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『ペリー日本遠征随行記』を読んで

📖講談社学術文庫 刊

サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ著

◇衝動買いの代償
 ペリー提督の日本遠征記に興味があった私は、丸善で並んでいたので、衝動買いしてしまいました。

 🇺🇸ペリー提督は、言わずと知れた浦賀沖に黒船4艘を伴い、永い鎖国政策にあった🇯🇵日本を開国させた張本人です。

【黒船来航の旗艦ポーハタン号を描いた錦絵】
※了仙寺境内にあるMoBS黒船ミュージアム内の売店で買い求めた絵葉書です。蒸気機関で動く転輪までしっかりと描かれています。黒船の由来は、外板の板が痛まないように、コールタールが厚く塗られていたからで、虫なども寄せ付けなかったでしょうが、長く嗅いでいると人間も気分を悪くしてしまいます。

 教科書にも載る幕末の大事件でした。

  浦賀での外交交渉の後、函館・下田の二港を開港すると言う江戸幕府の申し出を受けて、函館に検分した後に、静岡県下田市にも上陸なさいました。下田市街には、〝ペリーロード〟と地元の方々が呼ぶ通りがあるくらいです。

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【下田市の通称〝ペリーロード〟】ペリー提督が上陸した岸辺から🇺🇸初代大使館となる了仙寺山門に至る通りが〝ペリーロード〟と言われています。

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【了仙寺 本堂】※伊豆急下田駅からマイマイ通り歩いて10分、T字でぶつかる交差点にあります。
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【ペリー提督日本遠征記】
マシュー・ガルブレイス・ペリー著 角川ソフィア文庫 刊 平成26年8月25日 初版 宮崎壽子 監訳

 ※写真のような精緻なイラストの挿入画はペリー提督が日本遠征に同道させた🇩🇪ドイツ人画家ハイネが描いたものです。『ペリー提督遠征記』や『ペリー日本遠征随行記』に多数掲載されている挿入画は全て、ハイネが描いたものです。

 てっきり、ペリー提督が記した遠征記と思いきや、そっそかしい私は自宅に着いて読み出してから随行員の方の日誌であることを知ったのです😅

【📖『ペリー日本遠征随行記』】※講談社学術文庫 刊

 この📘本、なかなか見かけ無かったので、ペリー提督の日本遠征記と勘違いしたのも、最終頁を見て納得です。

 2022年7月12日 第1刷発行の最新刊でした。つい最近発刊されたばかりの初版で、📖価値ある一冊ですね。

 今さら返品しに行くのもなんですので、ペリー提督の遠征記はAmazonで買い直して、せっかくですから読み始めました。最新刊なら、ペリー提督来航の新たな発見や所見が解るかもしれません。

 とりわけペリー提督に同道した随行員の立場から見た日米外交交渉の現場を知る人物の日誌なら、なおさらです。

 でも🤔そもそも論として、サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズさんとは何者や?

◇S.W.ウィリアムズ

 解説を読んで知ったのは、著者はペリー提督に随行した主席通訳官の要職にあった人物です。

 1813年9月23日、NY州ユチカという日本人には聞いたこともない開拓地で生まれ、モリソン号事件の🇯🇵日本人船員から日本語を習い1853年のペリー遠征隊に参加し、在中国米公使館の参事官となり、その後🇺🇸の名門エール大学の教授にまでなった英才の方です。

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【モリソン号】 
※モリソン号事件とは天保八年〔1837年〕七月三十日、日本人漂流民・音吉ら七人を載せた🇺🇸の商船モリソン号が日本・浦賀沖に来航した際に、日本の砲台から砲撃されてしまいます。この時の浦賀奉行は、異国船打払令によって警護していた小田原藩と川越藩に砲撃を命じて実行に移したまでですが、止むなくモリソン号はマカオに帰港しました。砲弾が丸い鉄球だったためモリソン号の被害は少なかったのですが、人道上の配慮からわざわざマカオから浦賀まで寄港しようとしたモリソン号に砲撃したため、江戸幕府の対応は国際問題に発展してしまいました😱

 現代のように、自動翻訳機や解り易い辞書が少なかった時代に通訳官は一語一句、正確に翻訳して外交交渉をしないと国益を大きく損なうことから、S.W.ウィリアムズの語学力と翻訳に間違いがあってはなりません。

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【幕末の日本地図】 
※伊豆下田市 了仙寺境内にある黒船ミュージアムで購入した絵葉書の一枚。この地図を観ると伊能忠敬が作製した日本地図が如何に正確であったかが窺い知れます。それだけに🇳🇱オランダ人医師・シーボルトが国外に持ち出そうとして、強制国外退去となったシーボルト事件が起きてしまいます。

 ましてや当時の日本は、漢文調の難しい文書と侍言葉、普段に庶民が喋る会話の日本語が併存し、更には各地の方言があります。外国語は明から清王朝に代わっていた中国の漢文と長崎出島で通好する🇳🇱オランダ語に、僅かに残っている🇵🇹ポルトガル語に対して🇺🇸は英語です。

 当時の外交文書は中国語と英語に、オランダ語に日本語の表記することとし、反故があった場合は、オランダ語表記の外交文書を採用することと取り決めていました。そのため、ウィリアムズ主席通訳官の多忙さが窺い知れる場面もあります。

 S.W.ウィリアムズの日誌は、1853年4月9日〔日本の旧暦では、嘉永六年三月二日〕、広東にいた彼をペリー提督が訪ねて来るところから始まります。

 S.W.ウィリアムズには気乗りのしない日本への遠征だったようで、ペリーの要請に対し遠慮がちで、見かねたペリーが旗艦ミシシッピー号とと共に回航するサラトガ号に士官同様に個室を与えたり、出航準備に要する時間を考慮するという破格の条件を提示して、ようやく同道することになりました。

 彼は日本への随行には常に及び腰でした。それだけにペリー提督を単なる英雄ではなく客観的に観察出来たのでしょう。一攫千金を狙う多数の商人や俄か政治家や米国本国を追われ再起を図って本国に取り入ろうとした有象無象の役人がペリーの許にやって来ていたのを知っていたS.W.ウィリアムズは、ペリー提督の真意が何処にあるのか?探る旅でもありました。

 そんな折り、出航前にペリー提督は呼びもしないのに集まって来た胡散臭い輩には

「日本遠征は物見胡散の観光でもなければ、英国のようなアヘンを用いての略奪の旅ではない。第13代🇺🇸大統領、ミラード・フィルモアの親書を携えての正規の外交交渉に行くのであるから、志なき者は要らぬ」

 と、追い返したいう件りがありました。現に『ペリー提督日本遠征記』とを読み比べても、出航前に寄ってきた輩を追い返す一方、随行員にはドイツ人画家ハイネ、ユダヤ人布教士ベッテルハイム、中国の風習や中国との交渉はシエという現地人に通訳官ウィリアムズ等はペリー提督自身が招集した人物でした。

 出航する前の1852年11月に前任者オーリック提督とサスケハナ号艦長インマン海軍大佐の不協和音が抜き差しならないほど拗れて、オーリック提督が更迭された後を継いで、東インド艦隊司令長官に就任したのがM.C.ペリーでした。

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【東インド艦隊司令長官として日本遠征を記した📰新聞】
 ※了仙寺MoBS黒船ミュージアムで購入した絵葉書の一枚で、ドイツ人画家ハイネの描写は精緻です。

 🐳捕鯨船の寄港地として開港を求める大統領の親書を手交し交渉するよう指令を受け、同年同月に🇺🇸バージニア州ノーフォークを出航しました。

 ここまで書けば、ペリー提督はフィルモア大統領からの信任を受け意気揚々と出航したように感じますが両書を読み進めていく内に、実はペリー提督は失意の中での出航だったことが判りました。

 ペリー提督が記した『日本遠征記』は帰国後、🇺🇸議会に報告書として上程したために、後ろ向きな件りはありませんので、ペリー提督が職務を忠実に執行した文民統制下の立派は🪖海軍軍人であるかを装っています。

 ですが‥‥😩

 大佐だったペリーは艦隊司令長官に就任するにあっって急遽、大佐(Captain)より上位の代将(Commodore)には格上げにはなったのですが、本来なら将軍、少将・中将・大将の(Admiral)ではないので、給与面でも艦隊を率いる指揮権も代将なので本国の指示を仰がねばならず、ペリーの裁量権は限定的でした。ですから、正確にはペリーは提督ではなく、ペリー代理と訳すべきだったのでしょう。

 また、東インド艦隊といっても4艘しかなくその内、蒸気汽船はたったの2艘で残りの二艘は帆船で、本来あるべき艦隊としての陣容は8艘から12艘の大船隊で日本に圧力を掛けねばと強硬論を主張するペリー提督としてはフィルモア大統領の本気度を疑う陣容でした。

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【第13代 米国大統領・ミラード・フィルモア】
※フィルモア大統領の功績は、🇺🇸大陸横断歩道の完成と日本との外交交渉でした。

 それもそのはず、フィルモア大統領は🇺🇸の二大政党である共和党・民主党の出身ではありませんでした。無名のホイッグ党という弱小政党の出身でフィルモア自身の政治的基盤が脆弱で、二大政党以外で大統領に就任した最後の人物で、前任大統領の急逝で就任した代役大統領だったのです。

 さらにペリー提督に追い打ちをかけるような出来事が起こります。まさに〝🐝泣きっ面に蜂〟状態。

 ようやくS.W.ウィリアムズが出航準備が整う5月11日に出航する予定が、船員の一人ウェルシュ水兵が🍾ブランデーを飲み過ぎて暴れ、中国の官憲に勾留され、留置所内で心臓発作で亡くなってしまったため、11日の出航が延期になってしまいました😥

 読んでいてペリー提督が気の毒に感じてしまいました🥺人生って、本当に思い通りには事が運ばないものですが、ペリー提督も遠い異国の地で、大いに落胆したことと、愚考します🙇🏻‍♂️

 ただ、落胆したまま弱腰外交を展開すれば得るものはありません。滅入りそうな自分を奮い立たせて、出航したのですがあの体躯です。身長は1m95cmの巨体でしたが実はペリーは健康面でも課題を内包していました。痛風・リウマチ・アルコール使用障害を患っていました。

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【バシー海峡】※🇹🇼台湾と🇵🇭フィリピンの海峡です。  

 さらに更に、ペリー提督率いる東インド艦隊を待ち受ける自然の脅威に行手を阻まれます‥‥。

 1853年5月20日〔旧暦・嘉永六年4月13日〕ペリー提督一行の船団は上海を出航して、一路台湾と中国の間の台湾海峡を北上しようとしますが、強い北風に行手を阻まれ、なす術もなく船は揺れるがままに任せ大揺れに揺れて乗組員一同気分を害します。同乗していたS.W.ウィリアムズも船酔いし気分の悪い一日を過ごします。船団は艦長の判断により針路を変更しようと、バシー海峡に針路を変更して東に向かいます。

 ですが蒸気機関の船とは言え、当時の転輪の力では強風の北風に抗うほどの馬力はなく、北風に翻弄され澎湖諸島〔ぺスカドーレ諸島〕まで流されていました。

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【澎湖諸島〔ペスカドーレ諸島〕】
※1台湾海峡に浮かぶ島々です。

 ※2  私も家族で八丈島へ向かう際に航行中の一日、船酔いに悩まされましたが車酔いやバス酔いと違い、船は次の港まで揺れ放しです。それはそれは切ないものです。S.W.ウィリアムズも船酔いに苦しみながら日本に向かいました。

 翌日の5月21日は一転して微風で海面も凪、少しは艦内が落ち着いたので、海兵隊の指揮官が水兵たちへ有事に備えて歩兵行進や実弾訓練をしていますが、ペリー提督の日本遠征記には、記されてはいませんでしたので、てっきり優雅な船旅で日本に来航していたのだと、勘違いしていました。

【ムクドリ】
※スズメ目ムクドリ科の野鳥で、体長は24cmほど、中国海南部から日本に広く分布する。

 何故なら、この時期のペリー提督は船の周囲を飛び交うムクドリや美しいカワセミを博物研究家と共に観察していたことを記述しています。恐らく、北風の暴風が止んだ翌日、21日の凪の頃の様子を描いたのでしょうね。

 この頃の記述に、旗艦サスケハナ号の蒸気機関は石炭の消費量を毎時1tに制限して、ミシシッピ号の蒸気機関の半分の速力7.5ノットで運転していたことをペリーは書き留めています。

 東インド艦隊は海軍です。こと有事があれば石炭の消費量など気にせずに自由航行することとなりますが、航行中の石炭の消費量も議会の承認が得られるか心配だったペリー提督は、エコノミー運行で日本に向かいます💦

 航路の海面は湖水のように静かだったとありますが内実は、やはり太平洋でも荒れる海で船酔いに悩まされながらの航行だったのです😰

 ペリー提督の艦隊一行僅か4艘は「満身創痍」で⚓️南アフリカのケープタウン、セイロン、シンガポール、マカオ、香港、上海、琉球を経由して、1853年7月14日〔嘉永6年6月3日〕に浦賀沖に入港したのです。

 この後の日米外交交渉の行方は皆さんのご承知の通りです。

 S.W.ウィリアムズは日曜日の安息日には礼拝を捧げたかったのですが、船内には教会や礼拝堂もなく、祈りを捧げることに無頓着なペリー一人に船内の差配を委ねることはよろしくないと否定的な面も記述されていて、ペリーを英雄視はしていません。

 また一方で、ペリーは大変な家族思いで、ちょくちょく子供の喧嘩の仲裁する手紙などをこまめに送るハートの熱い男だったことや気象学に精通していて知識は豊かであり科学的分析も適切と記しており、ペリーを客観的に観察しています。

 ペリーは他の士官や水兵たちから“🧸熊オヤジ〟とか〝🧸熊のオッサン〟とあだ名されていたようで、あの体型や挨拶や合図の声が一際大声だったからだそうで、本人はあだ名に関しても無頓着だったようで、大らかな一面も覗かせます。

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【下田市 了仙寺でのペリー陸戦隊 調練の図】 ※🇺🇸軍の一糸乱れぬ調練演習風景は組織体形の美しさと共に、軍事的威圧感も与え幕府側を牽制しました。

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【🇷🇺ロシア使節との応接の図】 了仙寺MoBS黒船ミュージアムで購入した絵葉書。※了仙寺のすぐ近くには🇷🇺ロシア使節団が逗留した寺院もあります。当時の外交使節との応接の様子を窺い知る絵葉書です。

 🇺🇸ペリーの外交手腕は強硬的でしたが、こと流れ主義的な幕府官吏には威力絶大で、そのお陰もあり日米交渉が進展し、日本開港の大任を果たしたペリーは持病も悪化したため翌年9月11日に艦隊を去り英国船で帰国、その翌年1月12日にNYに帰着しました。それからは🇺🇸議会に報告書を上程するため日本遠征記を書きまとめて議会に提出してから3年後の3月4日、NYで死去、享年63歳でした。

 ペリー提督は議会に提出したその報告書に、日本が開港を許した函館・下田の海図と湾内調査結果をと共に、日本の風俗や国民性にも触れています。

 家具や調度品などの精緻な作りと町の脇にある排水溝にみる清潔さをつぶさに観察し、日本は西洋のような蒸気機関などの工業力を持ち合わせたら、そう遠くない間に、米国にとって脅威となる国になるでしょう、と結論付けていました。

 追伸 現在、静岡県下田市では「下田観光デジタルdeスタンプラリー」を11月30日まで開催されています。当てのない旅もいいものですが、見所を決めて訪ねてみるのもいいものなのでご参考に挙げておきます。

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【「下田観光デジタルdeスタンプラリー表紙」】
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【「下田観光deスタンプラリー裏表紙」】

 ※ 後日談の追加です。
ペリー提督が率いる🇺🇸米国艦隊の黒船四艘が浦賀沖に姿を現したのが嘉永六年六月三日 丙子の午後4時ごろ、です。
新暦に直すと1853年7月8日 金曜日。

「泰平の 眠りをさます上喜撰(蒸気船)
たった四はいで 夜も眠れず」と、詠まれた狂歌は有名ですが、なぜ🤔
こんな中途半端な六月三日、新暦の7月8日に来航という大事な行事の日程を選んだのでしょうか?
 
 ここからは、私の愚考による推論ですが‥‥。
ペリー提督は本当は7月4日、日本の旧暦では5月28日に来航したかったのではないでしょうか?
 当時1853年の7月4日は、月曜日。
 一週間の始めの日です。

 日曜日の安息日で、人と会うことを控えなければならない曜日ではありません。
この日は、ウィリアムズ通訳官もペリー提督の遠征記にも🇺🇸の建国記念日で祝砲を伊豆半島沖の遠洋に放っていることが記されています。

 石廊崎から見える🗻富士山の下部・中部には厚い☁️が覆い、山頂が少し顔を出していたようです。
 ですが、最初にも触れたように、ウェルシュ水兵の失態で出航が遅れ、バシー海峡での難破もあり比較的海水面が穏やかで船足が予測できる太平洋の航行に支障を期たしてしまったために、三日遅れの便り(国書・親書)となってしまったのかも🫢

🎵『アンコ椿は恋の花』のジャケット。
※歌詞の出だし『三日遅れの便りを乗せて、船は出る』は余りにも有名ですが、歌の舞台ともなった伊豆大島は、ペリー提督の遠征隊が通過した海洋です。

 まさに、都はるみさんの代表作♫『あんこ椿は恋の花』の演歌歌詞〝三日遅れの便りを乗せて、船は出る出る〟に、なってしまったのですね。
                 (終わり)

#読書の秋2022


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