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シモーヌ・ド・ボーヴォワール著『第二の性』を読む③

てゆうか、ヴァギナ嫌悪とか本当にあると信じてる奴らは大馬鹿だね。何か言えてる気になってさ。

松田青子 『女が死ぬ』 中公文庫 p76



『第二の性』第1巻 第二章 「精神分析の見解」は、第一章とページ量を比較すると四分の一程度となっている。

主旨は、精神分析家が説いてきた女についての学問が、人間の歴史そのものを歪曲するものであるという批判である。
 
前章のボリュームから想像するに、著者のボーヴォワールもさらっとフロイトとアドラーの精神分析を否認する程度に敢えてとどめておこうとしているように思う。


フロイトは、人間の生活の発達を性欲の面だけから見る学説を唱えた。
アドラーは、性欲だけで説明するのは無理だとしてフロイトの元をさった。

フロイトは、自分は哲学者ではないからと、自分の体系を哲学的に論証することを拒否した。そうすることで、形而上学的次元からのあらゆる攻撃をかわしたのだと、弟子たちは言っている。だが、彼の主張は全て形而上学的前提を背景にしている。つまり、彼の言語を使用する事は、否応なくひとつの哲学を採用することになるのだ。こうした混乱があるからこそ批評が困難なのであり、また批評がぜひとも必要となるのである。

※1     p 99


フロイトの説によれば、女は幼児期にペニスがないのを残念がっているとしている。

女は男との違いを最初に知るのは、視覚を通してである。
なぜ彼女が、どのようにして、ペニスが付いている身体を羨むのか?女とは違うものが付いてるなとただ思うだけか、ひょっとしたら嫌悪感を持つかもしれない。
 
ところが男性には特権があるから、男性の特徴が自分に無いことを羨む、という説明をしている。

特に、精神分析はなぜ女が「他者」であるのかを説明するのに失敗している。というのも、フロイトでさえ、ペニスの威信は父の絶対性によって説明されると認めながら、男の優位の起源についてはわからないと告白しているからである。

※1    p116-117

また、アドラーの精神分析では、超越✴︎を企てるあらゆる具体的行為を「男性的抗議」であるとしている。


精神分析は、まず男の観点が基準で、その地点からでしか説明しようとしていない。

自己疎外は女性的なもの、主体が自己超越を目指すものが男性的なものとみなしている。なんでそうみなしたのか?が説明されていない。

男のリビドーについて説明し、それに簡単な修正を加えて女のリビドーを説明しようとした。
これは実存主義的観点からすれば、ペニスを持つ経験をいっさいしない人間の、つまり女のリビドーの説明としては不十分である。


🔸ここからはこの章を読み終えての私の感想

自分は女であるという確信を持っていないのであれば、その人は女ではない。

だから、女を客体としてしか見られない。
女として経験できることは何も無い。
その人が女の経験を説明しようとしているのが全くのお門違いとなるはずだ。

まして「実存」や「アンガジェモン」を踏まえた上で考えればフロイトやアドラーの女についての精神分析は、浅薄なものだ。

しかしこのようなハッキリ言って”トンデモ論説”に権威が与えられ信じられていた。
女性のセクシュアリティについては、近代って暗い時代だったんだなあ。




おしまい

※1、✴︎マークについての出典、用語解説はこちらをご参照ください
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