見出し画像

【沖縄戦:1944年3月22日】沖縄守備隊「第32軍」の創設 「琉球に於ける我軍は軍紀弛緩し婦女を凌辱する等のことあり」─軍内部資料に見える第32軍の戦時性暴力

第32軍の創設

 沖縄への米軍上陸が目前に迫った1945年(昭和20)3月22日の1年前、1944年(昭和19)のこの日、奄美諸島から沖縄島そして宮古、八重山諸島まで、おおむね南西諸島一帯を作戦範囲とする第32軍(兵団文字符「球」)が創設、編成された。司令官は渡邉正夫中将(1944年8月以降牛島満中将に交代)、参謀長は北川潔水少将(1944年7月以降長勇少将に交代)、高級参謀は八原博通大佐で、これらの人物が司令部の中心メンバーであり、現在の那覇市内にあった蚕種試験場に軍司令部を置いた。
 もともと第32軍は、マリアナでの航空作戦を準備する第2線兵団であったが、マリアナ失陥に伴い、1944年7月以降急速に整備され、第1線兵団と位置づけられ、沖縄に大量の部隊が送り込まれる。
 1944年12月の段階で、第32軍は4個師団および5個独立混成旅団もの大兵力を有し、3個師団および1個独立混成旅団を沖縄島に、1個師団および2個独立混成旅団を宮古島に、1個独立混成旅団を石垣島と奄美大島にそれぞれ配置した。

第32軍部隊一覧

 なお、これら第32軍の各兵団、部隊のなかには、大陸戦線を経験していたり、大陸戦線から引き抜かれた部隊も多かった。兵士たちは沖縄住民に「米軍に捕まったら男は戦車で轢き殺され、女は強姦された上で慰安婦にさせられる」などとまことしやかに語り、米軍への恐怖心や敵愾心を植え付けたが、それはまさしく第32軍の一部兵団の過去にしみついていたことであったといえる。

第32軍資料に見える戦時性暴力

 急速に沖縄へ大兵力が展開するなかで、軍は地域の学校や民家を接収し、司令部や将校の官舎、あるいは兵士の兵舎、陣地などにしていった。こうした軍民雑居ともいえる軍と住民の近さは、一方で軍事機密漏洩をおそれる軍による住民「スパイ」視につながり、他方で兵士らによる住民への犯罪行為など様々な軍紀違反が発生にもつながっていった。なかでも問題としたいのが兵士による戦時性暴力である。
 第32軍の主力兵団の一つ第62師団(兵団文字符「石」、石兵団)の兵団会報には次のようにある。

第四九号 石兵団会報 九月七日一〇〇〇 仲間
  [略]
二 防犯関係
  [略]
2、姦奪ハ軍人ノ威信ヲ失墜シ民心離反若クハ反軍思想誘発ノ有力ナル素因トナルハ過去ノ苦キ経験ノ示ス所ナリ[略]猥褻姦通略取誘拐住居侵入等ノ犯罪ヲ犯スコトナラシムルコト[略]
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 軍首脳部が略奪や強制性交等の性暴力を相当警戒していたことが読み取れるが、そうした軍紀違反が民心離反などの悪影響をもたらすことは、「過去ノ苦キ経験ノ示ス所」としている点に非常にリアリティがある。ちなみに石兵団(第62師団)は、大陸戦線から沖縄へ送り込まれた師団であるが、石兵団に編成された部隊は、大陸で数々の戦闘に従軍し、いわゆる「三光作戦」も経験した部隊である。
 しかし、この文言だけでは性暴力の発生そのものを認めることができないが、資料には続きがある。

九 軍会報中必要事項
  [略]
10 本島ニ於テモ強姦罪多クナリアリ厳罰ニ処スルヲ以テ一兵ニ至ル迄指導教育ノコト
  [略]

(第四九号 石兵団会報:JACAR Ref.C11110064900)

 このように性暴力・強制性交事件が既に多発していることが確認できる。石兵団会報の他の号にも次のように記されている

第七九号 石兵団会報 十月二十六日 一六〇〇 浦添国民学校
  [略]
六 軍会報中必要事項
  [略]
3 性的犯行ノ発生ニ鑑ミ各隊此種犯行ハ厳ニ取締ラレ度
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 このように軍の内部資料に第32軍による性暴力の事実が明記されており、第32軍による性暴力の歴史的事実は明確であり、また深刻であったといえる。沖縄戦では米兵による沖縄住民への性暴力が多発したが、日本軍もまた沖縄住民に対し性暴力を繰り返していたのである。
 その他、証言レベルでは、さらに多数の性暴力が確認できることはいうまでもない。

軍「慰安所」における性暴力

 戦時性暴力の問題は、沖縄において総計140ヵ所も設置された軍「慰安所」や「慰安婦」の問題も対象に語らねばならないが、この問題は後々また触れることもあるだろう。ここでは石兵団会報で語られたような性暴力、すなわち強制性交事件に焦点をしぼりたい。
 そうというのも、第32軍の将兵たちは「慰安所」を利用したが、その戦時性暴力の象徴である「慰安所」において、さらなる性暴力・強制性交におよぼうとしたことが確認できる。石兵団会報には次のようにある。

第七四号 石兵団会報 十月十九日一二〇〇 浦添国民学校
  [略]
十、後方施設ニ就キ
1、兵団会報第六二号ニ注意セラレアル所ナルモ未ダ兵ニシテ切符ヲ見セルコトナク各室ヲ覗キ或ハ妓女ノ手ヲ握リ強要スル者アリ又夜間切符ヲ持タズシテ張場ニ至リ断ラルヽヤ投石シ暴行ヲナスモノアリ斯ルコトナキ様注意ノコト
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

第七九号 石兵団会報 十月二十六日 一六〇〇 浦添国民学校
  [略]
八、後方施設ニ就キ
1、慰安所ノ切符ノ月日及時間等ヲ故意ニ訂正シテ持参スルモノ一人ニテ四枚ノ切符ヲ持参スルモノ翌朝〇一〇〇頃来ルモノ准尉二シテ切符ナクシテ飲酒泥酔シテ登楼シ張場又ハ妓女ノ部屋ニ寝転ヒ無理ヲ強要スルモノアリ[略]

(同)

 後方施設とは「慰安所」のことである。日本軍「慰安所」そのものが戦時性暴力の象徴であるが、そこにおいて最低限のルールである金銭(切符)すら支払わず、飲酒した上で侵入し「慰安婦」に対し性行為を強要する将兵の姿が確認できる。

軍中央による第32軍の軍紀違反の把握

 こうした第32軍の軍紀の乱れは、中央政界や軍中央でも問題視された。例えば第2次近衛文麿内閣で首相秘書官を務めた細川護貞の日記「細川日記」によると、1944年12月8日の日記として

[略]高村氏の話として、琉球に於ける我軍は軍紀弛緩し民家入りて物をとり、婦女を凌辱する等のことありと。是支那にありたる部隊なりと。

とある。また12月16日の日記として

昨十五日高村氏を内務省に訪問、沖縄視察の話を聞く。[略](十・十空襲で─引用者註)焼け残りたる家は軍で徴発し、島民と雑居し、物は勝手に使用し、婦女子は凌辱せらるゝ等。恰も占領地に在るが如き振舞いにて、軍紀は全く乱れ居り、指揮官は長某にて、張鼓峯の時の男なり。

とある。ここでいう内務省の高村氏とは、内務省で警察畑を歩み、細川と同じく近衛内閣で首相秘書官も務めた高村坂彦のことだろうか。高村の談は、石兵団会報の記述と合致するものであり、正確といえる。既に中央政界でも沖縄の現状が問題視されていたのである。
 こうした状況下、沖縄を視察した若手参謀が第32軍の軍紀違反を軍中央に報告したため、軍中央から沖縄憲兵隊に調査の指示が下った。しかし第32軍長勇参謀長が報告した若手参謀を恫喝し、事件をもみ消してしまい、結局うやむやとなってしまったようだ。
 このように第32軍の内部資料はじめ関係資料には、軍による様々な性暴力が報告されている。第32軍が編成されたこの日より、第32軍が沖縄において何をおこなったのか、あらためて知る必要がある。

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・玉木真哲『沖縄戦史研究序説 国家総力戦・住民戦力化・防諜』(榕樹書林)
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)

トップ画像

第32軍将校たち 前列中央が牛島司令官、牛島司令官の左が大田実海軍沖縄方面根拠地隊司令官、牛島司令官の右が長参謀長:那覇市歴史デジタルミュージアム【資料コード02000407】