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中村彝の夕食を作ったのは誰か?東京都新宿区にある中村彝アトリエ記念館に行った


先々月、東京駅から徒歩五分の場所にある、アーティゾン美術館へ行った。

その際に一番気になった絵は青木繁のわだつみのいろこの宮だったが、2番目に気になった絵が、この絵である↓



この絶妙な表情!
そんで帽子の被り方!

絵を見ると目が合う男に話しかけたら
こちらの期待を爽やかに裏切る言葉が返ってきそうな、やや不穏な笑み。

この顔、誰かに似てる気がする。
芸人だったか。それとも俳優だったか。

名前は思い浮かばない。
黒いスーツ+ハットに白のタイが、探偵物語の衣装のようだから、きっとそんな連想をしただけだ。

しかしどうにも、この絵の中の人物がどんな人か知りたくなった。



この絵は、中村彝(なかむらつね)の自画像だった。



青木繁と違い中村彝の作品は、全国の美術館に広範囲に散らばっているため遠くてなかなか見に行けない。


ところが東京都新宿区下落合にあった彼のアトリエが、記念館として今も残されていると知って訪れた。



JR目白駅から徒歩10分


彝は、水戸藩士の家の三男として生まれた。
二人の兄が陸軍士官学校に通っていた。
彝も同じ道を目指して受験したが、17歳で既に肺を病に侵されていたため、断念。

療養中に絵を描くようになり、新宿中村屋の相馬愛蔵(実業家で、芸術家のパトロンをやっていた)が用意した芸術家のアトリエに下宿して絵を描く。

相馬愛蔵の長女俊子をモデルに何点も描き、俊子との結婚を申し込むが、相馬夫妻に反対される。その結果、中村屋のアトリエも出ていくことになる。

下落合に自分一人のアトリエを持って、闘病しながら絵を描く。

大正13年、37歳で結核のため亡くなっている。


少女裸像



少女

裸の俊子も良いが、私が好きなのは着衣の俊子だ。
絵の中の少女は、こっちを見てない。
別の方をじっと見つめ、唇は一文字に閉じられ何かを観察し考えている表情だ。

相馬愛蔵と妻の黒光は、俊子のヌードを展覧会に出したこと、彝の病のことも重なり、二人の結婚に反対した。

俊子はその後亡命インド人ラス・ビハリ・ボースと結婚。息子を授かるが肺炎のため彝より早く大正8年に、26歳で亡くなる。

その息子さんも沖縄戦で昭和20年6月に戦死している。陸軍戦車隊に所属していた。


        🔸



アトリエ記念館で、別格の強烈な印象の部屋があった。
住み込みのお手伝いさん、岡崎きいさんの部屋だ。


窓から蜜柑の木が見える。


彝がアトリエを新築してから、亡くなるまでの7年間、身の回りの世話をした岡崎きいが使った部屋です。きいは、水戸徳川家や、土佐山内家に仕えた女性で、万事厳しく、彝の健康管理に当たりました。出入りを裏木戸のみとし、この勝手口の3畳間に寝起きし、面会客を選んだそうです。

画像右下の註


私はこのきいさんの部屋が美しい状態で残されているのが、嬉しかった。

この三畳間が、きいさんの"自分ひとりの部屋"だった。
彼女は、結核の彝の面倒を最期まで診た。


「老母の像」

彝が描いたきいさんの肖像画の題名は、老母の像。
むろん二人は親子ではない。
同じ家に住んでケアをしたきいさんが、彝にとっては「母」同然だったのだろうか。


相馬俊子、或いはきいさん本人による手記などはないか、ググってみただけでは出てこない。
きいさんは字を学んでいなかった可能性も大きい。
記録の存在は絶望的だろう。


きいさんは一日の仕事を終え、あの部屋で眠る前に、どんなことを考えていたのか。

相馬俊子は、本当は彝のことが好きなまま別れたのか、それとも好きではなくなったのか。

私の心に引っかかる。


何につけても私の興味は、周縁化されてきた人々に向くようだ。

         


この日は節分だったが、日中は風も無く暖かだった。
目白駅前を散歩して、そのまま学習院の塀の前を歩き続けて池袋駅から電車に乗った。


目白駅前のこじんまりした喫茶店で



おしまい


参考資料
新宿区立 中村彝アトリエ記念館パンフレット 2022年 3月 公益財団法人 新宿未来創造財団 

または
https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/founder/index.html

より

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