見出し画像

子供と沖縄の戦争遺構を見に行って来た

休みを利用して、沖縄に行って来ました。

沖縄には出張で頻繁に来ていたけど、仕事に関連する所しか行ったことがなく、メジャーな場所は全てスルーだったので、今回は子供と一緒にまとめて回ることに。八原博通「沖縄決戦」を読んで、戦争遺構をめぐることにしました。

レンタカーが予約しにくいのてタクシーで移動。小禄の旧海軍司令部壕→ひめゆりの塔→平和祈念公園を訪問しました。運転手さんは、終戦の年の1945年生まれ。今の南城市大里のご出身で、道中にさとうきびの収穫の話、ゆいまーるの話、ムーチーの話、方言の話など色々聞けました。

平和祈念公園の「平和の礎」では、沖縄戦のすべての戦没者が検索できます。タクシー運転手さんのおばあさんは、南城市大里から南へ避難中に、稲嶺という所で爆撃の破片に当たって亡くなったそうです。検索すると1945年の6月に亡くなったことが画面に表示されます。

1945年6月という時期と、稲嶺という場所が、沖縄戦の展開を物語っています。

1 日本軍の総司令部は首里にあった

ひめゆり学徒隊の足跡図。

首里は、沖縄本島の南部、那覇市街から北東へ3キロほどの場所。お城があるくらいなので高台の上。日本軍第32軍は持久戦のために首里に総司令部を置きました。(だから首里城も後に沖縄戦で焼失しています。)
軍はアメリカ軍の空からの砲撃に備えて、壕を掘り築城による持久戦をします。だから首里にも壕の跡があります。
なお、タクシー運転手さんの出身地南城市大里は、首里から南東へ7キロほどの所にあります。

首里城から北方の海をのぞむ

2 アメリカ軍は読谷のあたりから上陸

沖縄戦の戦況推移

アメリカ軍は1945年4月1日に、沖縄本島の西側から、首里の北の読谷あたりに上陸して島を横断し、日本軍を南北に分断した上で、南に向かって進軍し、首里の日本軍と戦いました。

日本軍の防衛拠点の一つが、首里と那覇市街の間の安里(シュガーローフ)です。この近くにあったのが、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒、つまり「ひめゆり」たちの校舎です。アメリカ軍上陸前の3月23日に学徒隊として召集されていましたが、安里はシュガーローフの戦いで首里防衛の戦いの地になりましたので、もし安里にいたとしても被害があったことでしょう。

3 日本軍は首里から南へ移動

5月下旬に日本軍は首里から撤退し、島の南部に移動します。ひめゆり学徒隊は、首里から南東へ5キロほどの南風原(はえばる)にある沖縄陸軍病院に動員されていましたが、5月25日に撤退命令が出され、南部に移動を始めます。

運転手さんのおばあさんが亡くなった大里稲嶺は、沖縄陸軍病院のあった南風原の南東にあります。日本軍の首里撤退・アメリカ軍の南下の過程で不幸にも命を落とされたものと思います。

4 ひめゆりは伊原などへ、日本軍は摩文仁へ

陸軍病院では6月18日に、学徒隊を解散してしまいます。アメリカ軍が迫っている最中に"解散"って。

ひめゆりの塔があるのは、沖縄本島の南端に近い糸満市の伊原にあった「伊原第三外科壕」です。ここではアメリカ軍のガス弾攻撃により、6月19日に80人余りが亡くなりました。

日本軍は6月23日に、第32軍司令官牛島中将が沖縄本島南端の摩文仁で自決し、日本軍の組織的な抵抗は終了しました。

摩文仁にある平和祈念公園の「平和の丘」モニュメントは、多くの人が逃げ込んだ天然の洞窟「ガマ」を模して、天井が低いつくりになっていました。

色々教えてくれたタクシーの運転手さん、ありがとう。

摩文仁から海を見る





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?