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【沖縄戦:1945年3月21日】特攻兵器「桜花」─第721海軍航空隊(神雷部隊)の出撃 沖大東島守備隊F上等兵の死─陸軍における戦死者の遺骨送還について

特攻兵器「桜花」と米機動部隊の動向

 本土接近中の米機動部隊は、西日本一帯への空襲を繰り返し南下中であったが、この日米機動部隊の少数の艦載機が南大東島を空襲した。
 第5航空艦隊は、宮崎県の都井岬の南東約320カイリ付近に米機動部隊2群を発見し、やや距離があるものの天候、視界の面からふさわしいとして特攻兵器「桜花」を搭載した第721海軍航空隊(神雷部隊)の出撃を命令した。
 桜花とは、爆弾を充填したロケット(推進装置がついているためロケットともいわれるが、実際はグライダーのようなものだったともいわれている)であり、そこに特攻隊員が搭乗して操縦する。これを陸攻機に搭載し米艦船の近くまで飛行し、所定のところで切り離し、桜花を体当たりさせる特攻兵器である。桜花による特攻攻撃を訓練し、戦闘を担ったのが第721海軍航空隊(神雷部隊)であり、桜花を用いた特攻攻撃は神雷攻撃などともいわれる。
 この日、桜花を搭載した神雷部隊の陸攻機は、偵察機「彩雲」や掩護用のゼロ戦などとともに鹿児島県の鹿屋航空基地を出撃するも、米機動部隊の北方約60カイリ付近で米グラマン戦闘機約50機の邀撃をうけ、全機撃滅される。
 第5航空艦隊は神雷攻撃の失敗について、そもそも神雷部隊は速力もなく行動鈍重、また航続距離も短いため、制空権を我が方でしっかり掌握していなければ成功しないものであり、これまでの攻撃により米機動部隊に一定の損害を与えたため、制空権もある程度掌握しており、掩護機を擁すれば成功の算ありと考えたが、それが誤判断だったなどと総括している。
 この日の第5航空艦隊宇垣司令長官の日記には次のようにある。

三月二十一日 水曜日 〔晴〕
  [略]
○ 早朝索敵の結果、都井岬の一四五度三二〇カイリ付近に二群空母を発見す。敵は相当大なる損害を蒙りたるもののごとく上空警戒も少し、加えるに天候快晴視界三〇カイリ、距離やや遠くなるも神雷隊には問題たらず、十八日以来本特攻兵力の使用の機を窺い続け何とかして本法に生命を与えんとしたり。
今にして機を逸せば再び遠くウルシーに梓隊の遠征を余儀なくせられ、しかも成功の算大ならず、しかず今神雷攻撃を行うにはと決意し、待機中の桜花隊に決行を命ず。
○ 見送りのため飛行場に至る。さすがに心配顔なる岡村司令を激励す。
神雷部隊は陸攻一八(桜花一六)一一三五鹿屋基地を進発せり。桜花隊員の白鉢巻滑走中の一機に瞭然と眼に入る。
  [略]
壕内作戦室において敵発見、桜花部隊の電波を耳をそばだてて待つことと久しきも杳として声なし。今や燃料の心配を来し「敵を見ざれば南大東島へ行け」と令したるもこれまた何ら応答するなし。その内掩護戦闘機の一部帰着し悲痛なる報告を致せり。
すなわち一四二〇頃敵艦隊との推定距離五、六〇カイリにおいて敵グラマン約五〇機の邀撃を受け空戦、撃墜数機なりしも我も離散し陸攻は桜花を捨て僅々十数分にして全滅の悲運に会せりと。嗚呼。
○ これにて連戦五日にわたる九州東方対機動部隊戦闘を終結せり。
  [略]

(宇垣纒『戦藻録』下、PHP研究所)

特設連隊、旅団の編成

 第32軍牛島司令官は航空、船舶、兵站部隊などを改編し、地上戦闘を戦う特設部隊とすることを命じ、この日これら部隊の運用計画を示して地上戦闘を準備させた。
 特設部隊の編成概要は次の通り。

○特設第1連隊 長 第19航空地区司令官 青柳時香中佐 航空関係諸部隊で編成
○特設第1旅団 長 第49兵站地区隊長 高宮章大佐
 ・特設第2連隊 長 高宮章大佐(旅団長兼務) 兵站関係部隊で編成
 ・特設第3連隊 長 第32野戦兵器廠長 上田勘次郎中佐 兵器廠関係部隊で編成
 ・特設第4連隊 長 第32野戦貨物廠長 伊藤馨大佐 貨物廠関係部隊で編成
○特設第2旅団 長 第11船舶団長 大町茂大佐
 ・特設第5連隊 海上挺進戦隊出撃後の残留員で編成予定
 ・特設第6連隊 長 第7船舶輸送司令部沖縄支部長 平賀又男中佐 船舶輸送司令部や海上輸送大隊などで編成

(宇垣纒『戦藻録』下、PHP研究所)

 なお、青柳時香中佐ひきいる特設第1連隊は、米軍の沖縄島上陸時、上陸地点の付近の防衛を担当することになり、後方部隊による急造の歩兵部隊ながら一気に最前線の激戦に巻き込まれることになる。

沖大東島守備隊F上等兵の慰霊祭執行される

 沖大東島を守備する大東島守備隊第4中隊(森田芳雄中隊長)の「陣中日誌」や森田中隊長の戦後の回想録によると、3月1日夜の米軍の艦砲射撃により沖大東島の集落が炎上したが、日付がかわり2日未明、消火作業中のF上等兵が不発弾に触れ爆死した。F上等兵がおこなっていた消火作業は、Y少尉の独断による命令に基づく作業であり、部隊内部でY少尉の指揮が問題視されることもあったが、いずれにせよ森田中隊長以下部隊はF上等兵の死を悲しんだ。
 森田中隊長は、F上等兵を1階級昇進させ兵長に、叶うのならば2階級昇進させ伍長とするよう大東島守備隊長に上申し、11日に沖大東島に補給船が来た際、支隊長宛てにF上等兵の遺骨と死亡の現認証明書を託している。
 森田中隊長は16日、F上等兵が死亡した場所近くに墓標を立て、21日朝、全島の者が参列し慰霊祭を執行した。また、この日午後、大東島守備隊長から森田中隊長の現認証明書などを踏まえ、F上等兵の戦功を記した上申文の案文が届いた。

戦死者の遺骨送還作業

 F上等兵の死に対する沖大東島守備隊の葬送儀礼は、丁重すぎるものだと思われるかもしれない。例えばインパール作戦で「白骨街道」という言葉が生まれたように、戦闘が激化するなかで戦死者の遺体は野ざらしになっていた。それは沖縄戦でも同様である。だからこそ戦後、遺骨収容作業が沖縄はじめアジア各地で積極的におこなわれた経緯がある。
 しかし沖大東島守備隊によるF上等兵の葬送儀礼が、きわめて特殊で異例に丁重なものであるかといえばそうではなく、戦局、戦場、部隊によって様々な違いはあるが、比較的安定している戦局、戦場であれば、こうした葬送儀礼はある程度一般的におこなわれた。
 日清戦争において戦死者の遺体は、現地に埋葬することが基本であったが、遺体が火葬され遺骨が送還される場合もあり、以降、方面軍や軍単位で遺骨の送還の取り決めが策定され、遺骨送還システムが構築された。他方、遺体の安置や火葬といった作業は、部隊にとってかなりの負担であることも間違いなく、戦闘が終結するまで遺体を埋葬し、その後に火葬する場合もあれば、遺体の一部を切断して火葬し、遺骨を送還することもあった。

戦場の慰霊祭

 部隊は、戦死者の遺骨をまとめて安置し、上級機関に送還する前に慰霊祭をおこなうこともあった。その際には、僧籍を持つ兵士や神職の兵士が携わる場合もあったようだ。その意味で慰霊祭は、戦友との別れのセレモニーでもあり、生き残った兵士が新たな任務を展開するにあたっての一つの区切りでもあった。しかし、それ以降、戦死者が忘れられたわけではなく、隊長室に位牌が安置され、慰霊が継続された場合もあれば、定期的に慰霊祭がおこなわれた例もあるようだ。死と隣り合わせの戦地において、「部隊」はある意味で宗教的な共同体としての性格も帯びていたといえる。
 なおF上等兵の遺骨は、3月11日に大東島守備隊へ送還されており、21日の慰霊祭執行と前後している点は一般的な事例と若干の相違が見られるが、それは大東島守備隊の指示でもあり、沖大東島が絶海の孤島でいつ遺骨を送還できるかわからないという理由に基づくのかもしれない。いずれにせよ一般的な部隊の葬送儀礼の範疇といえるだろう。

八原高級参謀の手記より

 三月二十一日夜、軍参謀長の命なりと、坂口副官から次の伝言があった。
「明早朝内地へ連絡機が出発する。おそらく最後の便と思われるから、故国に送る書信のある者は、今夜中に参謀長宿舎に提出せよ」
 これが最後と観ぜられた参謀長の、部下将兵たちの身上を察しての心憎い取り計らいである。
 夕食後の灯火のほの暗い部屋に独座して、故郷米子に疎開している家族に最後の手紙を書く。長男は米子中学の入試がすでに終わったはずだが、知る術もない。小学三年の次男の手紙、「お父様はいつ沖縄の黒糖をおみやげに帰って来るの。帰るのが決まったら、何月、何日、何時、何分、何秒に米子飛行場に着くか知らせて下さい」を思い出す。とつおいつ、万感去来して筆が進まぬ。毎夜のようにお茶を運んで来た勝山が、私をしんみりと眺め、黙したまま部屋を出て行った。
 広大な男爵邸の、遠く廊下を渡った部屋部屋に住む青年将校たちは、同じ思いに、最後の便りを認めているのか、森として話し声一つ洩れない。嗚呼かくて悲劇の前夜、多情多恨春三月の夜は沈々として更けてゆく。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

 坂口副官とは、第32軍副官部の坂口勝大尉のことだろう。坂口副官は剣術の達人で、牛島司令官と長参謀長の自決にあたり、介錯役を務めた。勝山とは八原高級参謀の当番兵勝山伍長のことだろう。男爵邸とは尚家の尚順男爵の邸宅のことだろう。沖縄戦時、尚男爵邸は第32軍司令部幕僚の官舎となっていた。

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄方面海軍作戦』
・大東島支隊第4中隊「陣中日誌」昭和20年3月 JACAR Ref.C11110345600
・森田芳雄『ラサ島守備隊記 玉砕を覚悟した兵士たちの人間ドラマ』(光人社NF文庫)
・中山郁「陸軍における戦場慰霊と「英霊」観」(國學院大學研究開発推進センター編『昭和前期の神道と社会』弘文堂)

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F上等兵の慰霊祭のスケッチ:森田芳雄『ラサ島守備隊記 玉砕を覚悟した兵士たちの人間ドラマ』(光人社NF文庫)