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大昔の採用を覗いてみる

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

ドイツ帝国の宰相、ビスマルクの言葉ですね。
歴史はいつも多くの事を教えてくれますね。

こんにちは、エンジニアのてらすまです。
普段はbosyu Jobsを作ってます。

ふとbosyu Jobsを作っていて、採用ってどんな歴史を歩んできたのだろう、昔は面接で何を聞いていたのだろうと疑問に思いました。
意外とこういった庶民の歴史って知らないことが多いですね。

そこで興味本位で大昔の採用がどんなものだったのかを少し調べてみました。(専門家ではないのでざっくりですし、感想も完全な個人のものになります)

江戸時代

大昔は家業を継ぐのが当たり前のイメージがありますが、「桂庵」もしくは「口入れ屋」という職業紹介所があったりもしました。

しかし江戸時代は太平の世、多くの武士たちが職に困ったと聞きます。
仕える主君を失ったりもしたようです。
その場合、新たな仕え先を見つけてという、まさに現代における転職ですね。

面白いのが桜井武兵衛という戦国末期から江戸時代初期の武士の履歴書が残っているんだそうです。
彼は北条家に仕え、北条家が敗れると転職をしなければなりませんでした。その履歴書にはどんな功績を残し、さらにその証人になる人は何処に住む誰々で……と、そこまで書いてあるらしく驚きました。

明治時代

明治維新を経て、日本も近代化した時代です。

この時代は色々と事情が変わってきます。
まず大学が出来たこと、そして近代化にともなって職業が増えたことが大きかったようです。

新聞による求人広告が始まったのもこの時代です。

「大商店会社銀行著名工場家憲店則雇人採用待遇法」という1904年(明治37年)に掲載されているとある大企業の応募資格を見てみます。

以上社員は、如何なる方法を以て採用するかと申せば、先ず以て慶應義塾、高等商業学校、早稲田専門学校及び、私立商業学校の出身者を取り、一に履歴を標準として別に試験をしない、特に同社に慶應義塾の出身者が多いのは、阿部社長が同塾に在った縁故より出たのださうで、時には社員の紹介に依り他校出身者も取ることがあるが、夫れにしても体格検査が必要で(中略)学識と体格とを相俟って初めて採用と決する、之れでよいと定まれば肝腎なのは保証人、之れに立つべき人の資格は紳士録に載って所得税を納むる者二名、此の資格がなければ保証人を許さぬ。
出典:大商店会社銀行著名工場家憲店則雇人採用待遇法 1904 p262

大体要約すると

1. 慶應、一橋(おそらく)、早稲田、私立の商業学校の出身者をとる
2. 大学出てるから試験はしない
3. シャッチョが慶應出身だから慶應の人が多いよ
4. 社員紹介で上の出身者以外も取るけと体格検査が必要
5. 受かっても保証人が紳士録に載ってる人、二人が必要

という感じです。「紳士録」というのは官僚、大企業の役員、芸術家など著名人のうち、存命で活躍している人物の情報を掲載した本のことです。
これはハードル高すぎる……

その他、学歴を問わないところもあれば、基本は大学出身者のみだったり、試験をしたりしなかったり、様々ですね。男女差別になるような文章も全開です。
共通で必要なのは体格検査(身体検査)ですね。このあたりは時代を感じるところです。
今では治る病気も当時は不治の病だった時代ですからね。兵役なんかも関係あったかもしれません。

労働条件等は詳しく書いてあります。これは現代と通ずるものがありました。
そして企業の歴史や創業者の苦労話なんかが強めに書かれているなと。どことなく、うちは立派ですげぇとこだから!って言い争っているようにも感じました。

大正時代

第一次世界大戦による好景気と、戦後や関東大震災の不景気がやってきた時代。
そしてもっと大学を増やして優秀な人材を育てようという大学令が出された時代でもあります。

「東都浮浪日記」という著者が田舎から上京した田舎者に変装し、就職活動を経験してみた体験記です。
簡単にどんなことが起こるか要約すると

上京する
→宿探す
→宿の場所を人に聞いたらお金取られる
→不審者で警察に捕まる
→釈放されるためにお金払う
→職業紹介所に行き紹介状を書いてもらうためにお金払う
→職場に行ったらそんな紹介所に頼んでないと門前払いをくらう
→こんな感じのことをループ
→ようやく職が決まったら、保証金が必要で多額のお金を取られる
→すぐにクビになる、保証金は返してもらえず
→お金ない!

同じ国の出来事とは思えない話です。とにかくお金お金ですね。

関係ないですがこの本にはダークサイドという言葉使われており、大正時代に使われていたのには驚きました。

昭和(戦前)

世界恐慌による不景気で「大学を出たけれど」が流行語になった年もありました。

「就職と面談の秘訣」という本が1930年(昭和5年)に出ています。同じタイトルのものが現代にもありそうな感じですね。この本に当時の面接の例が載っていました。

「君の趣味は何か」
「私の趣味は釣と謡曲と観劇と昼寝であります」
「それから外にないかね」
(中略)
「何かこの役所に入った上は、(中略)例へば調査とか、何々の研究とかさうしたものがありさうなものだが……」
「いや、さういふことは私の趣味ではありません」
「では、君は何んのために此処に就職を希望したのかね」
「パンのためです」
「よろしい。君は正直でよい」
出典:就職と面談の秘訣 1930 p179, p180, p181

これは合格したようです。パンのため、というのは食べるためという意味ですかね。

そして同じく趣味を聞かれた場合の不合格の例も載っています。

「先づ第一に朝早く起きること、第二に精神修行の本を見たり(略)」
「偉い嗜好の所有者もあったものだね。君、それは君の本心から出た本当のことかい」
「(省略)素より本当のことです」
「それほど君は聖人君主見たいなものなら、(中略)宗教家にでもなったらどうだ」
「いや、私はこの役所の上官の方々がすべて立派な精神的の方々でありますから(略)」
「よろしい。では聞くが、君は所謂この役所の人々の名前を一々列挙し給へ」
「………」
出典:就職と面談の秘訣 1930 p179, p180, p181

嘘はバレるということですね。いつの時代も一緒のようです。

当時、この面接を痛烈に批判している人もいました。「一九三六年就職相談」という1936年(昭和10年)の本を見てみます。

ところで、面会試問なるものの実際はどうか、といふに、大部分は、実は人を馬鹿にした形式的なものに過ぎないのである。
出典:一九三六年就職相談 1936 p100

馬鹿って言っちゃってますね。この後も企業側の面接に関して延々と痛烈に批判しています。

しかし次のような内容も出てきます。

(ホ)実力主義の傾向
以上に述べたところは、詮衡試験なるものが、いはばインチキの標本みたやうなものだといふことを示すにあった。しかし、最近では、一部分ではあるけれども、やや変った傾向が現はれて来たやうだ。断るための採用試験ではなく、真実に、優秀な人物を選択する目的で、詮衡をやる会社も、ポツポツ見受けられるやうになった。
出典:一九三六年就職相談 1936 p105

「詮衡」は「選考」の元々の書き方です。この言葉も元々「銓衡」という字でしたが、「詮衡」という誤用が定着したようです。

この頃からこういった事が言われていたんですね。
結構最近に、似たような話を聞いたような気がしますが……。

ちなみに面接という言葉はこの時代にできたと言われています。とある軍人が軍事研究を行うためのメンバーを集めるときに使ったのが始まりとか。

そして戦争へ突入。就職の管理はほとんど国が行う時代がきます。

昭和(戦後)

この辺りから、親や祖父母が経験した就職活動になってくるのではないでしょうか。
自由就活も戦後になってからです。

高度経済成長期における面接の様子を再現してくださっているYouTuberの方がいました。リアルに体験されている方のものなのでなんというか圧倒されます。

ありえない!となる方もたくさんいると思いますが、両親や祖父母がこんな経験をしていたと考えると凄いなと思います。
戦前の本に出てきた実力主義の採用とやらはどこへ行ったのやら……

そして平成、令和へ……この辺りは体験されている方も多く、記憶に新しいことだと思うので省きます。

まとめ

だいぶ資料に頼った内容になってしまいましたが。
両親、祖父母、曽祖父母のたった四代だけでもこんなに違いがあったんですね。
調べていて当時を暮らす人々のリアルな声が聞こえてきて、タイムスリップした感覚になりました。今回の資料も全て国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができるので暇と根気がある人はタイムスリップしにいってみてください。

しかし、何処か今の就職活動に根付いてる何かが見え隠れしている様な気がしました。

そして求人というものが人々の生活へ結びつく大事な歴史的資料になることを知りました。
bosyu Jobsに載る求人もいつか未来を生きる人々の道標になるかもしれませんね。
是非使って求人の歴史を刻んでください。

最後にドイツの哲学者ヘーゲルの言葉で閉じます。

歴史を学ぶと、我々が歴史から学んでいないことが分かる。


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