デザイナーズノート「目に視えるものだけが世界のすべて」

最初の着想は、たしか、ランダム性/リプレイ性がある一人用のテーブルゲームをサイコロやカードを用いないで表現できないか、だったと思う。そこから出発し最終的に辿り着いたのは情緒的な雰囲気を楽しむゲームだった。そう、最初から「情緒的」なゲームを目指して作っていたわけはなかった。作っている途中でこのゲームのもつ情緒的な部分を「発見」したのだ。

ランダム性/リプレイ性があるけれども、サイコロやカードを使わない方法はないだろうかと、考えを巡らせていた。1人ではなく例えば2人用以上のゲームならば、サイコロやカードを使わなくても相手のプレイヤー自体が他のプレイヤーにとって予測不可能な要素として扱われる(もちろん完全にランダムというわけではなく、ある程度ランダムのようにみえるという意味)。だが、今回作りたいのは1人用のゲームだ。対戦相手はいない。1人のプレイヤーしかいないのだ。

考えを巡らせているなかで、ふと、自分のなかで「視点」が変わる瞬間があった。そう、まさに「視点」。プレイヤーは1人だが、そのプレイヤーを取り囲む「世界」はどうだろうか? プレイヤーがゲームをプレイするその「場所」「座標」にはランダム性/リプレイ性があるのではないか? もっというと、そのゲームをプレイするときに「視る」景色はランダム性/リプレイ性があるのではないか? なんとかして、プレイヤーの「視る」景色をゲームに取り込めないだろうか?

プレイヤーの「視る」景色をゲームに取り込む方法として、「言葉」を採用した。では、どうやって「言葉」をゲームにするか。まず最初に浮かんだのは「目にみえるものだけしりとり」遊び、だ。「目にみえるものだけしりとり」とは、私が小学生か中学生のときに遊んでいた「遊び」だ。私が考案したのか友人が考案したのか覚えていない。なので、一般的な名称ではないかもしれない。でも、似たような遊びは他の土地でもあったんじゃないかと思う。

「目にみえるものだけしりとり」遊びはその名の通り、目に視えるものだけを使った「しりとり」だ。この遊びは楽しい。しりとりなのでボキャブラリーが多い方が有利なのは変わらないが、いかに必要な言葉を「探し出す」か。そこが普通のしりとりとは決定的に違うところだ。言葉を「探し出す」必要があるので、視線をあっちこっちに飛ばす。それでも足りなければ移動する。とはいっても、この「目にみえるものだけしりとり」を遊ぶときはだいたい学校だったので、暗黙のうちに遊ぶ範囲は決まっていた(プレイするゲーム空間を意識的に物理的に区切っていたという意味ではなく、この場合は学校の規律として帰宅する以外は学校外に出てはいけないという校則に従っていただけにすぎない)。学校の教室以外でも遊んだ。バスの移動中だ。林間学校などでバスに乗る機会はあったので、バスから視える景色を使って「目にみえるものだけしりとり」を遊んだ。通常時と異なり、めまぐるしく変わる景色の中から必要な言葉を探すのは難易度が高かった。その難易度の高さから遊びとして成立しづらかったが、退屈なバス移動で何もしないよりかはよかった(私自身が乗り物酔いしやすく外の景色を積極的に眺めていたこともあったが)。

「言葉を探す」というのは具体的なモノを物理的に探すということだけではない。同じモノを他の言葉に言い換えるのも「言葉を探す」ことだ。ファミコンゲームの「ワギャンランド」のボス戦「絵しりとり」よろしく、いかに言い換えるか。「灯台」を「うみのみちしるべ」と読んだボスに驚かされたのは今でも覚えている。

「目にみえるものだけしりとり」をゲームシステムのコアとした。最初はしりとりらしく、渦巻き状になったマス目を直線的に言葉を連結していくスタイルだった。ただすぐにこれは不採用にした。なぜなら、文字を配置する自由度が少なく難易度が高かったからだ。言葉を使うワードゲームということでクロスワードを使えばいいことに気づくのは早かった。クロスワードならば文字を埋められない黒マスは必要だろうと考えていた。黒マスをどうするのかを思いつくまでは時間がかかった。最初は黒マスをプレイヤーが規定の個数を任意の箇所に書いてからゲームをはじめる方法を考えていた。ただこの方法だど黒マスを書く箇所によって難易度が調整できてしまうし、なによりめんどくさかった。ゲームをはじめるまでの準備は極力短くしたかった。めんどくさいなら削ってしまえばいい、と気づき黒マスを廃止した。クロスワードからの発想だったが、このゲームには黒マスはいらないと気づくにはある程度の時間がかかった(黒マスがないクロスワードもあることは知っていたのに)。

言葉を書くためのマス目は何マス×何マスにすればいいのか、検討がつかなかった。日本語として身の回りにある名詞の長さの平均はいくつなのかどうやって調べていいのすらも検討がつかなかった。適当に決めてしまってもよかったのだけれども、自分の中でその数にした根拠が欲しかった。参照先が欲しかった。結局7×7マスになったが、この7という数字は「ワードバスケット」を参照した。カードを使った傑作しりとりゲーム「ワードバスケット」のルールの説明はここでは省略するが、「ワードバスケット」で使うカードの中で「7文字以上」というカードがあるので、そこから7というのを基準に決めた。

このゲームで得点として参照するのは7×7内の5×5の範囲だけとした。これは、マス目をすべて埋めようとするとかなり難しくめんどうになるからだ。文字の長さを調整するのにも外側2マスの余白は使えるし、なによりすべて埋めなくていいという気楽さがいい。自然は空白を嫌うというが、人間もまた空白を嫌う。すべてのマスに文字を埋めたくなってしまう。すべてのマスを埋めたい衝動に駆られるが、すべてのマスを埋めるのは難しいというところで余計なストレスを感じて欲しくなかった。なのでゲームのルールとして空白を許した。あなたがすべてのマスを埋めたい衝動に駆られることがないのであれば、このルールは成功している。ただ、ゲームのルールとして内側5×5は埋めなければペナルティを課すことにした。メリハリは大事だからだ。

このゲームに飽きたらこのゲームは終了するとした。途中でやめてもいいという気楽さを生むためのルールであるがユーモアの部分でもある。このゲームは一人用ゲームなので、わざわざルール上で明記しなくてもプレイヤーは止めたくなったらいつでも止めることができる。ルールでプレイヤーにゲームを強制することはそもそもできない。そもそもできないのに、あたかもできるかのように嘯いて今回はさも特別かのように振る舞うという冗談だ。ルールで規定できないルール外の範囲に対してルールを規定する。その不可能具合をユーモアとしている(今回はユーモアとしているが、もしかしたら私のやりたいことを一番表しているルールなのかもしれない)。

私はめったに旅行に行かない出不精なのだが、それでもごくたまには旅行に行くことがある。旅行に行った先でもこのゲームについて考えていた。旅館から眺める雪景色を眺めながら(そうこのときは雪国の温泉旅館に行ったのだ)、このゲームを紙に書いて試していた(実際には紙ではなくてブギーボードという機器を使っていた)。そこで気づいた。このゲームには「情緒」があると。「風情」があると。旅行先で言葉をしたためる行為はさながら「俳句」だ。旅行に行った先でこのゲームを遊ぶと、その時の風景を切り取ることができる。それを誰かに伝えることができる。その誰かは未来の自分自身も含むだろう。誰かにこの景色を伝えるためにこのゲームを遊ぶのはとてもロマンチックに思えた。誰かにみせることを意識させるルールが必要だ。

誰かにみせることを意識させることはゲームシステム的にも重要な意味があった。「目にみえるものだけしりとり」遊びでもよく発生した問題で、常に目にみえる人間の身体の部位名称をよく使ってしまいがちになるという問題だ。私はこのゲームで風景を切り取って欲しかった。なので、自分の身体部位ではなく外に意識を向けて欲しかった。あなたの「視ている景色」を伝えて欲しかった。それはあなたが今どこにいるのかを伝えることと同義だ。あなたが「今いる場所」を他の人に当ててもらうようにすれば、自然と意識は外に向くのではないか? あなたがこのゲームを遊んだとき、外にある風景を積極的に使っているのであれば、このルールは成功している。当ててももらうことだけが大事なのではなくて、当ててもらうために外の景色を積極的に「視て」もらうことが大事だったのだ。なので、ルール的には当ててもらったとき当たらなかったときの記載をしていない。そこは本質ではないからだ。そこは自由でいい。きっと正確な座標位置としては当ててもらえないだろう。でも、きっと、その場にいる雰囲気は伝わるのではないだろうか。

当ててもらう自分の場所を書いてもらうための欄は、宣言文のように記載した。宣言をするという体裁をとることでより一層、「いまここ」の場所を意識して欲しかった。観測地点としたのは、言葉がより強いからだ。観測という言葉は、ただ見るわけでないと伝えるために使用している。

このゲームを通して私がプレイヤーの皆さんにやってもらいたいことは景色を切り取ることだ。だけどそれだけではゲームにならない。私はゲームが作りたい(本当だろうか?わからない)。ゲームは結果がでるものだ。ゲームとしての進む方向性を示す制約は必要だった。このゲームはクロスワードを元にしているので、なるべく言葉をクロスさせ縦と横の文字を重ねるようにするのが望ましいだろうと思われた。ただクロスさせるだけではなくクロスさせた文字が別のクロスさせた文字に斜めに隣接するように配置しようとするとさらに制限があり挑戦しがいが生まれ、よりゲーム的になる。そのような考えであのような得点分布となった。ただ得点は出るがその得点をどうするのかはルールに記載しなかった。得点が出たあとはプレイヤーにまかせている。ルールに記載しなくともその得点をどうしたいかはプレイヤーは理解していると思ったからだ。ハイスコアを目指すもよし、誰か他のプレイヤーと競うのもよし。

私は、たとえ1人用ゲームでも同時(必ずしも時間軸的に同一である必要はない)に誰かと遊ぶと「競争」が生まれると考えている。「競争」が生まれるために、同じゲーム内空間を共有する必要はないと考えている(ゲームとして相手のプレイヤーがシステムとして組み込まれていなくてもいいという意味)。単純に競うための指標があればいいと考えているので、得点が出るゲームシステムにした。得点が出るのがゲームだ。得点があれば誰かと競う遊び方もできるし、過去の自分の記録と競うこともできる。

このゲームにおいて、誰かと競うことは同じ景色を視るということに他ならない。同じ景色を視ていても、同じゲーム展開にはならないだろう。同じ景色を視ていても、各プレイヤーが受けとる景色は違うからだ。同じ景色を視ていても人によって視える景色は異なる。人によって視える世界は異なる。同じ世界なんてないのだ。それが綴られた言葉によって明確になる。それもまたロマンチックだなと思った。「得点」があることで「他人」との接点が生まれる。結果として現れる言葉がクロスワードが、自分と他人の視えている世界が異なることを叫んでいる。

このゲームのタイトル「目に視えるものだけが世界のすべて」には2つの異なる次元(層、レイヤーと言い換えてもいい)がある。前半の「目に視えるものだけが」という部分は、このゲームシステムの核となるルールを端的に表している。「みえる」を「視える」としたのは、漠然と眺めるという意味ではなく、意識的に世界を「視る」という意志の宿った視線を表すために「視る」とした。こだわりの部分である。後半の「世界のすべて」はこのゲームの「情緒」を表している。自分が視ている世界とあなたの視ている世界は違う。「世界のすべて」と思っていてもそれは自分にとっての「世界のすべて」でしかない。「すべて」ということで逆説的に「世界」は人の数だけあるということを表している。「世界」を「セカイ」と記述したい衝動に一瞬だけ駆られたが、このゲームでの「世界」はまさしく「世界そのもの」なのであり、「キミ/ボク」だけの「セカイ」ではないからだ。「目に視えるものだけが世界のすべて」と一綴りになるとまた別の意味が現れる。ゲームシステムを端的に表していた説明のための文章にも情緒的な感傷的な意味合いが注入される。「だけ」という強調がコンストラクトを生みだし「目に視えるものだけが世界のすべて」という言葉で排斥された別の言葉の輪郭がより鮮明になる。

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