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【沖縄戦:1945年2月14日】近衛上奏─近衛文麿が昭和天皇に早期講和を進言 護郷隊の第3次召集はじまる

近衛上奏文と昭和天皇の反応

近衛上奏 
 
近衛文麿元首相はこの日朝、宮中へ参内して昭和天皇に拝謁し、所信を進言した。いわゆる近衛上奏である。近衛の所信は和紙8枚にわたる長文のもので、近衛上奏文と呼ばれる。
 近衛は上奏文において、このたびの戦争の敗戦は必至であるが、米英は「国体の変革」、つまり皇室の廃絶などは行わないだろうとし、ソ連を講和の仲介とすることなく、米英との早期のかつ直接の講和を訴えた。同時に「国体護持ノ立場ヨリ最モ憂フベキハ、最悪ナル事態ヨリモ之ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ナリ」と警鐘を鳴らし、軍部の一部にいるという共産分子を排斥し軍部を立て直し、和平を模索する必要があるということであった。
 近衛上奏の要点をまとめると、

(1)米英は国体の変革を求めていないので、早期に講和すべき。
(2)ソ連の日本や東アジアへの野心は強く、講和の仲介相手としてはならない。
(3)このままでは軍部における容共分子などによる革命が起きるかもしれない。

といったほどのものとなろうか。
 近衛上奏というと、要点の(3)の軍部における一部容共分子の存在や革命の切迫性などが陰謀論的に語られることがある。確かに近衛は五摂家筆頭という家柄もあってか、革命を恐れ、ソ連を敵視し、反共的態度を貫いていた。その上で日本国内での軍部の一部容共分子がソ連に使嗾されて革命を起こすかもしれないと上奏するわけだが、この部分については近衛がどこまで本気で上奏したかは疑問を呈する指摘もあり(事実として軍内にそうした勢力がいたとは考えられず、仮にいたとしても実際に革命を起せるだけの力はなかったであろう)、米英との和平を進めるためのある種の「煽り」であったともいわれる。
 むしろ注目すべきは、近衛が様々なルートを通じて米英に国体変革の意志はないと見抜いたこと、そしてこのころ小磯内閣はじめ各方面が期待していたソ連の講和の仲介などはあてにならないと断じているところである。近衛は別の文書で戦後の米ソ冷戦まで予測しており、国際情勢を明晰に見通していたといえる。

昭和天皇の反応 
 しかし昭和天皇は、「米国は皇室抹殺論をゆるめておらず、徹底抗戦すべし」との梅津美治郎陸軍参謀総長の言葉に同意であるとし、軍の粛清を求める近衛に「それではどのような人事があるか」と難色を示した上で、「もう一度戦果をあげてからでなければなかなか話は難しい」と答えた。昭和天皇は早期講和ではなく、一度華々しい戦果をあげ、米英に対し有利な状況で講和を模索するべきだという、いわゆる「一撃講和」を唱え、近衛による上奏を退けたのであった。
 昭和天皇のいう、もう一度あげるべき「戦果」を求める戦場は、かかる情勢の中では沖縄以外にない。そうすると昭和天皇が沖縄戦初頭において積極的に戦争指導をし、主戦論を唱えたこともよく説明がつく。事実、上奏後の御下問において、昭和天皇は近衛に「梅津は南西諸島に敵を誘致して叩くといっている」との意味の言葉を発したともいわれている。昭和天皇における「沖縄戦」の位置づけがよく理解できる言葉だ。
 なお近衛は上奏文作成にあたり後に首相となる吉田茂と綿密な打ち合わせをしており、上奏後も吉田邸へ赴き会談している。そうしたこともあり、四月、上奏の内容が露顕し、軍部は反戦的、敗北主義的として吉田らを検挙している。

第32軍司令官、丙号戦備を下令

 第32軍牛島司令官は、昨日の米機動部隊に関する情報により、米軍の南西諸島上陸を警戒していたところ、この日早朝、戦備レベルを上昇させ、南西諸島全域を丙号戦備に移行することを命令した。
 第32軍は1944年9月、以下のごとく甲号戦備から丁号戦備まで四種の戦備を定めた。

球作命甲第四九号  第三十二軍命令 九月二九日同〇八〇〇 那覇

一 軍防衛作戦ノ為戦備ノ度ハ左記区分ニ基キ之ヲ実施スヘシ
 別命無キ際各隊戦備ノ度ハ丁号戦備トス
 但シ軍隊区分ニ基ク各兵団長ハ状況ニ依リ独断之ヲ下令(解除)スルコトヲ得

(イ)甲号戦備
 敵有力部隊ノ上陸(着陸)攻撃ノ虞アル場合ニシテ全部隊戦闘配備ニ就キ随時戦闘ヲ開始シ得ルノ準備ヲ整フルモノトス

(ロ)乙号戦備
 敵ノ上陸(着陸)攻撃ノ算少ナキモ空襲又ハ砲撃ヲ受クル虞アル場合ニシテ各部隊ハ対空(電探)竝ニ海上警戒ヲ厳ニシ所要ニ応シ監視哨ヲ増加スルト共ニ水際戦闘ノ準備ヲ整へ対空射撃ニ任スル部隊ハ全隊戦闘配備ニ就キ爾余ノ部隊ハ警戒連絡ノ処置ニ遺憾ナキヲ期シ砲爆撃ノ損害ヲ被ラサル如ク掩蔽ス
 空襲警報発令セラレタル時ハ別命ナク本戦備ニ移ルモノトス
〔乙号戦備下令間空襲警報解除セラレタル時ハ別命ナク丙号戦備ニ移ルモノトス〕

(ハ)丙号戦備
 敵機動部隊近接ノ徴アルカ又ハ敵飛行機、潜水艦偵察ノ虞アル等警戒ヲ強化スルノ要アル場合ニシテ各部隊ハ対空(電探)竝ニ海上警戒ヲ厳ニスルト共二対空射撃ニ任スル部隊ハ一部ヲ以テ警戒配備(高射部隊二在リテハ警急姿勢トス)二就キ爾余ノ部隊ハ迅速二掩薇下二待避シ得ルノ準備ヲ整へ特二我カ配備兵力等ヲ曝露セサル如ク留意スルモノトス
〔丙号戦備下令間警戒警報解除セラレタル時ハ別命ナク丁号戦備二移ルモノトス〕

(ニ)丁号戦備
 我カ哨戒圏及電波讐戒圏内ニ敵ヲ認メサル場合ニシテ各部隊ハ主トシテ対空(電探)及海上監視哨ニヨリ警戒ヲ行ヒ爾他ハ教育訓練築城交通作業其ノ他ノ勤務二従事ス
 但シ常ニ敵奇襲攻撃ニ対応シ得ル如ク所要ノ準備ニ遺憾ナキヲ要ス

二 戦備ノ度下令及解除ノ為ノ通信連絡規定ハ別命ス

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 通常時は丁号戦備であるから、丙号戦備へ移行したということは、戦局の緊迫度が一段階あがったということである。
 また14時頃、第32軍司令部は球参情電第368号により、「諸情報ヲ綜合スルニ南西諸島十五日払暁以降敵機動部隊ノ大規模空襲ヲ以テ十八日以降上陸攻撃ヲ受クル算大ナリト判断セラル」と警報し、軍司令部以下各隊は対上陸作戦を準備した。

第1護郷隊の第3次召集

 この日、羽地国民学校(現在の名護市立羽地小学校)に北部一帯の15歳から16歳の少年たちが集められ、第1護郷隊(第3遊撃隊)に召集された。
 第32軍は第9師団が沖縄から抽出されたため、護郷隊員を正規兵に再召集することで戦力の穴埋めをはかった。これによる兵員不足を補うため、第1護郷隊が第3次の召集をはじめたのであった。なお第1次召集は前年10月の護郷隊編成時、第2次召集は同年12月ごろの護郷隊の配置変更時である。
 このころの召集年齢は17歳以上であることから、15歳、16歳の少年の強制的な召集は違法であり、あくまでも志願というかたちでなければならなかった。しかし第1護郷隊の村上治夫隊長は、集められた少年たちを前に「護郷隊がいやな者は出てこい」と言い放ち、誰も出てこないことをうけて全員身体検査をして志願ということで召集してしまったといわれる。

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄県史
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『大本営陸軍部』<10>
・「沖縄戦新聞」第5号(琉球新報2005年2月10日)
・玉木真哲『沖縄戦史研究序説』(榕樹書林、2011年)
・庄司潤一郎「『近衛上奏文』の再検討─国際情勢分析の観点から─」(日本国際政治学会編『国際政治』第109号、1995年5月)

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