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【PODCAST書き起し】山内ケンジさん(劇作家・演出家)と城島和加乃さん(プロデューサー)に演劇と「城山羊の会」について聞いてみた(全5回)1,山内さんの演劇体験 学生時代から

【PODCAST書き起し】山内ケンジさん(劇作家・演出家)と城島和加乃さん(プロデューサー)に演劇と「城山羊の会」について聞いてみた(全5回)
1,山内さんの演劇体験 学生時代から

【山下】皆さん、こんにちは。「みんなで語る小劇場演劇」のお時間でございます。今日はゲストに、「城山羊の会」の作・演出をされている劇作家・演出家の山内ケンジさんに来ていただきました。山内さん、よろしくお願いします。

 

【山内】よろしくお願いします。山内です。

 

【山下】そして、城山羊の会のプロデューサーでいらっしゃる城島(じょうしま)さんです。

 

【城島】城島和加乃です。よろしくお願いいたします。

 

【山下】城島和加乃さんです。よろしくお願いします。そして、PODCASTERで私といつも一緒にやっているうちの谷です。

 

【谷】東北新社の谷です。よろしくお願いします。

 

【山下】私は東北新社の映像テクノアカデミアの山下です。ということで、ホントに一期一会になるかもしれないんですけれども、私が1回山内さんと演劇のお話をしたくて……快く引き受けてくれてありがとうございます。

 

【山内】いえいえ。とんでもございません。ありがとうございます。

 

【山下】山内さんと私はずっと同じCM業界にいたんですが、山内さんがCM業界に入られたのは……ここに山内さんのプロフィールがあるんですけど、1983年に電通映画社(CM制作会社)に入られたということで、私がこの2年後に「テレコムジャパン」(CM・TV番組制作会社)に入りまして、そのままずっと山内さんの背中を見ながら追いかけているという感じだったんですけど。実は電通映画社に私の大学のゼミの先輩で黒田秀樹さんという人がいまして……。黒田さんと山内さんは、黒田さんのほうが先輩?

 

【山内】1年先輩ですね。

 

【山下】そうなんですね。

 

【山内】歳は同じなんですけど。

 

【山下】黒田さんはうちのゼミの先輩で、音響ハウスの近くの編集室でフィルムの編集をしている時によく会ったりしていたんですけど、それで知っていて。黒田さんと山内さんが登場している……山内さん、この本知っていますか?

 

【山内】知っています。ずいぶん昔の……。

 

【山下】『あいつら、おかしいぜ』という本が1990年に発売されて……これ、家から持ってきたんですけど。僕が28歳の時にこれを読んで、「これをやっている人が山内ケンジさんという人なんだ」というので初めて知って、その後30代半ばに、初めて山内さんに企画か演出をお願いする相談をしたことがあったんですけど、覚えていますか?

 

【山内】全然、覚えていないです。

 

【山下】全然覚えていない? まあそういうものですよね・・・。私はとてもよく覚えているんですけど、その時に山内さんがお芝居のことが好きだというのを聞いていて、「最近何か面白いものはありますか?」と僕が聞いたことがあるんですね。覚えていないと思いますけど、その時に山内さんは「青年団が面白いよ」と。「そんな劇団があるんだ!」ということで、初めてこまばアゴラ劇場に行ったんですけど、1996年のことなんですが。今はカレー屋さんになっていますけど、昔こまばアゴラ劇場の前に喫茶店がありましたよね?

 

【山内】はい、はい。

 

【山下】そこの喫茶店で開演を待っていたら、山内さんがいらっしゃったんです。それも覚えていないですよね? それは覚えている?

 

【山内】山下さんはしょっちゅう劇場でお見かけしているから、あまり具体的には覚えていない。

 

【山下】ただ僕はその時が初めてだったので、青年団のチラシを見たら、ヤマウチケンジという同じ名前の人が出ていたので、山内さんに「あれ? これ、出るんですか?」と聞いたんです。そうしたら「俺じゃない。これは青年団の山内健司さんで違う人だ」と言って……。

 

【山内】俺とは言わないですけどね、僕は。

 

【山下】そうか。「僕」かな?「僕ではないよ」ということで。その時に初めて観たのが『冒険王』という、イスタンブールが舞台でバックパッカーのゲストハウスの話だったんです。学生時代にお芝居をときどき観ていたんですけど、私がまた演劇をたくさん観るようになったのはそれからなんですよ。なので、山内さんは全然意識はされていないと思いますけど、私にとっては演劇をもう1回観させてもらえるようになったお師匠さんだというふうに思っております。ということで、これが長い枕でございますが、小三治師匠の枕よりは短い枕……。

 

【山内】小三治は枕だけで終わっちゃうから…。

 

【山下】これで終わってしまったらどうしようもないので。ということで、今日は山内さんにいろいろとお伺いしたいことがあって、城島さんにも後ほどいろいろとお伺いしていきたいと思いますけど。山内さんが演劇をご覧になられたのはいつごろぐらいからなんでしょうか?

 

【山内】いつごろですかねえ? 10代の……というか高校生ぐらいの時だと思うんですけどね。

 

【山下】高校の時に自分で「これ、観に行こう」と?

 

【山内】そうですね、たぶん。

 

【山下】それは何かきっかけがあったんですか?

 

【山内】僕の世代は80年代の演劇ブームだから……80年代の演劇ブームというのは、「つかこうへい」からなんですよね。つかこうへいから入るという人がほとんどだったと思うんですけど。つかこうへいをホントに観るようになったのは、20歳は過ぎていますね。その前に、当時の西武劇場、今のPARCO劇場、ああいうところでお芝居を観るのがサブカル時代だから、まあオシャレというか……。周りの同級生の子たちはそういうのにあまり行かなかったから、そういうので優越感に浸るというかね。それがだから……。

 

【山下】高校の時?

 

【山内】……だと思います。そのころ、西武劇場とかで、ニール・サイモンとかをやっていましたね。オシャレ系だから、西武劇場は当時。あと、岸恵子主演の『検察側の証人』とか。

 

【山下】なるほど。翻訳劇ですね。

 

【山内】『検察側の証人』は主演が岸恵子で、演出が市川崑だったんですよ。

 

【山下】映画監督の?

 

【山内】そうそう。

 

【山下】へえ! 市川さんが。

 

【山内】そういうことをやっていたりしましてね。ニール・サイモンは『おかしな二人』とかですよ。石立鉄男と杉浦直樹とかね。

 

【山下】おお! なんか懐かしいですね。

 

【山内】そういうのを観たりとか、あとは安部公房スタジオも観ましたね。

 

【山下】その時は安部公房さんが演出をされて?

 

【山内】そうです。山口果林が出ていて。山口果林は知っていたから、有名だったしね。好きだったし。全然わけの分からない内容でしたけど。それを西武劇場で観たりしていて、それが10代で、それからはつかこうへいですね。

 

【山下】じゃあ、つかこうへいは大学に入ってから?

 

【山内】たぶんそうだと思うんですよね。紀伊國屋ホールに前の晩から並んだりしないとチケットが取れないという……。

 

【山下】前の晩から並んで、当日券で入っていたということですか? 前売りはなかった?

 

【山内】前売りだと思うんですよね。前売りで並んでいたんじゃないかな、たぶん。

 

【山下】そんなに人気だったんですね。僕、つかさんの生の作品は東京では観れなかったんですけど、大阪だったから。VAN99ホールって……ありましたよね。

 

【山内】そうそう。VAN99ホールがね……。

 

【山下】あれはどんな……?

 

【山内】それは、僕は観ていないんですよ。そこには間に合っていないというか、そこまでマイナーなものにはまだアンテナを張っていなかったというか……なにしろその前が西武劇場だから、いきなりそんなちゃんとしたところ……つかこうへいのVAN99とか..文学座でもやっているんですよね。『アトリエ』とか『熱海殺人事件』とか。そういうのには全然間に合っていなくて、紀伊國屋ホールからですね。

 

【山下】紀伊國屋ホールを毎回満員にしたというのは、つかさんの評伝の本にも書いてありましたけど。つかさんの作品で何か印象に残っているものというのは?

 

【山内】いや、もう演劇ブームなので、来るものは全部観ていたという感じだから。でもやっぱり『熱海~』が1番衝撃でしたよね。当時としては新鮮だったから。

 

【山下】ですよね。私は、大阪で劇団☆新感線が『熱海殺人事件』をやっていて、そこからハマったんです。

 

【山内】新感線もつかこうへいからですよね。

 

【山下】そうだったんですよ、昔は。

 

【谷】いのうえ(ひでのり)さんの演出ですよね。

 

【山下】いのうえさんはずっと演出ですね。いのうえさんは僕とたぶん同い年かな。そのころ渡辺いっけいがいて、「めっちゃ面白い人やな、この人」と思って観ていたんですけど。じゃあ山内さんは、学生時代は自分でお小遣いを貯めてお芝居を結構観に行かれてたんですか?

 

【山内】そうそう。

 

【山下】東京はたくさん観られるところがあるから。

 

【山内】そうですね。演劇ブームなので、ひと通りだいたい観ているんですけれども、そういう小劇場だけじゃなくて、「演劇集団 円」とか……。

 

【山下】「円」って岸田今日子さんとかがいらした?

 

【山内】そうそう。学生時代、円の会員になったりしていて。うちからすぐなんですよ、成子坂下にあったの。

 

【山下】成子坂下が分かりません。どこ?

 

【谷】北新宿ですね。

 

【山下】なるほど。あの辺なんですね。

 

【山内】……に当時円のアトリエがあったの。そこまで自転車で行けばすぐだから。

 

【山下】いいですねえ。自転車で行ける劇場があるって。

 

【山内】そういう、つかこうへいとか第三舞台とか野田秀樹とかみんな観ていたんだけど、でも、当時の円というのはそれとは一線を画していてまったく違うもので、非常にアカデミックなものだったんですよ。

 

【山下】どういう意味でアカデミックだったんですか?

 

【谷】本がアカデミック?

 

【山内】そう。渡邊守章というフランス文学の先生、もう亡くなりましたけど……渡邊守章がフランス文学で、安西徹雄さんというのがイギリス文学なんですけど、安西徹雄さんはシェイクスピアとかを自分で翻訳して演出したりして、渡邊さんはアヌイとかジロドゥとかモリエールとかを自分で訳してどんどん演出していくという、そういう劇団。

 

【山下】なるほど。ということは、割と翻訳劇をたくさんご覧になっていたんですね?

 

【山内】円では観ていましたね。一方で俳優座とか文学座も観ていたんだけど、全然、円のほうが面白くて……という感じ。そもそも岸田今日子と橋爪功がいるから、それだけでもう全然違うんですよ。

 

【山下】あの2人がいるともう……やはり俳優の力ということですね。

 

【山内】そうですね。面白かったですね。今にして思うと、当時の円はホントに良かったですね。

 

【山下】なるほど。円は会員になったから、毎月の公演とかが観れていたということなんですか?

 

【山内】そう。

 

【山下】それをレギュラーでご覧になりながら、他のものも80年代の小劇場ブームに乗ってご覧になっていたということですか?

 

【山内】そう。

 

【山下】他に印象に残っている小劇場ってありますか?

 

【山内】小劇場というか全部観ていたんだけど、だんだん2年3年観ていくうちに自分の好きなものが分かってくるの。

 

【山下】ですよね。それは私も分かります。

 

【山内】そうすると、つかこうへいからどんどん離れていって、結局当時その前から流行っていた「静かな演劇」的なものにどんどん入っていくという、そういう経緯ですね。

 

【山下】それは岩松了さんとかその辺の……?

 

【山内】そう。ずっと東京乾電池は観ていて、岩松さんが書くようになってから、岩松さんのカラーがどんどん好きになっていくという……。東京乾電池と、(劇団東京)ヴォードヴィルショーというのがあったんですよ。

 

【山下】佐藤B作さんのですね。

 

【山内】そうそう。それが2つ人気で、結構笑いも多くて。でもヴォードヴィルショーは初めから全然ダメだった。1回ぐらいしか観ていない。

 

【山下】へえ。なんかあるんですかね?

 

【山内】でも乾電池は好きだった。乾電池は(渋谷)ジァン・ジァンとかでも観たけど。岩松さんが書く前ね。それでも好きだったんですよ、そのくだらなくて情けない感じが。

 

【山下】あのころって、柄本(明)さん以外の方も何人かいらっしゃったんですか? 綾田(俊樹)さんとか?

 

【山内】もちろん。高田純次とかベンガルとか。城島さんはそのころいたんですよ。

 

【山下】え?

 

【城島】私、実は乾電池……。

 

【山下】……出身?

 

【城島】そうなんです。全然そのころに山内さんとご縁は……あ、でも、たまたま私の学生時代の友人に斎藤和典という電通の……。

 

【山下】あ、斎藤和典さん! 日清UFOのCM「ヤキソバン」のプランナーの。

 

【城島】そうです。私、多摩美だったので。

 

【山下】和典さんも多摩美で?

 

【城島】そう。偶然乾電池にいた時に、斎藤の名前が出て……あ、呼び捨てにしちゃった(笑)。それで、え? なんていう話になって……私たちはニックネームで「ゴジラ」と呼んでいるんですけどね、すごく戦闘とかそういうのが好きで……ゴジラに「山内ケンジさんって知ってる?」と聞いたら、「何、言ってるんだよ」みたいな感じで……。

 

【山下】その時は仕事を一緒にしていたんですか、山内さんと?

 

【城島】全然その時は、面識はなくて……私は演劇の世界に触れたのが結構遅かったので、山内さんがすごく早いうちから乾電池を観たりしていたころの乾電池は、ギリギリ知らなかったりするんですけど……。

 

【山下】城島さんはいつごろからご覧になっているんですか?

 

【城島】私は『蒲団と達磨』ぐらいの時からなんですね。だから結構遅いんです。

(※『蒲団と達磨』初演:1988年@本多劇場)

 

【山下】『蒲団と達磨』って有名な作品ですよね。

 

【城島】本多(劇場)だったかな? ちょっと忘れちゃいましたけど……。

 

【山内】アゴラでもやっていたよね、その町内会シリーズ?

 

【城島】『蒲団と達磨』は再演をして、そのあたりから私は演劇の制作のほうに関わってきたので……ちょっと明確には覚えていないんですけど、「お父さんシリーズ」というのが始まって……。

 

【山下】お父さんシリーズ?

 

【城島】はい。岩松了の「お父さんシリーズ」という『布団と達磨』と『お父さんの海水浴』、それとお父さんのなんとか……ちょっと忘れちゃいましたけど……岩松さんに怒られちゃう。今でも可愛がっていただいているので、「おまえ、俺の作品の名前を忘れるなよ」と言われそうな感じで……(笑)

 

【山下】城島さんは東京乾電池で制作をされていたんですか?

 

【城島】私は舞台制作……あとでお話ししますけど……その当時乾電池はいわゆる劇場ではないところで演劇をという、今流行っている「イマーシブ・シアター」とかそういう……なんと言うんでしょうか……。

 

【山下】「イマーシブ・シアター」って何ですか?

 

【城島】例えばどこか別の建物を借りて……。

 

【山下】ああ!

 

【城島】観客席と舞台の壁を取り払った演劇というのをいち早くやっていたんですね。それを担当しろと言われて……。

 

【山下】大変ですね。

 

【城島】大変でしたけど(笑)

 

【山下】場所探しが1番……。

 

【城島】元々はホテルとかが多かったんですけど。そういう仕事をしていて……。

 

【山下】それはたまたまそういうことをやるきっかけがあったんですか?

 

【城島】私、実は舞台美術がやりたくてこの世界に入ってきたんですけど、当然のことながら、岩松了さんの作品をやっているので、舞台美術などない時代なので、そういう仕事に恵まれずぐずぐずしていたら、先輩に「こういうイベント系の舞台をやっているからやらないか?」と言われて、それがきっかけですね。そこで知り合った俳優さんを経由して山内さんと知り合ったという……その話はまたあとで出ると思いますけど……。

 

【山下】そうなんですか。じゃあ1回話を元に戻して。山内さんが学生時代から観られていたものの中で東京乾電池とかが割と面白いぞと。山内さんは早稲田だから、他にも「第三舞台」とかもご覧になっていましたか?

 

【山内】何回か観ていますけど、そんなには観ていないです。

 

【山下】なるほど。あと、早稲田小劇場系の舞台とかは?

 

【山内】いや、鈴木忠志さんのそれはちょっと年数が違うんじゃないかな?

 

【山下】ちょっと前の……。

 

【山内】……だと思います。

 

【山下】80年代は違いますもんね、確かに。

 

【山内】ちょっと違うと思います。利賀村とかも行っていないし、その前も間に合っていないです、早稲小は。

 

【山下】僕らの時は青山円形劇場とかがあって、若手フェスティバルとかを観に行ったりしたのを覚えていますけど。「青い鳥」とか「遊◎機械」とかあの辺ですね。

 

【山内】もちろん、そういうのは観ていますよ。80年代……演劇ブーム……。

 

【山下】そうですね。小劇場ブームで広告批評に特集されていたので、僕は喜んで観に行ったという……ただ東京の方が公演がすごくたくさんあったのですが、その中から大阪に来たものはとりあえず観るという感じだったんですけど……。「夢の遊眠社」とかもご覧になっていたんですか?

 

【山内】もちろん、観てますよ。

 

【山下】その中で、観ているうちに自分がいいなと思うものはやっぱり「静かな演劇」的な、岩松了さん的なものだったんじゃないかと。

 

【山内】どんどん淘汰されていったという感じですね。それと、さっき言った、円のアカデミックなちゃんとした芝居というか翻訳劇みたいな……。別役実とかもやりましたけどね、円は。

 

【山下】ですよね。別役さんはいろいろなところに書かれていましたから、すごくたくさん。

 

【山内】でもそうですね。やっぱり岩松了と別役実、青年団、(平田)オリザさんというのが、だんだん絞られてきたという感じじゃないですかね。そのうち当然皆さんご存知の、そこから派生しているいわゆるリアリズムの人たち、ナチュラル演技の人たち……。

 

【山下】大げさにやらないやつですね。

 

【山内】きわめてリアルなものですね。ハイバイの岩井秀人さんとか五反田さん(前田司郎)とかポツドール(三浦大輔)とか、そういうふうになっていくわけですよ。でもおおもとは全部「静かな演劇」に変わっていくというか……そもそも「静かな演劇」という言い方もどうかなというのもあるんだけど、対照的なのが……。つかこうへいもそうだけど、唐十郎がいるわけですよね。

 

【山下】状況劇場の。

 

【山内】唐十郎が圧倒的にいて、寺山修司もいて。寺山修司も少し間に合ってはいるんですよ。

【山下】生前の寺山先生に?

 

【山内】そうそう。

 

【山下】おお!

【山内】それは大学1年の時とかですね。『案内人』とか『奴婢訓』とかは観ているんですよ。観ているんだけど、わけが分からないんですよね。

 

【山下】僕は観れていないんですよ、寺山修司のやつは。映画は観たけど。

 

【山内】なんか撮影の手伝いでね、スチールの手伝いで六本木の「天井桟敷」に行ったことがありますね。

 

【山下】撮影の手伝いで行ったんですか?

 

【山内】ちょっとバイトで。まだ六本木にあったころ。

 

【山下】へえ! その時はまだ寺山修司さんがいて?

 

【山内】いましたね。

 

【山下】あの喋り方で?

 

【山内】そうそう。いや、ちゃんとは見ていない。寝ていたような気がする。

 

【山下】そうなんですね(笑)

 

【山内】でもとにかく黒テント、紅テントというのがドカンとあって、それに対抗するというか否定していくというか、それがこういう……なんて言うんですか? 自然に喋っていく……。

 

【山下】ナチュラルな……。

 

【山内】……お芝居というのが生まれてきたわけだから……当然と言えば当然なのかもしれない、流れとして。

 

【山下】ただでも、表現のバリエーションが増えていっているわけですよね。

 

【山内】そう。でも結局それは今でもあるわけだし、そういう非常に演劇的なものというか……。

 

【山下】劇的なるものとナチュラルなものとありますよね。

 

【山内】そうそう。ナチュラルなものがあまりにも主流になってしまったので、それをまた否定する動きがあるでしょ?

 

【山下】それは必ず起きますよね。

 

【山内】若者の中で例えば……まあいいや。

 

【山下】最近僕が観たやつで、加藤拓也さんの作・演が面白いなと思っていて。

 

【山内】加藤さんは、自然派の流れですよね。

 

【山下】ですよね? 喋りが上手いなと思って。初めて行ったんですけど、今年『ぽに』というのがあって、「へえ! こんな人がいるんだ!」と思って感動したんですけど。

 

ということで、山内さんは岩松了さんの作品を、東京乾電池でご覧になって……ちょっと僕そこのこと詳しくないんですけど……岩松了さんがオリジナルの劇団を持たれましたよね? 何という劇団でしたっけ?

 

【山内】すぐはあれじゃないですか? でも岩松了プロデュースは何本かあって、それから竹中直人の会ですよね。

 

【山下】そうか。竹中直人さんの会ですよね。僕、竹中直人さんは「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」という宮沢章夫さんのやつ、ご存知ですか?

 

【山内】もちろん観ていましたよ。

 

【山下】僕、あれがすごく好きで……。

 

【山内】ラフォーレ原宿のね。

 

【山下】そうです。ラフォーレの上でやっていましたよね。

 

【山内】まあサブカルの一環ですよね。CMなんかと同じで。

 

【山下】まさに、まさに。

 

【山内】まあ一応押さえておく、みたいな感じで観ていました。

 

【山下】そうか。岩松了さんは竹中直人の会をずっとやっていたんですね。

 

【山内】岩松さんの代表作というか、ホントに1番脂が乗っていた時というのは、この竹中直人の会だと思います。

 

【山下】あれってだいたい本多劇場でやっていたんでしたっけ?

 

【山内】だいたいそう。

 

【山下】そうですよね。

 

【山内】初期はスズナリの時もあった。

 

【山下】まあでも本多劇場グループでやっていたんだ。

 

【山内】『市ヶ尾の坂』とかはスズナリでやっていました。

 

【城島】あと、若手を使った群像劇が面白かったですね、『アイスクリームマン』とか。

 

【山内】シアタートップスだね、それはね。トップスが結構多かった。

 

【城島】乾電池の最後のほうに『スターマン』というのをやって、次は何マンがくるのかなと思ったらなかったんですけど(笑)。その『アイスクリームマン』というのは再演もされていて、ホントにたくさんの役者が出ていて……まあ当時の乾電池の若手のために書いたものなので、「全員出す」というのがあったので、ものすごい数の役者が出ているんですけど……。

 

【山下】岩松さんは別に座付作家さんだったわけではないんですか、東京乾電池の?

 

【城島】元々俳優さんで、やっぱりその文の才を……。柄本さんが岩松先生に書いてもらって……。

 

【山下】岩松さんって乾電池の俳優さんだったんですか? そうだったんですね。やっといろんなことが分かってきました。

 

【山内】え、そんなことも知らなかったの?

 

【山下】知らなかったです。

 

【山内】それは驚きました。

 

【山下】僕、大学4年までずっと関西にいたので。そこから観始めて、最初の新人の制作進行(PM=プロダクション・マネージャー)のころはなかなか行けなかったんですよ。ナレーションをとったら、自転車キンクリートの俳優さんが「私こんなのやってるんです」というので観に行ったりとか……。

 

【谷】CMの? 現場で?

 

【山下】そうです。

 

【山内】僕もCMで忙しくなって、学生時代のころのようには観られなくなるでしょ?

 

【山下】ホント観られなくなりました。

 

【山内】観られなくなったんですよ、当然。

 

【山下】どういうふうに、工夫したんですか?

 

【山内】今言った、岩松さんの作品と青年団と……その辺だけに絞らないと……。

 

【山下】観られないですよね、忙しくて。

 

【山内】あとは円を観に行っていたという感じで、なるべく絞って……淘汰されたというのはそれもありますよね。

 

【山下】僕と同じだ。20代後半はまさにそうでしたね。そうしないと観られなかったです。

 

【山内】忙しかったし、自分の時間がさ……。

 

【山下】スケジュールが立てられないですもんね。お客さんとかスタッフの都合が優先なので。でも、僕は観ないとストレスが溜まって嫌になっちゃって、芝居を観るとすごく救われるんですよ。なんでですかね? そういうことはないですか? コロナ禍で3カ月ぶりぐらいに芝居を観に行ったら、すごく気持ちが良くなって、「やっぱりこういうの観ないとなあ」とホント思うんですよね。私だけかもしれませんが……。

 

【山内】でも、そのころの、会社に入って1年2年3年ぐらいというのは、そういうふうに絞ったのと同時に……80年代後半でしょ? バブルのころで日本がお金持ちだったから、海外からすごい劇団を……。

 

【山下】ピーター・ブルックが来たりとか。

 

【山内】そう。もう毎年のように呼んでるんですよ、劇団ごと。

 

【山下】丸ごとね。美術セットも輸入していますもんね。

 

【山内】そう。それを毎回観に行っていましたね。今では考えられない。

 

【山下】そうですね。

 

【山内】ピーター・ブルックを何本も観たし、太陽劇団も……。

 

【山下】太陽劇団、良かったですね。

 

【山内】エイドリアン・ノーブルという……RSCね。

 

【山下】ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーですね。

 

【山内】そうそう。ロイヤル・シェイクスピア。

 

【山下】グローブ座でやっていましたよね。

 

【山内】終わりのほうはグローブ座なんですよ。

 

【山下】そのころに観ました。

 

【山内】でもずっと基本的にはセゾン劇場。

 

【山下】セゾン劇場というのは、銀座一丁目にありましたよね。ピーター・ブルックもあそこでやっていましたよね。

 

【山内】そうそう。あそこが拠点というか、あそこですごいのは大抵やっていた。

 

【山下】ということは西武グループが呼んでいたということですね? すごいお金があったんですね、西武さんも。

 

【山内】お金があったんですよ。

 

【山下】すごいですね、ホントに。

 

【山内】ピーター・ブルックの『マハーバーラタ』とか観に行きましたからね、9時間。

 

【山下】9時間!

 

【山内】会社を休んで。

 

【山下】それはいいご経験をされたじゃないですか。『なにもない空間』という本を書いたピーター・ブルックさん。

 

【山内】今ではありえないですよね。当時は日本はお金があったんですよ。

 

【山下】そうですよね、ホントに。

 

 テキスト起こし@ブラインドライターズ
 (http://blindwriters.co.jp/

 

 

担当:藤本ゆや

いつもご依頼いただき、誠にありがとうございます。

毎回、未知の世界を覗かせていただけるようで、興味深く拝聴しております。

今年はぜひ演劇を観に行ってみようと思います。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

担当:山村陽子

ご依頼いただきありがとうございます。

はじめて聞くお話が多く、様々な背景があって現在の演劇があるのだと感じました。

生で観る演劇、見に行ってみたいと思いました。

 

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