見出し画像

閑人閑話 「分針のない時計」

寝室の壁掛け時計は,27 年ぐらい前に友人から貰ったものである。

秒針のない落ち着いたデザインの時計で,周りのフレームは革張りになっている。

この時計,厚さが 10mm しかない。壁掛け時計をそこまで薄くする必要性はないと思うのだが,技術的にもデザイン的にも手間を惜しまず丁寧に作られている感じがして気に入っていた。

この時計が止まってしまった。
原因は電池切れだろうと思い,特殊なサイズのボタン電池をホームセンターで探し出して付け替えた。案の定,時計は問題なく動き始めた。

時間を合わせるために,針を回し始めたところ,すぐに「分針」が動かなくなってしまった。「分針」だけがムーブメントから緩んでしまったようで,「時針」は動いている。

元々薄い作りの時計は,表面のガラスの真ん中を指で押すだけで,「分針」を押し込むことができた。
これでいいだろうと思い,再度時間を合わせようとすると,今度は「分針」が完全に外れて文字盤の下の方に落ちてしまった。根元から折れてしまったようだった。

修理に出すようだけど買い替える方が安いかなとか思いながら,なんとなく元の壁に戻してみた。

時間は正確だが「分針」のない時計。使い物にならない時計。

そんな時計を眺めながら,どんな時計も「分針」と「時針」があるのに,秒針はあるものとないものがあることに気が付いた。
秒針の役割は何だろう,時間の精度はどのくらい必要なのだろうといろいろと考え始めた。

秒単位で正確に動く時計を,今は誰もが当たり前に使っているが,考えてみれば昔からそうだった訳ではない。

幼い頃,我が家の時計はゼンマイ仕掛けの柱時計と,モーターで動く電池式の枕時計だけだった。週に数分ぐらい狂っていたのではないかと思う。いずれも秒針は付いていなかった。

その頃は時計を持ち歩くことなどもちろんなく,親には「暗くなる前に帰ってきなさい」と言われていた。「丑三つ時」レベルの時間感覚だったわけだが,それで十分だった。

小学生の時に初めて三針式の腕時計を買ってもらった。
手巻きのディズニー時計で,大した精度ではなかっただろうと思う。嬉しくてお出かけの時は必ず付けていったが,アクセサリーのようなもので、もちろん秒針を必要とすることはなかった。

通っていた中学校には時計が教室になく,各階の長い廊下の真ん中に一つだけ設置されていた。秒針がついていたかどうかは覚えていないが,時計が示す時間よりもチャイムの鳴動のほうが生活の基準だったので,その時計がどの程度正確だったのかはあまり問題ではなかった。

時間を確認するのに苦労する校舎だったので,この頃のトレンドは腕時計を持つことだった。
まずは自動巻きであることが最初のステータスだった。次に時計に組み込まれた石の数が重要で,十何石だ,二十何石だといって自慢していた。そして「俺のは一日で○秒狂う」「僕のは一週間で○分しか狂わない」といった会話に発展するのがお決まりだった。「秒」という単位を具体的に意識したのはこの頃が初めてだと思う。

この頃の時計はこまめに時間を修正しなければならなかったし,遅刻した時などは「時計が狂ってしまっていて…」というフレーズが言い訳として通用する時代だった。

高校生ぐらいになると,月差数十秒というクォーツ腕時計が普及し始め,日常の時間の精度は格段に向上し,それは無条件に良いことだと思っていた。
初めてデジタル腕時計を買ったのは働き始めた年だったと思う。

今では電波時計が当たり前になり,スマホを腕時計代わりにする人も増えて,もはや正確ではない時間を認識する機会のほうが少なくなってきている。

ところが,技術の進歩とともに時間が正確になり続けたかというと,そうでもない。

テレビのアナログ放送の時代には,正時にアナログ時計を表示して,秒針とともに「ピッ,ピッ,ピッ,ポーン」と時報を放送していたが,地上デジタル放送になってからはなくなった。

地上デジタル放送は信号の圧縮・展開が行われてから映像が表示されるが,視聴者の環境によって展開にかかる時間が微妙に異なるため,そのような時間表示ができなくなったという。

正確無比とも思えるテレビ放送が,わずかだが時間にルーズになってしまった。それでも,視聴者が困ることはほとんどないだろうと思う。

日常生活の中で,時間の精度はどこまで要求されるだろうか。

電車の時間や,会議の時間は分単位で気にしなければならないが,それでも秒単位の精度は要求されないように思う。それら以外の日常の時間は,数分の誤差があっても大した影響はないのかも知れない。

もしかすると正確な「分」が分からなくてもいいことが,案外多いのかも知れない。

毎朝スマホのアラームを目覚ましに使っている。
まさに秒単位で正確に鳴動する。

だが,それ以外は寝室の中でそんなに正確な時間を必要としない。
というよりも,せめて寝室ぐらい曖昧な時間が流れていてもいいように思う。

この頃は,分針を失った時計を見上げて「○○分位かなぁ」と想像する。そんな感覚が,とても心地よい。

結局、分針を失ってから 7 年も使っている。
今の電池が切れたら時計を買い替えようと思っていたが、もしかすると次も電池を替えるかもしれない。



2023 / 12 / 5



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?