2023年12月11日(月) 「夢見る力」と「その気にさせる工夫」

2023年12月11日(月) 「夢見る力」と「その気にさせる工夫」

月曜日の朝だ。会社勤めをやめてもう6年半、さすがに最近は仕事の夢を見なくなった。今日もいつもと同じように詩を読み、感想を書く。素敵な留守番だ。

ところで、粕谷栄市さんの10年ぶりの新詩集『楽園』(思潮社)を読んでいて思ったのだけど、ものはとらえようというか、こちらの受取り方によって命はさらに輝きもするのだということを、この詩集は幾度も書いている。ことあらためて知ったことではないけれども、なるほどな、確かにそうだよな、と頷きながらぼくは読んでいた。

つまり生きて行くためには「夢見る力」が必要なのではないか、ということだ。生きて行くためとか、そんなに大げさなことでなくても、例えば詩を書こうとする時にも、やっぱり「夢見る力」がなによりも原動力になる。

たまにメールをくれる若い友人は、メールの中でよく、これからやりたいことを書いている。来年はこんなことをしたい、と言い出してきて、これまでもその内のほとんどは、実際に行動に移して形にしている。ぼくはその友人のメールの中に書かれていることを読みながら、「ああこの人はすごいな」と思う。実行する能力もあるけど、なによりも「夢見る力」に秀でていると感じる。次から次にやりたいことが浮かぶようなのだ。

で、ぼくも小さな頃から、現実の自分が劣等感の塊だったから、しょっちゅう夢見ていた。こんな詩集が出したいなとか、この詩人に会えたらどんなに嬉しいだろうとか、勝手に夢見ていた。

でも最近は、ぼくの「夢見る力」はだんだん失われてきている気がする。詩のことを考えていても、昔ほどドキドキしなくなってしまった。だめだなと思う。それで、代替案と言っては変だけど、「自分をその気にさせる」ということをしている。つまり、「夢見る力」はかなり小さくなってきてしまっているけれども、その少し残った「夢」を、なんとか焚きつけるということだ。

例えばコロナ前にぼくは、「詩を読む教室」を始めようとしていた。結局コロナのせいでキャンセルになってしまったのだけど、「詩を書く教室」と平行して「詩を読む教室」ができないだろうかと今でもたまに考えている。新宿か池袋(かつての池袋教室でやってもいい)で、小人数で、1冊の詩集をみんなでしっかり読む会だ。地味な勉強会だ。

そういったことをやります、と言ってしまえば、やらざるをえなくなるわけであって、そうすると、その日のために僕はその一冊をきちんと読めるようになろうと努力をすることになる。もしそういった会をやらなければ、たぶん一生その詩集をそんなに深くは読むことはないだろうと、思う。

ちょっとした夢でも、まだ残っているのなら、それを公言してしまう。そうすることによって、自分をその気にさせてしまう。やろうという気持ちにさせてしまう。それがぼくなりの工夫だ。

それって、詩を書く時にも同じことが言えるのじゃないかと思う。こんな詩が書きたいという「夢見る力」があれば、詩はいくらでも書ける。でもその力が衰えてきたら、「自分をその気にさせる工夫」をすることが、次に大切なことなんじゃないかと思う。

その気になったからって、人生何がどうなるわけでもない。でも生まれてきて、自分がやりたいと思っていることをひとつやり終えることはできるし、ちょっとした結果を、この世に生みだすことはできる。


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