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【沖縄戦:1945年4月17日】伊江島女子救護班─爆雷を背負い敵陣への突撃を命じられた少女たち つくられた「沖縄戦と少女」の物語

伊江島の戦い

17日の戦況 伊江島守備隊長の井川少佐は昨夜、敵情偵察のため第3中隊の橋本勇二少尉の指揮する将校斥候を島西部の山山地区方面に派遣した。橋本少尉以下斥候班の大部は米軍の攻撃により戦死未帰還となったが、この日朝兵一人が帰還し、米軍が山山海岸および中、東飛行場付近にテントを張り、戦車数十両を並べており、兵力は約3000ほどかと報告した。
 この日早朝、田村大隊長ひきいる第50飛行場大隊の将兵数十名が城山の伊江島守備隊の戦闘指揮所に後退してきて、田村大隊長のいた壕が馬乗り攻撃にあい生死不明、田村大隊および防衛隊(第502特設警備工兵隊)は斬込隊を編成し抵抗中と報告した。
 特にこの日は早朝から伊江島の南の水納島からも砲撃がおこなわれ、伊江集落南西方地区の米軍の攻撃は活発であった。10時ごろには伊江集落南側の新波止場付近から戦車を伴う米軍の新兵力の上陸もおこなわれた。同正面を守備する第3中隊および第1機関銃中隊は、上陸する米軍に猛射をくわえ、相当の戦果をあげた。米軍の攻撃は熾烈をきわめた。
 この日は終日戦闘がつづき、城山南の学校高地を中心とする地区では激戦となり、近接した市街戦も展開されたが、集落内に進入した米軍も夜に入ると集落外に撤退した。
 伊江島と第32軍司令部の無線通信は依然として不良であったが、この日は一部の通信ができた。

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4月16日から20日までの米軍作戦経過要図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

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伊江島守備隊の戦闘指揮所がおかれた城山の防御陣地:上掲「戦史叢書」

主力をもってする反撃 井川少佐は米軍新兵力の上陸をうけ、敵の態勢が整う前の今夜から18日未明にかけて主力をもって夜間攻撃を実施し、海中に撃退することを決心した。
 日付がかわって18日1時ごろまでには攻撃準備を完了し井川少佐以下守備隊本部も学校高地に進出し、1時30分から攻撃を開始し銃砲火を開いた。夜襲は功を奏し、米軍は応戦不可能なほどの状態に陥ったが、しばらくすると態勢を立て直し、夜間にも関わらず艦砲射撃や戦車隊が行動するなど反撃を開始し、守備隊の夜襲を撃退した。井川少佐は18日明け方夜襲を中止した。
 また田村大隊長以下生存者は城山陣地に後退してきて、井川少佐の掌握下に入った。第502特設警備工兵隊との連絡は不通であった。
 なお反撃に伴い、第1機関銃中隊長満留勉中尉は、泳ぎの達者な部下数名を率いて本夜水納島の米軍砲兵を爆破することを井川少佐に意見具申した。井川少佐および緒方副官は当初難色を示したものの決行することとなり、満留中尉は部下数名を率い自転車のチューブ(浮き輪のかわりか)と爆薬を携行し出発したが消息不明となった。

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砲撃するバズーカ砲部隊の砲手 45年4月17日撮影:沖縄県公文書館【写真番号84-21-4】

殉国美談、殉男美談

 伊江島では45年1月~2月ごろ、17歳~25歳前後の少女を含む女性による女子救護班が結成され、守備隊の地下壕などで看護業務についた。女子救護班の女性たちは、伊江島に米軍が上陸する直前の45年4月10日ごろには髪を短く切り落とし、戦闘帽をかぶり男装の上、看護業務のみならず弾薬運搬まで担った。さらに米軍上陸以降は、急造爆雷を背負わされ米軍戦車への事実上の自爆攻撃である「斬込み」を敢行させられた。
 こうした伊江島女子救護班や沖縄南部のひめゆり学徒隊の少女たちは、一部において「みずからお国のために命を捧げ、国家に殉じた」という「殉国美談」として語られる傾向がある。しかし、そうした殉国美談がありえないことは、これまで繰り返し述べてきた通りだ。彼女たちは「軍官民の一体化」「共生共死」「根こそぎ動員」という軍や沖縄県などの方針で戦争に動員されていったのである。
 特にひめゆり学徒隊は沖縄戦における日本軍捕虜たちにより、「若き少女が純潔を国、軍(軍人、つまるところ男)に捧げた」というある種の性的な視線に基づく語り、いわば「殉国美談」ならぬ「殉男美談」として語られる契機があったそうだ。日本軍捕虜たちは捕虜収容所において、性の対象として「命を失うまで男に従った」「身を捧げた」という一方的で誤ったひめゆり学徒隊の物語を語り合い、性的な興奮を覚えたという。
 伊江島女子救護班についても同様の構図が存在する。彼女たちを謳った歌には

皇国[すめらみくに]のつはものを
助けて共に故郷[ふるさと]を
守らんものとつどいたる
花も恥ろう 百数十
その名伊江島救護班

(『伊江村史』下巻)

という一節があるが、まさしく「皇国のつはもの」つまり男・軍人を「助ける」ために集まった「花も恥ろう百数十」すなわち大勢の美しい少女たち(伊江島女子救護班)という視点でうたわれており、男のために尽くした若く美しい少女たちという構図である。
 しかし伊江島女子救護班で生き残った女性たちは、戦時において「戦後を見たい」と言い合って励まし合ったといわれる。それは「生きたい」「死にたくない」というごく自然な感情の発露である。そして彼女たちは戦後において戦争もののテレビドラマなどは一度として見ておらず、また見たくもなかったとのことであり、戦争を肯定し美化するような傾向を見ることはできない。
 「殉国美談」そして「殉男美談」として「沖縄戦と少女」を語ることのないよう気をつけていきたい。

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沖縄北端の日本軍最終抵抗線へ進軍する海兵隊員たち 45年4月17日撮影:沖縄県公文書館【写真番号86-31-3】

第一防衛線の戦況

 この日、国頭支隊の八重岳撤退にともない、首里の第32軍司令部と国頭支隊の連絡は途絶した。伊江島とも通信状況が不良であり、軍司令部は戦況を把握することができなかった。
 南進する米軍を迎え撃つ第一防衛線では、局地的戦闘を除いて依然として米軍の攻撃は低調であり、次期攻勢に向けての準備中と判断された。
 軍司令部はこの日の戦況を次のように報じている。

一 沖縄本島ノ戦況依然大ナル変化ナシ
 基地航空ノ推進ヲ図リ大型爆弾等ニ依ル指揮中枢ノ攻撃熾烈ナリ
 第三十二軍ハ依然態勢ノ整理、陣地ノ補強等戦力ノ増強ヲ図ルト共ニ短切ナル砲撃、果敢ナル挺進斬込等ニ依リ敵ノ攻撃準備ヲ妨害シツツ其出血ヲ強要シアリ
二 国頭支隊トハ本日連絡途絶ス 全面的遊撃戦ニ転セルモノト判断セラル
三 伊江島トハ連絡不如意ニシテ状況詳細不明

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 海軍沖縄方面根拠地隊大田司令官はこの日、次のように戦闘概要を報じている。

沖根戦闘概報
一 小禄基地陸戦陣地及其ノ他終日緩慢ナル砲爆撃ヲ受ケ高角砲ハ観測機ヲ配スル艦砲及神山島重砲ノ集中砲火ヲ蒙レリ
二 東口砲台ノ現況 瀬長島砲台四門健在、宇栄原砲台二門健在 外ニ平射角可能二門、金城砲台二門健在使用可能計一〇門残弾四四〇発 一七日迄ノ被害 高射器全部炎上一〇門使用不可能

(同上)

 軍司令官はこの日、第62師団に配属中の歩兵第22連隊を第24師団長の隷下に復帰させ、運玉森方面の防衛を第24師団の担任とした。第62師団の第一線に配属されていた歩兵第22連隊の第2、第3大隊をなるべくすみやかに連隊長の指揮下に復帰させるよう軍命令があったが、両大隊の抽出が遅れ、連隊長の掌握下に入ったのは22日ころとなった。
 また与那原の西方宮城付近に配置されていた戦車第27連隊は、第24師団長の指揮下に入った。

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日本兵の遺体 45年4月17日撮影:沖縄県公文書館【写真番号110-30-1】

沖縄北部の戦況

 第一次恩納岳の戦闘のさなかにいる第4遊撃隊(4遊、第2護郷隊)だが、この日安富祖付近に戦車を伴う約100名の米軍が集結し、翌18日朝には安富祖方面から恩納岳を攻撃してきた。4遊岩波隊長は第1中隊を同方面に配備して防戦した。
 第3遊撃隊(3遊、第1護郷隊)村上隊長は昨16日、この日黎明を期して真喜屋、稲嶺、源河付近の米軍を部隊主力をもって急襲すること企図した。
 真喜屋攻撃隊は第1中隊第3小隊、第2中隊第2小隊、第4中隊第3小隊が配置された。稲嶺攻撃隊は特設警備第225中隊が配置された。源河攻撃隊は第504特設警備工兵隊攻撃班、各隊の擲弾筒手を集めた擲弾筒小隊、三中鉄血勤皇隊などの予備隊が配置された。
 村上隊長は16日夕刻、各隊をタニヨ岳東側に集合させ、各隊の幹部に命令を下達、作戦の打ち合わせをした。この際、稲嶺攻撃隊の長を務める西銘中尉から仲尾次方面からの逆襲を考慮し、真喜屋西方の橋梁爆破の必要があるとの意見があった。これにより橋梁爆破の処置をとったが、手遅れだった。

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真喜屋、稲嶺、源河攻撃要図:上掲「戦史叢書」

 源河攻撃隊は16日23時出撃、その他は日付がかわって17日0時に稲嶺攻撃隊を尖兵として行動を開始した。稲嶺攻撃隊は途中稲嶺に分進し、真喜屋攻撃隊は村上隊長自身が指揮し、予定より若干遅れた3時過ぎ、各隊は攻撃を開始した。
 擲弾筒の射撃により開始された奇襲攻撃はおおむね成功したが、30分の攻撃時間を過ぎても攻撃隊が攻撃を続けたため、仲尾次方面から米軍の救援隊が到着した。村上隊長は、攻撃を早く中止した部隊を仲尾次方面の米軍の進撃の阻止にあてるとともに、真喜屋攻撃隊に撤退を催促した。
 真喜屋攻撃隊の戦果は人員殺傷約70、弾薬集積所爆破2、燃料集積所炎上1、自動車炎上3、損害としては戦死8名、負傷15名などと報告された。稲嶺攻撃隊の戦果は人員殺傷約20、食糧、弾薬、幕舎焼却10、損害としては戦死1名、負傷3名などと報告された。なお源河攻撃隊の戦果は不詳である。
 『名護市史』が3遊の本戦闘について記しているので、以下引用したい。

 4月17日午前5時頃、村上治夫の「出撃!」という号令で攻撃が始まった。不意をつかれた米軍は反撃することもできず、海岸向かいの奥武島へ撤退したという。しかし、数人の護郷隊員は米軍を深追いし、逆に米軍の救援部隊に狙われて戦死した。副官の照屋規吉は「この戦斗で戦死3名、負傷若干あった。この攻撃で敵に多大の損害をあたえた」と述べた。戦闘に参加した真栄田義召(羽地村伊差川、当時17歳)は「アメリカは弾もバンナイ(どんどん)パラパラ(連射)するのに、私らは一発ずつ、全然ちがう。前に出ていた今帰仁の人たちが殺られた」と振り返った。
 照屋規吉の言う「戦死3名」とは喜久村幸壮(今帰仁村玉城)、大城幸義(今帰仁村越地)、知念盛正(今帰仁村謝名)である。そして「負傷若干」名の一人である比嘉才四郎(今帰仁村仲宗根、当時17歳)はその時の様子を次のように述べた。

米兵3名がこっちに向けてバンバン膝うちで撃ち返してきた。その時、知念(盛正)も自分もやられたが、知念はここで死んだ。それで「ここで眠っておけよ」というこで、(遺体を)置いて、今の真喜屋と屋我地島の間の川をあがって逃げた。自分たちが山をあがって、交通壕のあたりに来た時には名護あたりからも米軍の応援隊がやってきて、バンバン撃ってきたからもう大変だった。自分は左足と腹をやられた。うちらが来るのを待っていた戦友が私を見て「やられている」と言った。私は、やられたつもりはないから「どこもやられてないよ」と言い返すと「あんたズボン見てみろ」、見ると血がダラダラ出ている。泥だと思って血とは思っていなかった。山を登って4~5名に連れられて手当に行った。今でも足に破片入っているよ。

 分隊長として真喜屋攻撃に参加した瀬良垣繁春(羽地村源河、当時26歳)は「民間人も多く残っていた。まだいろんな荷物を置いていた人もいた」と語る。そして、この攻撃に参加していた真喜屋出身の照屋義松(羽地村真喜屋、当時15歳)は「真喜屋、稲嶺はアメリカが上陸したあとも民家や稲嶺小学校も建物が残っていた。我々は多野岳から下りて来て、夜明けごろ村上隊長が日本刀を抜いて、『出撃、前へ進め』の合図で火をつけた」と振り返る。照屋は集落を焼き払ったことに対し、「今、私が悔しいのは、自分の家を自分らで焼いて…。焼かなければ苦労しなかったのに。しかし、命令だから従わんといけない。昔は90%がカヤ葺でしょう、火の海になって歩けなかったよ。消そうとしても、次の人がどんどん火をつけるでしょう。どうにもならなかった」と悔やんだ。

(『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦)

真喜屋攻撃に参加した照屋義松さんの証言 照屋さんは真喜屋出身でもあり、自分の故郷や自分の実家に火をつけなければならなかった:NHK戦争証言アーカイブス

米軍押収資料より

 米軍はこの日(16日とも)、第32軍の「西原地区における戦闘実施要領」という文書を押収したが、そこには次のように記されていた。

西原地区における戦闘実施要領
  [略]
5 最大限迅速に奇襲攻撃のための準備を完了せよ。
  [略]
ニ 服装においても話し方においても現地住民のように見せかけることが必要である。住民の服を借りてあらかじめ確保せよ(第1中隊によってなされている準備を承認す)。一案として方言を流暢に話す若い兵を各隊に一人割当てよ。
  [略]
ヘ 絶対に捕虜になるな。たとえやむなく捕虜になったとしても、むやみに自決するな。時を稼ぎ、機会をうかがい、噛みついてでもよいから敵に打撃を与えよ。逃げる機会をうかがい、そして敵司令部や高級将校を襲え。味方については一切何もしゃべるな。敵を欺け。
ト 敵の装備、弾薬、食糧を奪い、それらを活用せよ。攻撃の案内として現地住民を連れて行け。

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 歩兵第89連隊第5中隊が夜間斬込みの戦訓として便衣(普段着)を推奨していたことは既に触れた通りであるが、ここにも同様のことが記されているが、さらに話し方まで現地住民に似せろというのは相当踏み込んだ指示であろう。攻撃の案内として現地住民を連れて行けという指示もそうだが、こうした軍の方針によって米軍は兵士と住民の区別がつかなくなり、住民を巻き込む戦闘が惹起され、多くの住民が犠牲になっていった。
 また捕虜についての注意にも注目したい。とにかく捕虜になってはならない、万一捕虜になっても何もしゃべってはならない、逃亡し攻撃せよとの指示は、捕虜が機密情報をしゃべるという軍の警戒に基づくものである。こうした指示により兵士たちは投降が禁じられ、さらなる犠牲を生んでいくことになる。

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需品部で新たに配給される服を受け取る衛生兵 45年4月17日撮影:沖縄県公文書館【写真番号96-18-2】

宇垣長官の日記より

 第5航空艦隊司令長官として海軍の航空特攻を含む沖縄方面航空作戦を指揮していた宇垣長官のこの日の日記には、次のように記されている。少し長いが、陸海軍航空部隊の沖縄方面航空作戦の作戦思想の違い、また海軍航空部隊内部での作戦思想の違いが見てとれる。

 四月十七日 火曜日 〔晴〕
  [略]
 敵機動部隊に対しては今一息と思うもすでに兵力続かず、幹部以下の疲労も相当に加わる。ひとまず整備整理を要するに至りたるは残念なり。
 しかして天一号作戦極めて有利に進展しあり。今度は敵も大分参りあり。天秤は吾に傾きつつあり。今一押しにして我勝利に帰すべしとの観察も行われあり。
 余はこれに対し多少考を異にす。すなわち我は牛若丸をせしむるが根本なるも、まず邪魔になる弁慶を片付けんとして敵機動部隊の撃破に精根を尽くす。
 元より沖縄周辺の敵牛若丸にも迫るものありといえども──しかしその成果は敵機動部隊は相当にやり得たるも沖縄周辺にて敵の根卸し[ママ]段々と強くなりつつあり。すなわち敵は機動部隊の犠牲においても沖縄を確実に手に入れんとするものにして、ここに彼我の作戦指導において食い違いありと感ぜらる。
 したがってある時機においては全勢力を沖縄の敵基地制圧及び敵船団に集中することも必要なり。本件は今後本職の攻撃目標撰定において考慮を要すべき事項たり。
 現に六航軍司令部においては海軍は機動部隊のみにかかり、陸上戦の根元をなす船団攻撃に力を入れず、あまつさえ陸軍の攻撃特攻をも一部機動部隊に指向しありとの不満を生ずるに至れり。
 しかして敵機動部隊を全滅し得たりとするも沖縄本島の敵を払い落すことはなかなかの難事に属すと言わざるべからず。逆上陸、落下傘降下等もとより不可なしといえども、成功を確信し得ざればいたずらに実施すべきものならず。
 従来一時の景気に捉われて今一息の押しにて行くと考え無理なる犠牲を手遅れに払い、しかもその影響するところ爾後に極めて大なる例すくなしとせず、押しもよけれども見通しなくては無駄なり。
 GF司令部及び軍令部等最高指導部の充分なる考慮を望むところなり。ただし天一号作戦は従来と異なり最後の決号作戦と極めて密接なる関係にあり。
 例え払い落としに成功せざるとも常に敵を制し続けることは絶対に必要なれば、今後においても兵力の注入作戦の続行は欠くべからざるところなりと判断するなり(本件十八日、十九日、GF参謀長には意を通じ置きたり、なお横井当隊参謀長にも了解せしめたり)。

(宇垣纒『戦藻録』下、PHP研究所)

 牛若丸と弁慶の比喩が用いられているが、とにかく海軍としては、日本本土への進攻攻略を目指し本土空襲などのため近接展開する米機動部隊を航空作戦の対象とし、それなりに戦果をあげており、もう一息というところまできていると分析しているが、同じ海軍でも宇垣長官は、沖縄攻略を目指し沖縄周辺に展開する米船団や米軍が占領した飛行場の攻撃に力を入れるべきとしている。また陸軍航空部隊(ただし連合艦隊の指揮下に入っている)の第6航空軍も、海軍は米機動部隊ばかり攻撃し陸上戦(沖縄での地上戦)の根元である米船団の攻撃には力を入れてない、そればかりか陸軍の航空特攻も一部米機動部隊を対象としていると批判しているとある。
 航空特攻を中心とする沖縄方面航空作戦は、沖縄を助けるためなどといわれるが、その実際を見ると、陸海軍や軍内部でも意思統一できていなかったし、基本的には本土攻略を狙う米機動部隊を対象とするものであり、沖縄を助けるといったようなものではなかったということはよく理解したい。

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護衛空母スワニー 沖縄戦に参加した 45年4月17日撮影:沖縄県公文書館【写真番号113-27-3】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『伊江村史』下巻
・「沖縄戦新聞」第8号(琉球新報2005年4月21日)
・山田潤治「〈脱周縁化〉する記憶-「ひめゆりの塔」の表象-」(『大正大學研究紀要』人間學部・文學部 、第95号)

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海兵隊衛生兵に怪我の治療をうける看護婦 動員された少女と思われる 多くの少女が命を落としたが、また多くの少女が玉砕思想を振り払って生き延びた:沖縄県公文書館【写真番号81-21-2】