もくたろう/園芸業従事者

植物好きが高じ鉢物業界に飛び込んだアラサー男子。群馬県に移住し、毎日、食べ(られ)ない…

もくたろう/園芸業従事者

植物好きが高じ鉢物業界に飛び込んだアラサー男子。群馬県に移住し、毎日、食べ(られ)ない嗜好性の強い植物とまみれています。 ブログも運営中。https://botanicalog.net/

最近の記事

プレイステーションをプレイするのはきっと、「楽しい」んだろうなぁ。

僕は「プレイステーション」をプレイしたことがない。 …というと語弊があるかもしれないが、歴代のプレステが家には一切ない。 たまに友人の家で遊んだことはあるが、それでもコントローラーの使い方が分からないので、適当に乱打することで終わるのだ。 今日、プレイステーション5が発売された。 けれどなぜ、スマートフォンやタブレットなど、あらゆる端末が溢れる現代にあって、専用のハードを重ね重ねリリースするのだろう。 最近、「楽しいことないかな」と口にすることが多くなった。 この際だから

    • 「園芸」の「芸」は「お家芸」の「芸」。

      今日は「園芸」ってなんで「芸」が付くんだろうということを考えながら仕事していた…。 「芸」とはそもそも「学問や武術・伝統芸能などの、修練によって身につけた特別の技能・技術。技芸。」のことを言うそう。 というのも今日、職場の女性従業員から「新しい人が入ったらこの仕事、できると思う?」という一言があったから。 あわせて連日報道されている「契約社員の格差」問題も共通する点があると思う。 つまり「スキル」の考え方が少しずつ変わってきているのだろう。 「農業」という仕事の大部分は、

      • コロナの次に都市部から農村にやってくるもの

        最近考えていること。 コロナショックはそれまでの仕組みを変えてしまうインパクトがあるということを、あちらこちらで耳にするようになった。 僕はある意味、地方にとって重大な局面なのではないかと思う。 そもそもPCR検査を着実に行わないことで、感染者数を左右でき、あたかもアンダーコントロールが可能なように振る舞うこと自体がこれからの歴史に汚点を残すと思う。 1つは、国や厚労省の「クラスタ対策班」が感染者推移を発表する場面を報道で見かけるが、必要なPCR検査をしていないのにどうし

        • 縮小の地方。「自由」に変わることでしか解決しない

          つい先ほど、こんな記事を見かけた。 併せて「農業新聞」の記事も読む。 https://www.agrinews.co.jp/p50369.html が、読後に違和感を生じて仕方がない。 どこかズレていると、率直に僕は思った。 書いてある内容の大部分は僕も賛同すべきことなのではあるが、農に寄り添うことが地方を活性化することのすべてではない。 地方が変わらないのは農業を「神聖化」し過ぎているから。 農村に存在する「勤労」の観念にとらわれ過ぎてしまっているから。 「スマート」

        プレイステーションをプレイするのはきっと、「楽しい」んだろうなぁ。

          お願いだから「コロナ疎開」だけはやめて。

          「コロナ疎開」という言葉が、この緊急事態宣言を前に飛び交っている。 新型コロナウィルスの患者が増加傾向にある都心部から、まだまだ感染者数の少ない地方へ文字通り「疎開」しようという動きである。 どうやらここ数日間、疎開先を求めてさっそく「外出」を試みるひとがいるのだそうだ。 無礼を承知で汚い言葉を申し上げれば、 こんなときに限って被害者ヅラして、田舎に戻ってくるんじゃねえよ と言いたい。 我が群馬県の山間部では、町民の40%以上が65歳以上の高齢者である。 僕の働く職場

          お願いだから「コロナ疎開」だけはやめて。

          僕らは「不要不急」を生きていたんだ。

          「新型肺炎」の感染者がはじめて日本で確認された日。 あれは1月ごろだったろうか。 そのときのニュースで報じられたキーワードに「濃厚接触」があった。 それまで聞いたこともない「濃厚接触」という言葉に僕は、いかがわしい思いを巡らせてしまったのは言うまでもない。 厚生労働省による濃厚接触の定義は、 必要な感染予防策をせずに手で触れること、または対面で互いに手を伸ばしたら届く距離(目安として2メートル)で一定時間以上接触があった場合に濃厚接触者と考えられます。 とのこと。 今

          僕らは「不要不急」を生きていたんだ。

          【農水省Youtuber】「花いっぱいプロジェクト」は一過性に終わったりしない?

          たぶん、こういう論調の記事を業界関係者が目にすると、イラッとするのだろうけれど、書かずにいられないので書こうと思う。 新型コロナウィルスで、入学式や卒業式などのイベントの中止が相次ぎ、花の需要が落ちていると報道が多方で寄せられた。 農林水産省などがそれに呼応するように、奇抜な動画で需要喚起の呼びかけを行い、大手生花店でも、SNSなどの利用で花の利用を周知している。 地方に住まう僕ですら、ホワイトデーのときにはスーパーの生花を購入する人を数多く見かけたりもした。 そして僕は

          【農水省Youtuber】「花いっぱいプロジェクト」は一過性に終わったりしない?

          じぶんごと=能動的スイッチはどこにあるんだろう?

          植物を育てるキッカケってなんだろう。 僕が得てきたキッカケは、小学校時代のインゲンマメ栽培だし、曾祖母から貰ったカネノナルキだし、高校生時代の観葉植物栽培にある。 年々、育てる植物への興味が移行し、ついには20代のはじめ「アドロミスクス」という多肉植物に出会ったことが、植物に深くのめり込む大きなきっかけをつくった。 そして気が付くのは、植物を育てるという趣味園芸は、極めて能動的なカルチャーであるということ。 いや、趣味全般において言えることではあるが、自らが進んでその趣味

          じぶんごと=能動的スイッチはどこにあるんだろう?

          バカバカ罵っているうちに好きになっちゃうこともあるよね

          小学5年生のとき。 とにかく嫌いなクラスメイトがいた。 家が近所のT君は5年生なのに登校班の班長をしている。 僕は別の班の副班長だ。 班長が先頭を歩き、副班長が最後尾を守るというのが決まりで、およそ10人前後で登校をする。 T君の班はいつも一糸乱れぬ隊列を組み、しかも歩くのが速い。 そうすると後ろから「遅えよ」と小言を言われ、あっという間に僕らの班は抜き去られてしまう。 歩くスピードは低学年がいるかどうかによっても違うし、そもそも班長の考え(性格?)もある。 それを知って

          バカバカ罵っているうちに好きになっちゃうこともあるよね

          業界に足りないのは、園芸を楽しむこと。

          僕は常々、園芸を生業に携わる人間は、私生活においても園芸を愉しむべきと考えている。 むしろ、そうしていかなければあらゆる「娯楽」が乱立するなかで、園芸の「娯楽的な楽しみ」に思いを馳せられなくなる。 その末に待ち受けるのが、いまもすでに斜陽産業と言われる僕らの業界の没落と伝統の逸失だ。 そんな今日、内田樹さんのブログに掲載されていた記事を読んだ。 時代には「政治的な季節」と「非政治的な季節」があり、現代は「非政治的な季節」に当たるのだと。 その理由は「生活」と「世界」とが密

          業界に足りないのは、園芸を楽しむこと。

          「下戸に花を売る」のがムリなのは、「下戸を理解しようとしない」から。

          この記事を読んであきれ返ってしまった。 いや、これがコトの本質かと、むしろ気がついてしまった。 まずはこの記事から。 花産業でできることとは独自の消費拡大活動。 あたらしい物日をつくる。 それはそれでよかったのだが、対象が漠然としすぎていた。 すなわち、「下戸にお酒を売ろう」とした。 ムリがあった。 花に興味がないひとに、花を買ってもらうのは至難の業。 令和新時代の消費拡大活動は、「下戸にお酒を売ろう」とした平成の反省からはじまる。 令和の活動は、「すでに花を買う

          「下戸に花を売る」のがムリなのは、「下戸を理解しようとしない」から。

          もう「田舎」がコモディティ化していることにいい加減気づけよ。

          またかよ、と思った。 詳しくは書けないが、我が地域のブランドは他の市町村と同じようなコンテンツで攻める方針とのこと。 いやいや、それ5年ほど前からオリンピックに向けてあらゆる団体が試行錯誤を繰り返し、すでに一部の企業がシェアを拡大している状況だから。 いま参入したとしても、付加できる強みはほとんどないし、出来上がる商品も差別化できない。 さらに商品化したところで、誰が買うのだろう? 買った客はどのように活用するのか? 加えて、もしも購入されたとして、地域のオリジナリティをど

          もう「田舎」がコモディティ化していることにいい加減気づけよ。

          人々が脱出する地域にこれから来ようとする人へ考えてほしいこと。

          今日の農作業中、こんな話題があがった。 近隣の地域では、地元の農家を研修先としながら、使われなくなった農地をやる気のある若者などに提供している。 来年度にはその地に、複数人の若者が参入するという。 これには役場の職員も喜んでいるのかと思いきや、実はそうではないらしい。 なぜか。 誘致を担当する職員でさえも、集落では「オマチ」と呼ばれる栄えた場所から通勤している。 表向きは喜ばしいことだと振る舞っていても、内心はいつまで生活できるのかと不安なのだそうだ。 もともとその地

          人々が脱出する地域にこれから来ようとする人へ考えてほしいこと。

          「どこかの誰か」と「誰でもない他人」

          かねてから僕は周囲に「群馬のほうが生きやすい」と伝えている。 群馬の山間部に移住してから今年で4年が経とうとしている。 僕はまだ、この地域では外部の人間だ。 それは僕が感じているところだし、きっと、集落の人からもそのように見られていると思う。 あいつはどこかの誰か、だと。 同じくして僕も、集落に出会う人のことをどこかの誰か、と認識する。 そして年末年始、地元、神奈川県へと帰省。 年末にり患したインフルエンザの外出禁止令が解けたので、食料品を買いにスーパーへと出かけた。 レ

          「どこかの誰か」と「誰でもない他人」

          僕は彼女から何を教わったのだろう?

          先日、職場に手伝いに来ていた女性が亡くなった。 享年83歳。 亡くなる直前まで働きに出て、いつもどおりの生活を送っていたという。 地域のあらゆる手仕事を掛け持ちし、長い間、多くの人と関わり合ってきた。 作業の素早さもさることながら、正確性は群を抜いていた。 だからこそ、彼女が亡くなるのは集落にとって大打撃であることは間違いない。 80歳という年齢は、決して若いとは言えない。 しかし、農業という生業を日々の生活に落とし込み、「農作業」という型が身体に染みついている。 いわば

          僕は彼女から何を教わったのだろう?

          「ジャンル」のシームレス化が進むワケ

          いま、観葉植物や、熱帯植物、サボテンなど、古くから棲み分けされていた植物趣における「ジャンル」の壁が取り払われようとしている。 植物を育てること自体がすべて、面白いことという認識が広まりつつあるのだ。 いわば「サボテンが趣味」ではなく、「植物を育てることが趣味」というカタチがスタンダードになろうとしている。 その理由はただひとつ。 情報伝達技術が発達したから。 それによりあらゆる植物の存在が知れ渡り、いまや国内には続々と新品種が輸入されている。 また、一部の趣味家のみが古

          「ジャンル」のシームレス化が進むワケ