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過去に提出したレポート課題

すっかり今日のnoteへの投稿を忘れていた。
これからオンラインで数学の勉強会があるので今日は過去に提出したレポートの投稿で勘弁してもらおう。


戦争倫理学オプションレポート2   経済学部2年 竹内康司

暴走する路面電車の問題

【case1】
「私」は路面電車の運転手で、時速60マイルで疾走している。前方を見ると、5人の作業員が工具を手に線路上に立っている。電車を止めようとするのだが、ブレーキが利かない。このままでは、5人の作業員をはね、全員が死ぬ(はっきりそうわかっているものとする)。
ふと、右側へとそれる待避線が目に入る。そこにも1人の作業員がいる。路面電車を待避線に向ければ、1人の作業員は死ぬが、5人は助けられることに気づく。
この時、「私」はどうするべきか。

【case2】
「私」は線路の上に掛かる橋にいる。見下ろしていると、路線の先に5人の労働者がいるにもかかわらず、猛スピードで電車が突っ込んでくる。どうやらブレーキが利かないようだ。このままだと電車は5人を轢き殺してしまう。
何もできないと諦めかけていた時、「私」の隣に橋から身を乗り出しているものすごく太った1人の男がいることに気づく。もし、「私」がこの男を突き落とせば、電車の前に落ち、彼は死ぬが、5人を助けることができる。
この時、「私」はどうするべきか。

【case3】
傍観者である「私」は【case2】と同じ状況下で、太った男を押さなくても線路上に落とせるとする。太った男は落とし戸の上に立っていて、「私」がハンドルを回せば落とし戸が開く。
この時、「私」はどうするべきか。

【case1】~【case3】の違いを考察する。「私」が最も当事者となりうるのは【case1】の運転手である場合であろう。しかし、いずれの場合も「私」の行為は確実に何らかの帰結を導くことになる。たとえ、「何もしない」という消極的行動をとった場合でも5人の命は奪われることになるので、「見殺しにした」という批判を受ける可能性もある。 

一旦、問題を整理しよう。【case1】では「5人」も「1人」も作業員であり、列車に関する仕事に従事するため事故の当事者となりうる。したがって、どちらが犠牲になっても「列車事故」という客観的事実に大差はないと考える。ただし、「1人」を犠牲にすることを「私」が選択するとすれば、「被害を最小に食い止めたい」という功利主義的願望による行為といえる。

【case2】、【case3】の「1人」は事故に関する当事者ではない。「私」と同じ傍観者である。しかし、「私」が「5人」を救済するため彼を「手段」として利用した場合、事故の当事者となる。「事故の悲劇を最小にしたい」という願望は【case1】と共通するが、その願望を実現するために事故とは無関係の人間を巻き込むのを許容するか、否かという問題になる。【case2】、【case3】の差異としては「私」が「1人」を犠牲にするための方策としていかに「摩擦度」、すなわち「自らの身体的接触」を最小に抑えるという点である。
【case3】のように「摩擦度」が低ければ、「1人」を犠牲にすることの逡巡も薄れ、自らの行為がより妥当なものであると確信を深めるのだろうか。いずれにせよ、焦点となるのは無関係な人間を犠牲にするのは倫理的に妥当であるのか、という点に尽きる。

ここで、それぞれの【case】の違いとして「私」がとる行為ではなく、「動機・意図」、「心理的プレッシャー」が要因となることが推測できる。なぜなら、帰結に着目すれば「5人を救うか」、「1人を救うか」の二択でしかないので、功利主義的に考えれば、悲劇を最小に抑えるため「1人を犠牲にする」という決断をどのcaseでも選ぶからだ。

しかし、前回のレポートでも考察したが、「数」ないし結果論で道徳的判断を下してもよいのか、私は疑問視する。すなわち【case1】~【case3】の違いは、帰結以外の要素によって生じるはずだ。それぞれ、比較検討していこう。
【case1】では「私」は自らの意思が制限された状況にいる。つまり、「私」が望む、望まないにかかわらず、電車は人を轢き殺してしまう。「ブレーキが利かない」のは「私」の意思とは無関係であり、倫理的判断に影響を及ぼすものではない。よって、「私」の判断は帰結に依存する。例えば、「1人」の作業員が私の親友ならば果たして、「私」は待避線に向かうだろうか。
他方、【case2】、【case3】の「1人を犠牲にする」という行為はたとえやむをえないとしても「私」による殺人でしかない。では、「何もしない」ことはどうなのであろうか。「何もしない」という消極的行動も「5人」を殺害したことになるのだろうか。

私の回答はNoである。「5人」の命を奪うのはあくまで「暴走した電車」であり、「私」は彼らの死に対し本質的には無関係だ。「5人」を救う手段を知っていてもそれを行使しないことが、「殺人」には問われない。なぜなら、その手段こそ「能動的殺人」であり、生命を救うために生命を犠牲にするのは道徳的に矛盾している。
すなわち、数の大小関係で少数の命は多数の命よりも「重み」が小さく、ないがしろにしてもよい、という「例外」は「生命を尊重する」という道徳法則に反すると私は考える。だから「5人」を救いたいと切望してもジレンマに思い悩む。【case3】で心理的負担が軽減されようとも自己矛盾は内在化されたままなので、結局【case2】同様、無関係な「1人」を「手段」として利用することに葛藤(あるいはある種のためらい)を覚えるならば、功利主義的な動機には限界がある、といえる。

ゆえに【case2】、【case3】での「私」は「人生の意味」や人間の尊厳について熟考しなければならない。その時、「私」の動機は効用最大化以外のものとなりうるかもしれない。

参考文献
マイケル・サンデル.2010.これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学.p32~35.Tokyo:早川書房


今読み返すと思考が未熟だなと思った。
今日も皆様にとって、よい一日でありますように。

悲しみの果てには何があるかわからないけれど、冬が終われば温かな春はやってくる。
どうか被災地の皆様が温かくして過ごされますように。

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