昭和57年春の三沢光晴選手インタビュー回想

これは8年くらい前の文章である。
探して、コピペした。
レスラー以外の人は、当時のプロレスサークルのメンバーのあだ名である。

全日本プロレスの事務所に許可をもらって、砧の全日本の合宿所で三沢選手のインタビューをしたのだった。
今はノアの社長だが、当時はまだデビュー一年生のグリーンボーイだった。当然まだ二代目タイガーマスクになる前である。越中選手とのタッグはジャンピングボンバーズと呼ばれていたが、まだ外人との対戦経験もなかった。この年の最強タッグの決勝戦の日に蔵前国技館でジェイヤングブラッド選手と初の外人相手のシングルマッチをしたのである。
インタビューに行く時の手土産を俺は月刊プロレスの編集室に電話して尋ねた。タオルがいいというので、小田急百貨店に買いに行った。スーパーとかのではなく、失礼の内容に百貨店でブランド品を買ったのでした。
インタビューは俺とKくんとパトラとゴミと鼻でかで行った。
なかなか砧の合宿所が見つからない。目印に近くのファミレスに良く行くと聞いていたので、ファミレスで尋ねたが分からなかった。すると鼻でかが近くに見掛けた公園を雑誌で見たと言う。公園の近くを探したら合宿所が見つかったのだった。
玄関を開けると、後藤選手出て来た。「あのインタビュー申込んであるんですが」「あ、俺だ」三沢選手が部屋の中から言った。
「どうぞ」上がって居間に通る。居間には後藤選手と川田選手と冬木選手がいた。
冬木選手はウォークマンを聞いていて、川田選手はテレビで山口百恵の赤いシリーズを見ていた。
俺たちが入っていくと、三沢選手以外は部屋に戻って行った。
そこで一時間以上、三沢選手のインタビューを行ったのである。
かなりヤバい話もしていた。年が同じ、つまり学年が一緒だったから、三沢選手も何でも話してくれていた。
Yさんはダメですね。Kさんは酒癖悪いから。
事務所とインタビューを掲載した本を送るって約束していたので、この部分は割愛した。
インタビューの後、道場へ連れて行ってもらった。壁には馬場さんの写真があった。真中にはリング。
なんと俺たちはリングに上げてもらった。
Kくんはジャンボ鶴田選手を真似てトップロープを飛び越えようとしたが、足をトップロープに引っ掛けて、顔面から墜ちて一人フェースバスターを食らっていた。
リング上でも三沢選手から話を聞いていたが、鼻でかとゴミはリング上でブレンバスターをしていた。
合宿所の方を見ると部屋に石川選手がいた。会釈したら会釈を返して来た。石川選手はいい人じゃん!
インタビューを終えて、我々は成城学園でを飲んで帰ったのでありました。
後日まとめた我々の会報Researchは、後楽園ホールで三沢選手に渡した。そして、全日本プロレスの事務所にも約束通り届けたのだった。

これでプロレス団体へのインタビュー申請の方法を覚えた俺は、次には全日本女子プロレスに登時長与千草選手から全日本ジュニアタイトルを奪った立野記代選手のインタビューをするのだったが、それはまた別に書く。

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