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【沖縄戦:1945年2月16日】沖縄戦に動員された朝鮮半島出身者たち─特設水上勤務隊が海上挺進戦隊に配属される 米軍、硫黄島への艦砲射撃を開始

特設水上勤務隊が海上挺進戦隊へ配属

 第32軍の戦力自力増強の方針により、陸軍の特攻艇部隊である海上挺進戦隊の後方支援任務をおこなう海上挺進基地大隊が歩兵部隊へ改編されたのをうけ、これまで港湾で物資の揚陸作業などを担っていた朝鮮半島出身者の軍属(いわゆる「朝鮮人軍夫」)を主体とする特設水上勤務隊(水勤隊)がこの日、海上挺進戦隊長の指揮下に入り、特攻艇の泛水作業などこれまで海上挺進基地大隊が担っていた任務に就くことになった。

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慶良間諸島で米軍の捕虜となった朝鮮半島出身軍属たち トップ画像と同じ:沖縄県公文書館【写真番号113-05-4】

水勤隊の編成

 水勤隊は1944年(昭和19)、沖縄に第32軍の大兵力が集結するなかで、物資の揚陸作業などの必要から編成され沖縄に派遣されたわけだが、その編成の仕方は非人道的であり、また違法なものであった。
 1944年6月、朝鮮半島の慶尚北道の各郡守が集められ、わずか1週間で軍属として朝鮮の若者を集めるよう指示が下された。当然、本人の意向を確認して徴用していたら間に合わないため、徴用名簿に載っている者を片っ端から警察や役人が引き立てたり、あるいは「いい仕事がある」「村の仕事だからすぐに終わる」などの甘言によって、慶尚北道一帯の若者が大邱に集められ、水勤隊に配属させられた。
 大邱では水勤隊の訓練もおこなわれたが、少なくない数の者が脱走したそうだ。また、脱走に失敗して捕まった者は、顔が変形し立てなくなるまで暴行されたといわれている。
 こうして水勤隊は第101中隊~第104中隊までの四個中隊(一個中隊は総員約700人で3個小隊からなる)で編成され、船で大邱を出て下関を経由して1944年8月ごろに奄美・沖縄に配備され、港湾での揚陸作業に従事した。
 なお、この日、水勤隊全てが海上挺進戦隊長の指揮下となったわけではなく、水勤隊第103中隊と第104中隊の第1小隊が慶良間諸島に渡り、同島に配備されていた海上挺進第1戦隊~第3戦隊の指揮下に入った。第104中隊の第2小隊、第3小隊は沖縄島に残り、特設連隊に組み込まれ地上戦で壊滅している。
 それ以外の部隊については、水勤隊第101中隊は宮古島と石垣島に配備され、直接的な戦闘に巻き込まれることなく終戦を迎えた(ただし飢餓やマラリア、空襲に苦しめられた)。第102中隊は奄美大島や徳之島で作業ののち、第1小隊を奄美大島に残し、第2小隊、第3小隊が沖縄島に配備された。第2小隊、第3小隊は米軍上陸後、特設連隊に組み込まれて地上戦に動員させられ全滅している。

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大邱の水勤隊第104中隊が昭和19年8月に那覇に上陸し、翌年2月に慶良間に1個小隊が移動、同年6月全員斬込隊となった旨が記されている:沖縄作戦に於ける特設水上勤務第104中隊史実資料(アジア歴史資料センター Ref.C11110213700

「処刑」された朝鮮出身者の軍属たち

 1945年3月26日、米軍は慶良間諸島へ上陸を開始し、数日で同諸島を制圧・占領するが、部隊を常駐させたのは座間味島だけであった。そのため阿嘉島や渡嘉敷島では米軍との対峙という極限状態のなかで海上挺進戦隊など軍による島の支配が続いた。そのため軍は住民を「スパイ」として「処刑」したり、住民の食糧を強奪するなど横暴をはたらいた。
 そうしたなかで、軍による水勤隊の朝鮮半島出身軍属への仕打ちは特にむごいものがあった。朝鮮半島出身軍属は「ポケットに米粒が入っていた」「食糧を勝手に食べた」といった理由で「処刑」されたり、朝鮮半島出身軍属の一部が米軍へ投降したことをうけて、大きな穴に収容され檻をされて監禁されることもあったという。
 ちなみに水勤隊は陸軍部隊であるが、海軍部隊にも朝鮮半島出身軍属が多数いた。例えば豊見城の海軍司令部壕を建設した海軍第226設営隊には朝鮮半島出身軍属が一定数配属され、築城作業などに従事させられたことが確認されている。また小浜島には海軍の特攻艇部隊である第38震洋隊や第26震洋隊が駐屯したが、ここでも朝鮮半島出身軍属が築城作業に従事しており、奴隷のように扱われ、木に吊るされリンチにあっていた姿が目撃されている。

[証言記録 市民たちの戦争]“朝鮮人軍夫”の沖縄戦:NHK戦争証言アーカイブス

「慰安婦」にさせられた朝鮮半島出身の女性たち

 なお沖縄戦に参加させられた朝鮮半島出身者は軍属だけでなく、「慰安婦」とさせられた朝鮮出身の女性のことも忘れてはならない。第32軍の沖縄駐屯とともに、沖縄には100箇所を超える慰安所が建設されたが、沖縄や本土の女性とともに多くの朝鮮半島出身の女性たちが「慰安婦」とさせられたのである。
 水勤隊が配備された慶良間諸島にも座間味島や阿嘉島、渡嘉敷島に慰安所が設置され、朝鮮半島出身の「慰安婦」が働かされたといわれている。特に渡嘉敷島の慰安所は、初めてみずからを「慰安婦」であったと証言した朝鮮半島出身のペ・ポンギさんが働かされていたことで知られている。
 その他、飛行場建設を請け負った民間企業の労務者としても朝鮮半島出身者が多数いた。これら労務者のなかには、現在話題となっている徴用工のような人もいたのかもしれない。

「戦友よ待つてゐる 国頭の受入態勢整ふ」─当時の報道から

 中南部の住民の北部疎開は引き続き進められており、この日の沖縄新報には、国頭郡教育部会は10万人でも15万人でも引き受けるとの意気込みが報じられている。
 なお、この日の沖縄新報には他にも「伊場内政部長は熊本で開催の国民貯蓄協議会へ出席のため14日急遽出張した」と県幹部の本土出張が報じられている。
 この伊場内政部長の出張がそうであるとはいえないが、このころ、県幹部や県議会議員など有力者が何か用事を見つけては本土へ出張し、そのまま沖縄に戻らないケースが続発しており、「戦列離脱戒む」「官公吏の徒らな県外出張」といった報道がなされた他、「近ごろ島の偉い方は、皆内地に行ってしまわれますね」などと辻の芸妓が軍幹部に漏らすこともあったという。

硫黄島の戦況─米艦隊が硫黄島を包囲、砲爆撃を開始

 日本に接近中であった米機動部隊はこの日未明、東京南東約200キロメートルに進攻、早朝から夕方まで艦載機延約1400機が東京、東海の飛行場や港湾施設を空襲した。日本軍側も激しく反撃し米軍機100機以上を撃墜したが、大きな損害をうけた。
 これと並行して米機動部隊はこの日朝、硫黄島に押し寄せ、空母群は島の南方約80キロメートルに、また戦艦6、巡洋艦5、駆逐艦16、高速輸送船や掃海艇など数十隻が島の5キロメートルから16キロメートルに接近して島を包囲し、終日、飛行場や重要な陣地である摺鉢山に向けて艦砲射撃をおこなう一方、艦載機による銃爆撃をおこなった。硫黄島を守備する栗林忠道兵団長は、こうした米軍の動きから上陸近しとして部隊を甲配備につけた。
 この3日後の19日、米軍は硫黄島に上陸する。5日程度で占領できると高を括っていた米軍だが、栗林忠道中将率いる部隊は3月25日ごろまで戦い続けたといわれる。
 硫黄島の戦いでは沖縄戦同様、航空特攻作戦が展開された他、沖縄戦に投入される義烈空挺隊による空挺特攻も企図されるなどした。

[証言記録 兵士たちの戦争]硫黄島 地下壕に倒れた精鋭部隊~鹿児島県 陸軍歩兵第145連隊~:NHK戦争証言アーカイブス

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『那覇市史』資料編 第2巻 中の2
・大田静男『八重山の戦争』復刻版(南山舎、2014』第20号、2017年)
・川田文子「渡嘉敷と座間味の『慰安婦』」(季刊『戦争責任研究』第87号、2016年冬季号)

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慶良間諸島で米軍の捕虜となった朝鮮半島出身軍属たち:沖縄県公文書館【写真番号113-05-4】