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L.A古着買い付け紀行

前回のブログの最後に書いたように、先日私はアメリカへ渡航して古着の買い付けを行ってきた。その中で感じられたことがいろいろとあった。今回のブログではそれらことについて書いてみたいと思う。

今回の行き先

私は実際に現地に着くまで、買い付けに関してほとんどリサーチに値するようなことを行わなかった。それは単に面倒であり憂鬱であったからなのだが、そのせいで、うっすらとした情報しか持っていない状態で、ユナイテッドステイツに足を踏み入れることになった。

その時点で私が持っていた情報というのは、週末に開かれるフリーマーケットに行った方が良いらしいということ、スリフトというものを見て周ると良いらしいということ、現地の古着屋にも行ってみると良いらしいということぐらいのものだった。ただ結果的に、今回に限ってはそれで十分で、実際に私がやったことといえば、それらのことそのままであった。倉庫には入らなかったし、取り壊される予定の家に入っていったりというようなハードなことも行わなかった。というかやり方がわからなかった。

買い付けというのは、ほとんどの場合どこかへ向かう行為とセットになると思うが、その行き先については事前のリサーチが難しく、現地において独自に覚えたり獲得していくしかないだろうということが今回感じられた。何度も渡航を繰り返すことで、土地勘が身についたり、ツテができたりということで行き先が決まってくるのだろう。そのため何の経験も無い私は、とりあえずたくさんのスリフトを見て周るということがメインの動きとなった。フリーマーケットにも行ったのだが、これは週末しか行われていないため、私にとってはほとんどボーナスタイムのようなものであった。

スリフトの実情

実際にロサンゼルスに行くまでに、日本で何人かの先輩方から聞かされていたのは、そこで見られる服のほとんどがダメな服で、良い古着は本当に出なくなっているということだった。古着は減る一方なのだから、まあ当然そうであろうと思っていたのだが、私はその先輩方が言っていたことを少し履き違えて解釈していたことを、最初に行ったスリフトですぐさま理解した。

私が先輩方の話を聞きながら想像していたスリフトというのは、我々が狭義の意味合いで言うレギュラーのアメリカ古着(今回この言葉が本当に狭い意味合いしかもたないということを実感した)が並ぶ中、スペシャルと呼ばれるような珍しい型のものを発見するのが大変である状況、というようなものだった。しかし実際に店舗へと足を踏み入れてみると、そこには我々がレギュラーと呼ぶようなアメリカ古着はそもそもほぼ皆無であり、日本で言うリサイクルショップとほぼ同じか、平均的な服の品質でいうとそれ以下の物たちが並んでいたのだった。

そこには一見して、こんなところにスペシャルな古着などあるはずがないと思わせるような趣があった。私は気が遠くなって冷や汗をかくとともに、笑みが溢れそうになるのを堪えていた。

分かってくること

たくさんの服を見ていると、それらが集合として物語るものがだんだんと見えてきたりする。

同じブランドタグ、もしくはデザインのパターンを何度も目にするため、それらの情報が嫌でも自分にインプットされる。それらの偏りが、この場所における需要によるものなのか、供給側の思惑によるものなのかは分からないが、数が大きくなると、近隣での衣服の集合体同士の個性というのは、似たようなものになることが分かった。そのことは、私がそこにあるべきと考える混沌の度合いというのは低く、求めるような混沌に出会いたければむしろ、自分の手で作り直す必要があるということを意味していた。
滞在期間中、一度だけアウトレットモールに寄る機会があったのだが、そこに入っているブランドの商品を、私はスリフトでたくさん見かけていた。

欲望

上記したような状況の中では、平均で1店舗あたり(おそらく数千着はある中で)1着程度しか、買っても良いと思えるものはでてこない。その1着が見つかったときには、朝日に出会ったような気持ちになったりもする。そしてそんな1着を集積していくわけだが、私はこの集積の過程で、頭に流れるある種類の興奮があることに気がついた。

他人がデザインし、他人が製作し、他人が売ったものを、自分の商品として手配しなおす。合法な行為としてそれを行うわけだが、私にはそのことを生理的に考えると、悪いことをしているように思えてくる。この行為はサンプリングミュージックのように、ある側面からは盗みであり、破壊するようなことであると言えるだろう。好奇心に突き動かされながらに収集し、自分の商品群として提示する。そしてそのことによって、それまでとは別のあり方で、個々の物品が存在しなおす。それはもう、ありえないぐらいに刺激的である。しかも古物商さえあれば、音楽のように元々の制作者の許可や、使用料なども必要ない。古着を売ることにおいては誰でも、モロ使いが許されているのである。

また、商いのためでなければ手にすることのなかった物(私が男性ということもあり、例えば女性向けの服などのこと)をも含みながら、多くの物を収集していく行為の中では、自分が着るための服だけを買っている時と比べて、扱う物と物との振り幅と、集合体の規模が比べ物にならない大きさになる。創造行為としての楽しみ、強度が増されていることも確かに感じられた。

古着を扱うことは、エコの観点から世の中に良いことであるという意見はあるし、その意見は正しいと思う。しかし今回、言い方は汚くなってしまうが、ゴミのような服が山積みになっている光景を前にして、私には救いようのない服というのがほとんどであることを強く実感した。とても自分がエコの一環として古着を扱っているというような気持ちにはなれなかった。私にとって古着の買い付けというのはあくまでも、ぬるめの悪事であり、それに伴う興奮であった。

終わりに

大量に物を見ることと、海外にてそれを行うことでの内的な収穫はとても大きかった。見渡せる範囲が若干広がったようにも思える。ただ、ロサンゼルスでの買い付けは非常に厳しいものがあった。あまりの良い物の少なさに、旅行のついででなければ、発狂していたことだろう。

しかしそんな中でも、買えた物自体は悪く無いように思う(量が問題)。準備の準備が始まったような段階ではあるが、若干の進歩に私自身は喜んでいる。

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