異であり、ここに同じ本質的範疇に属するはずだという論証は崩された。

 ただし、単にこれだけであれば、私は主張の形式を全称命題(すべての高校生)から特称命題(たとえば"大半の"高校生)へと下げれば逃げられる。まあ後退するが仕方がない。特例を認め、「基本的には」くらいの表現を添えて、大筋としての妥当性を維持する方向に持っていこう――と考える。

 が。もちろん、緋娜氏としてはそれを許したくはないだろう。すかさず追加で打撃を与えている。「別に特待生やらなんやらでなくても最低限の成績を修めていれば(高校によっては授業さえ出ていれば)特段勉強をしなくても高校生でいられる」という事実を挙げ、特称命題に切り替えれば済むという問題ではないと論じてみせる。これは私が「それは一部の生徒だけで、大半の生徒はやはり勉強しなければならない」と再反論するのを予測し、それを潰した形である。

 ヴィーガンと同じく循環論法になるはずだという私の論証は失敗していると示された。負けである。


2.でも意地汚く抵抗する(義務なので……)

 緋娜氏が指摘しているのは「現実に勉強しなくていい高校生がいて、かつそれが(原理的には)大半であること」だ。いわば現実の高校生たちを観察し、そのデータから帰納的に「高校生であること」の要件を求めている。
 そうして出来上がった要件を用いて判定すると、確かに「高校生であること」に「勉強すること」は含まれていない。したがって、「高校生なんだから勉強しろ」という命令は不当である。あるいは、不当とも言える。

 私は意地汚いので、ヴィーガンとの類否論法はいったん捨てても、まだ諦めない。「命令文とその正当化」という観点から別の反論を試みる。結論を先にいえば、「命令文を正当化する根拠としては、現実像ではなく理想像が優先される」と主張したい。

 たとえば「キリスト教徒ならば聖書の定めを守れ」という命令文を取り出してみる。これは命令として非常に正しいことのように思える。聖書の決まりごととしては、モーセの十戒が特に有名だが、そこには「安息日を守れ」「父母を敬え」「偽証をするな」などのルールが挙げられている。

 さて。ここでは仮に緋娜氏の路線、すなわち現実のキリスト教徒を観察し、「ある命令が現実に守られていなければ、その属性としては守らなくていいことだ」(勉強していない高校生が多数見られれば、高校生という属性に「勉強すること」が含まれないと言うことができ、命令文の正当性も否定できる)という論理を採用してみよう。
 事情があって安息日を守らなかったこと、父母に反抗してしまったこと、つい小さなウソをついたことなど、むしろほぼ全信者に経験があるだろう。十戒は守られてない。

 しかし、ここからただちに「キリスト教徒だからといって、十戒を遵守すべきとは限らない」と結論し、命令文の正当性を否定するのはおかしいのではないか。たしかに現実に守らないということは可能で、実際に頻繁にそうされているかもしれない。だが、それはあくまで違反』という枠組みで捉えられている。キリスト教徒としてあるべき理想像を、ある特定の命令文の正当化根拠とすること自体は誤謬ではない。

 ゆえに、緋娜氏からの次の指摘を、私は不適切だとは考えない。

「高校生だから勉強しろ」に関して「高校生は勉強することを属性としてもっているのではないか」ということが指摘された。確かに学生は勉強をすることを承知の上で入学する。
が、現実問題として高校に入学さえしてしまえば(だいたいの学校は)勉強をしなくても高校生ではいられるのでこれは不適切だと感じた。

 「学生は勉強することを承知の上で入学する」ことが緋娜氏にとっても認められるならば、現実に「勉強しないこと」が可能であるとしても、「学性なのだから勉強せよ」という命令文の正当性は変わらない。この命令文の正当性を否定する際に、「実態としては守られていないじゃないか」というのは的外れである。現実として守っているかどうかと、理想として守るべきかどうかは別問題である。そしてこのような規範的命令文は「~べき」と述べる理想に支えられるものだ。

 「高校生」とは、やはり高等な学問を学ぶべき存在である。ここに私は「高校生なら勉強しろ」という命令文は正しいと主張する。それは高校生としてあるべき理想像には「勉強すること」が含まれていると十分考えられるためである。この命令は無視することこそ可能だが、それは「違反」または「事情による特例」である。少なくとも緋娜氏の言うように「高校生であること自体に勉強することは求められない」のではない。


3.めっちゃ考えた。

 ぶっちゃけ「緋娜さんと反対の意見を支持すること」が確定路線であり、この点では私に選択権はないので、けっこうキツい反論を迫られている。たぶんもう、これ以上は出てこない。

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