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なぜ文章を書きたいのか。

なぜ、自分は文章を書きたいのだろうか。
自分のやりたいことは何なのだろう。少し考えてみることにした。

誰かに認められること?
自分を好きになれること?

あれもこれも浮かんでくるけど。
なんだか、どれもしっくりこない。

といいつつも、日頃のツイートをみていれば格好つけて字面ばかりいい理想論を吹聴しているではないか。

なになに、読んでみよう。

人と自分に夢を与えたい。
世界が面白いということを証明しつづけていたい。
個性たちが咲き誇る世界にしたい。

きっと、考えているときは興奮しているのだろうけれど
どれも具体性がなく、あとになってみると想像がしづらい。

でも、言いたいことはわかる気もする。
要するに、こうだ。

僕は、人生を楽しく過ごしたい。
自分や他人を責め続けるような生き方はしたくない。

自分自身がクソ真面目な性格だからなのか、
自分やだれかをずっと責めがちで、もう半ば嫌になっていたんだと思う。

だから、誰かを敵にするような生き方を辞めたい。
とはいえ、結局そんなに理想通りにことは運んでくれない。

他人を敵に仕立ててあげたほうが、自分の身を守りやすいからだ。

人間は弱い。いつここから自分が消えてしまったとしても、困るのは職場の上司か家族くらいだろう。もちろん、それでも贅沢なくらいだ。

だからといって、外に敵を作って愚痴をたれていても現状は変化しない。

そういう意味では、現実は残酷なのかもしれない。
でも、現実は捉え方にとっては天国にだってなれるときがある。

楽しいと思えることを、いろんな人と一緒に作り上げてきたとき。
爆笑したり、切ないストーリーを味わって子供のように泣きわめいたとき。

明日もっと良い未来が待っていると信じることができたとき。
鼻の奥へと入ってきた新鮮な空気を、呼吸を意識して入れ替えているとき。

僕は、そういう日常にある些細で好きな心の動きをみつけてあげたい。

物事をつぶさに観察して理屈を完全に信じることもやめて、
ときには、適当な感情論に流されることだってあるだろう。

それでも、やっぱり「どう捉えるか」次第で楽しくすることだってできる。世界が面白いということを誰かに証明したいのではない。

世界を面白くて仕方ないものにしていきいのだ。まだ見ぬ可能性の宝庫にしたいのだ。

あるいは、そう捉えられたときの感動や情景というものを自分の脳裏に焼き付けて二度と忘れたくないのだ。

だから、今日もこうやって文章に書き留めておくことにしたいと思う。

体力的に、サイトを辞めるか本業に従事するか、そのうち決めるときが必ず来ると思います。もしサポートがあれば、そのとき独立するための原資として使用したいと思います。