「自分は絶対悪くない」他責の自己愛性パーソナリティ障害

思春期の頃。友人に「嫌いなことってなに?」と聞かれたことがありました。

「誰かが誰かのことを嫌うこと」

今振り返れば、境界性の症状が明らかに表出してくる直前の時期、私は常に周囲で起こる小さな出来事に、いちいち傷ついていたのを思い出します。

自責と他責

傷つきやすい。これだけ聞けば「HSPでは?」とも思うのですが、実際はHSPの人のような「悲しみ、自責の念」という傷つき方ではなく、「誰も私のことを理解してくれない」「私は悪くないはずだけど、きっとみんな私が悪いと思っている。自分が全て悪い。私が悪い、と思わせている周りが許せない。でも私はそれすらも許して耐えているのだ」といった感情でした。BPDは自責と他責が入り混じったような、複雑さを持っています。誰かが誰かを嫌えば、私も嫌われていると、感じて生きていました。

治療が進んだ今では、社会生活の中での無駄な傷つきは減ったのですが、それでも家庭の中で自己愛性パーソナリティ(NPD)の旦那と過ごしていると、刺激されることが多く、まだまだ平穏とは言えないようです。NPDはBPDと似ている面もあれば、正反対のこともあり、特に「自責・他責」の話で言えば、他責しかない印象がNPDです。
例えば、主人が持っているお皿を落とします。私は「ごめん、そのお皿滑りやすかったよね、足元も散らかっていてごめんね」と必要以上に謝ってしまいます。主人は、私にそう言われれば、ご満悦です。ちなみに先に私が謝らない時は、「このお皿、持ちにくいから今すぐ捨てて、危ないよ、どうしてこういうの買うの?」と思いつく理由を並べてありとあらゆることまで責めるのが日常です。最近は、私の方はBPDの治療的として、「普通以上に過度に謝ることもしない」よう心がけています。

写真うつりの悪さをカメラマンのせいにして罵倒する

先日、家族写真を撮りに行った時のこと。子どもメインの撮影の中で、数カットだけ家族5人全員で写真を撮りました。子どもはまだ小さいので、なかなか全員が前を向くことすら難しい状況。その中で、カメラマンさんは明るく場を盛り上げながら子どもたちの気を引き、仕上がりデータを見ると、3人とも良い表情で撮れたものが5枚くらいありました。さすがプロだなぁと、私は関心していました。

翌日、出来上がったデータを見たNPDの主人が、朝からやたら不機嫌です。

「あのデータ見た?家族全員で撮ったやつ。あの中で家族写真として使えるのは1枚しかない。後のは全部俺の顔が、パンパンに腫れていて、プーっってほっぺしていて、まるで恥ずかしがっているようにしか見えない表情。あんなの、一生残る家族写真にとても残せない。俺今まで撮ってもらって、一枚しかいい写真がないなんてこんなの生まれて初めてだ(NPDの言い方の特徴)。こんなセンスの悪いカメラマンは見たことがない。今すぐお店に電話して、指定の1枚以外をアルバムに載せないように連絡して。こんなの恥ずかしくてとても見せられない。あれ全部でいくら?え?そんなするの?あのクオリティでこれは高過ぎるよ。」

主人の言葉を聞いて、唖然としてしまいました。
そして、実際の写真を見たところ、彼が指定した1枚以外も、私から見ればいつもの主人の顔であり、特段にうつりが悪いということもありません。ただ、彼からしたら、彼が理想とする「清楚でオーラがあってカリスマ性があって、、」というイメージに比べて、少し威厳がないと感じるかもしれない、とは思いました。

「私だったら、自分のせいと思うことはあっても、カメラマンを責めるという発想すら湧かない」

上記のコメントを主人に伝えようと思ったのですが、こういうことを少しでも意見すると、大変。キレてさらに「そんな発言をするお前がおかしい、境界性は病院にいけ」ということになるのが目に見えていたので、ちょうどその日は診察の日だったこともあり、後で診察の時間に、主人と先生両方いるところで、自分の意見を話しました。

もし、私が写真うつりが悪くて主人の立場だったら。自分だったら「あ、前日ちょっと夜更かししちゃったかな」とか「自分が思っているより、自分ももう歳をとったんだなぁ」とか、そっちを気にすることはあっても、カメラマンを責める発想にならない。時間をとって、子どもたちにも明るく接してくれて、一生懸命仕事してくれたカメラマンさんに、感謝するならともかく、とても責める気にならない。

自分の写真うつりが気になること自体はしょうがない。それなら「ごめん、どうしても自分、この写真のうつりが好きじゃないから、これ以外にしたいんだけど、指定できるかどうか、お店に聞いてもらってもいい?」って言ってくれるなら、全然問題なく受け入れられる。

攻撃の相手が他人であっても、BPDは傷つく

ここまで話しても、主人はピンとこない様子です。こんなことで自分を責め立てて意見してくるのはおかしいと言わんばかりです。

私は言いました。

「主人がこういう言い方をするのも、こういう考え方をするのも、それは主人の課題なので、それでいいと思っています。昔は、主人さえ変わってくれれば自分は傷つかなくなるし、今より楽になれると信じてました。でも今では、私次第だなと思うように変わってきています。ただ、こういうことで責められる必要のない人が責められているのを間近で見て聞いているのは、BPDとしては刺激が強すぎる。治療としても良いとは言えない。まるで自分が責められているように感じてしまう。あと、ああ、自分もこれまで、この程度の『責められる必要がないこと』で主人に不当に責められ続けてきたんだなと。そのことはとても悲しいし、悔しい。」

NPDは、他人を責めて、自分を守った気になる

今回は、主人のうつりが悪いことは誰のせいでもありません。もっと言えば、主人も悪くない。自分の理想の自分と違ったものが人目に晒されるのが怖かったんだなと、主人の性格を考えれば理解できます。そして、他人を責めて、自分が上に立ったと思い込んでいますが、そういう時ほど相手は自分を上には見ていない、むしろ「その程度の人間性なんだな」としか感じない、ということは、全く気づかないようです。

「自分が悪いとは微塵も思わない」という、非情なサイコパスとは、少し違う。自分が悪いって気づいてしまうと、自分は素晴らしい人間であるから他人に批判されてはならないし、そんなのは耐えられないし、恥ずかしい。簡単にいうと「心からごめんなさいが素直に言えない人」がNPDのような気がします。ごめんなさい、って言ったら負けだと思っている。でも、「謝ったほうが立場的に有利」とわかった場面では、恐ろしく丁寧に謝罪をする。彼が変わることは永遠にないかもしてないけれど、私が不当に傷つき続ける必要もない。

NPDも育ってきた家庭環境が少なからず影響しているわけで、そう考えると、主人の母(義母)も同じような反応をする人です。いつか、その話もしたいと思います。

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