Raison d'etre,,,(存在意義) What am "I"?  羽生結弦 Ⅸ

 人間界の最大の悪は無知である,と私は確信している。此処で云う無知とは、"知” だけではなくむしろ"感” が大部分を占める。
他者によってインプットされている情報システムの洪水に押し流されている現社会において、個人の根源的な存在意識は失われつつある。怠惰に由来する”無知”というウイルスに侵されて、人は気付かぬうちに自分以外の妄想的社会の一部品と化してゆく。もはや自らが発する言葉も意味も、自らの感情や思考さえも自らの意識を持って表現するのではなく、ロボットの脳にプログラミングされている他者によって作り上げられている定型句で満足してしまう。そして、恐ろしいことに、それを最良と判断してしまう、他者による罠に堕とし入れられていることにきづいていない。
このような状況が日常化していくと、人間は知らずしらず、自分以外の人間の支配下に置かれ、その所有物と化し、無抵抗に、安易な娯楽を肯定し、人間としての自らを裏切っていることにさえ気付かなくなってゆくのである。

 苦しむという精神状態は、己の深層意識の根底に生息する異質物を発見した時から始まる。その異質物とは闇である。人はそれと対決しなければならない。
不信、怒り、絶望、嫌悪、憎悪、嫉妬、諸々のそれらが己の意識の中で渦巻く中、もがき苦しみながら、懸命に排斥しようと自らに戦いを挑む。
しかし、其れは不可能だ。何故なら、深層意識の闇は、おそらく地球上にホモサピエンスとして出現して以来、人間が背負ってきた根源的な謎なのではないか?人間の細胞の中に住みついたミトコンドリアの存在の様に。人間の意思によってもたらされたのではないのである。しかも、もはや其れ無しでは、人間が人間である所以が崩壊してしまう。
 人間の深層意識の根底に、我々は<アベルとカイン>を同時に宿しているということを知らなければならない。さらに、我々はカインの末裔であることを熟考しなければならない。この紛れもない真実に、終わることのない苦悩が人間の精神を蝕み始める。もはや其れから逃れることは不可能なのである。それゆえになおさら、人は己の中のおぞましい異質物に戦いを挑む。
その戦いがやがて、混沌(カオス)を生じさせる。
そのカオスを、羽生は自らの肉体に刃を突き立てて舞って見せた。
深層意識の中に宿る闇の存在を、彼は知ってしまったのだ。それから逃れることのできないディレンマ。その焦りと苦悩を空(クウ)を切り裂く鋭利な刃物と化した彼の肉体は、極度のテンションで氷上を馳走する。あたかも、自身の肉体も精神も捨て去ってしまいたいような激しさである。
しかし、好むと好まざるとにかかわらず、影は己が存在する限りその存在に執拗にに付き纏う。絶望。

 この数日間、私は何年も封印してあった段ボール箱のかなりの量のR.ヌレイエフのドキュメンタリーを見直した。ヨーロッパ在住中、私は通常古典バレエと言われる分野を好まないのだが、R.ヌレイエフが踊るときだけは劇場に足を運んだ。特にM.フォンテインを相手にすると、通常は野性的で(それもまた魅力であったが)時には傲慢でさえあった、あのR.ヌレイエフが、M.フォンテインと踊るときだけは、情熱的で純粋に恋に生きる青年に豹変するのが愛おしく、興味深かった。
 20世紀後半のR.ヌレイエフの出現は、それまでバレリーナーの補助役的な男性バレエダンサーの位置を覆してしまった。造花のようなバレリーナ―よりも、情熱的で生々しく美しく、こちらの肌に彼の体温が直接伝わってくるようなR,ヌレイエフの演技が男女を問わず観客を熱狂させた。
 羽生結弦の進化を見ていると、若き日のR.ヌレイエフの、バレエへの情熱を彷彿とさせていることに気が付く。旧態依然としたそれまでのバレエ界に新しい息吹を吹き込んで、生き生きと魅力あふれる創造の世界を次々に展開していったR.ヌレイエフ。
 羽生のフィギュアスケイトへの情熱は、20世紀後半に革命を惹き起こしたR.ヌレイエフのバレエへの限りない情熱に匹敵している。

                 M.Grazia T.












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