古着を扱おうと決めた

古着の面白いところ

「古着」という言葉は、使われる場面によって微妙に意味を変えていくものである。

テイストで言えば、ある場面ではデザイナーズブランドのことをそう呼ばなかったり、またある場面ではアメリカのカジュアルウェアのことのみを指していたり、そしてまたある場面では日本国内で近年作られたもののことは古着と呼ばなかったりする。

物品の持つ属性以外に、入手もしくは販売の方法によってもこの言葉の持つ意味は違ってくる。その場のコードに強く影響を受ける性質を持つと共に、非常に曖昧な使われ方をしている言葉なのだ。

そのように多くの意味合いを持つこの言葉の中で、私に想定しうる最も広い意味は、「新品として取引される正規の市場から、何かしらの理由(販売されたり、売れ残って倉庫に保管されたりなど)で一度離れ、再び別の誰かの手によって回収され、古物として別のルートで販売される衣類の総称及び呼称」であると言える。

全ての衣類は古着になるポテンシャルを持っているということであり、実際古着というのは無数にあるものなのである。

この意味合いにおいて「古着」というカテゴリーは、衣類という枠の中に存在するカテゴリーの中で、該当するものの数が最も大きなものであると言っても過言ではないだろう。「服」や「衣服」などと言ったように、ほとんどすべてを総称するようなものに次ぐほどではなかろうか。

そのように広い意味合いを持つ古着を扱うことを自称するということは、扱うものは「なんでもアリ」ということを宣言しているようなものに思える。しかし実際には、そのように古着を扱うことを自称する業態では、むしろ何かしらの理由で扱う物の種類に制限がなされ、その制限によって価値が生み出されているように思う。リサイクルショップでも、ヴィンテージショップにおいても、それぞれ異なる制限方法によって店や物品の価値を獲得している。

私はこの事実に魅惑的なものを感じている。

人間は大きな自由を与えられても、その自由をそのまま受け取ることはできない。故にそこから自らの手による制限によって、小さな自由と出会い直す必要がある。

「古着」を扱う業態に対して、私はそのような人間というものの性質の現れを見ている。

実店舗と古着の組み合わせ

前回のブログで私は、実店舗に期待することとして、偶然の出会いの発生というものを挙げた。物理的空間が可能にする未知領域へのアクセスは、とても有意義であるといった内容だった。

そして今回のブログでは、広義の意味での「古着」というものは無数に存在しているということを書いた。さらにそれらは新品でないということ以外はなんでもアリであるからこそ、混沌としているとも言えるだろう。

さてここで重要になるのが、実店舗には偶然があり、古着には混沌があるということである。この偶然と混沌というものは、極めて親和性が高い。両方の要素が絡み合うことで、今まで知らなかったことに出会う可能性がより高まる。

つまり実店舗において古着を扱うことで、私が求めている現象を加速させることができるのだ。このことは私が古着を扱う理由に、強く機能している。

どのような内容にするか

では実際に古着を扱うといっても、どのような形でそれを行うのかということを説明する。それをするためにまず、現存している古着を扱う上での方法として、2つの極みを私なりに定義する。

そもそも「古着」というカテゴリーの内容は、無数であり混沌であると書いたが、現実の世界でそのありようをそのまま表すような場所は存在しない。すべての古着があるなどという場所が存在し得ない以上、それは当たり前のことである。しかしながら、その「古着」というカテゴリーの性質を保持したまま、小さな形でのそれとして存在しているような場所がある。それはリサイクルショップ、スリフト、そしてウェアハウスなどの業態のことである。これらの業態にある魅力というのは、ある個人が混沌の中に入い込むことで、未知のものと出会う可能性が高まるということである。私はこのことが、1つの極みとしての喜びの形であると考えている。(これらには平均して価格が低いという魅力も存在し、それによって誘発される出会いもあるが、ここでは省略する。)

そして世の中には、このような古着の混沌を反映したものとは反対に、むしろ秩序づけようとする方向の力も存在する。それを具体的に表現した業態というのは、ヴィンテージショップなどのことである。これらの業態は、無数に存在する古着の中から、特定の文脈に位置するもののみを選び取り、強い価値づけを行う。品質であったり、歴史的な価値であったり、希少性であったりといった項目の、良し悪しや有無を裏付けに行われるそれによって、個人単位の好みだけではなく、多人数に共有しうる価値観が生み出される。このことが2つ目の極みである。価値に対するオーセンティシティが保たれた状態の物というのは、尊いものであると私は考えている。(価格とイコールになるものではない。)

上述した2つの極みこそが、古着と関わることで得られる大きな魅力であると私は理解している。ただ、具体的な業態の例を挙げたことでも分かるように、この2極にある魅力は、それぞれ異なる方向に位置するものであり、異なる方法で達成されているものなのである。

しかし私は、自分が古着の販売を行う上で、この両要素を欠かせるべきではないと考えている。それほど重要な点同士なのである。そして私は、この対立による問題を抱えたことによって、弁証法的に次のような方法を導き出すこととなった。

混沌を生み出すべくジャンルを横断し、それぞれに対応した見方で物の精査を行い、選択する。

これはすなわち、あらゆる種類の物に触れ、その中から普遍的価値を持ちうる物を選ぶということである。そしてそれは混沌を保持することと、ある条件によって秩序づけすることとを、せめぎ合わせることを意味する。2つの極みがそのような緊張関係にあることによって、高次の状態を生み出すことになるのだ。良い古着のみで構成される混沌。それが現時点で私に考えられる、最も「良い状態」なのである。

この「良い状態」を維持することは、店の営業を続ける上で大切なことになるだろう。それは両極みのクオリティを保ち続けることで、達成される。非常にやりがいのある、取り組むべき対象だ。

このことを考えているときの私の頭の中には、子供のころの机の引き出しの中身をラッピングして、それをデパートで売っている、というようなイメージが、ぼんやりと浮かんでいる。

終わりに

というわけで、近いうちにアメリカへ古着の買い付けに行くことにした。

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