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1942年9月,天皇裕仁に対して puppet という用語を使い,戦後対日政策への建策をした,一見親日家のエドウィン・ライシャワー

 

※-1 ヒトラー,ヒロヒト,プーチンのそろい踏みになりうる話題

 第2次大戦時,世界政治の舞台には「ヒトラーの狂気・ヒロヒトの正気」(ムッソリーニはひとまず次掲の画像資料にだけ登場してもらうが),いいかえれば「天才的狂人総統と軍人現御神」が登場していた。彼ら戦争指導者を「日独指導者の比較論」の観点から分析する議論は,すでにあれこれなされてきた。

 くわえてまた最近の話題としては,21世紀になっての「ロシアのプーチン」を比較・考量するもよし,という話題がありうる。もっとも,プーチンが前2者に匹敵しうる〈大物〉であるかという点については,大いに,疑問なしとしえないので要注意である。

全員軍服を着ているが,頭部に
乗せている・いないモノに違いがある画像

 本記述は,初出 2012年1月7日,更新 2014年8月22日,再更新 2022年3月26日につづき,本日2023年4月28日の改訂版となっている。

 その間,どのような理由・事情があれ,「ロシアのプーチン」の凶気が「20世紀型の旧式戦争」として「ウクライナ侵攻を始めた動機」となって,またもや,人間を殺しまくり,隣国を徹底的に破壊しまくる「自称:特別軍事作戦」を開始していた。

 その間,ウクライナの国土のうち「プーチンのロシア軍」に侵攻された地域では,まったくの焦土・廃墟にされた都市・地域が広がっている。プーチンにいわせるとウクライナは “歴史的かつ民族的にロシアと同源である” と主張されたが,仮にでもそうだとしたら,ずいぶんとひどく隣人(民間人)を殺しまくり,すべてのものを計画して徹底的に破壊する〈兇人〉が彼だ,という結論になる。

 ナチス・ヒトラーは,第2次大戦もドイツ側の形勢が明確に不利になった段階に至ってからだったが,ドイツ軍がフランスから撤退するとき,現地司令官に対して「パリを燃やせ!」と命令した。だが,さすがにその司令官はヒトラーの命令に服従せず,あえて抗命もしないで無視した。多少は「文明の感覚を有する人間・人類」として,そこまでの都市破壊はできなかったというわけである。

 だが,「プーチンのロシア」軍は,2022年2月24日にウクライナ侵略戦争を開始してからというもの,まるで中世の蛮族が周辺諸国に攻め入り,荒らしまくる蛮行と同じに振る舞う軍隊であり,乱暴狼藉をしまくる兵士が大勢かかえていた。

 2022年中のまだ早い時期であった。ウクライナ国内から勝手に引揚げるロシア兵たちが,現地で調達した盗品の自動車に,これまた略奪した電化製品などを載せて国に帰る姿が,ユーチューブ動画サイトなどで報告されていた。なかには,宅配便に託してしてそれら戦果を故郷に配送するなどといった風景まで接しえたわれわれは,笑うにも笑えない光景をみせつけられて,呆れると同時に怒りを覚えた。そう感じたのは,ごく自然な反応であった。

 日本の国民たちの先輩諸氏も実は,いつかどこかで同じような蛮行を実行したことがある。ただし,その種の〈既視感〉はだいぶ薄らいでおり,いまでは遠い昔の記憶になった。なにせ「78年前に敗戦を迎えた戦争を体験した世代における出来事」であった。いまとなっては,幽明境を異にしたひいおじいちゃんくらいの世代(だからこの世にはいないが)に「訊いてみなければ」,なかなか「実感の湧かない」「昔の話」になった。いまとなってはも,戦争の時代の生き証人は100歳近い高齢にもなっているゆえ,ほんのわずかな人数しかいない。

 かつて,第2次大戦の期間には,600万人ものユダヤ人を殺戮したナチス・ヒトラーとその軍隊がいた。東アジア地域では,2千万人以上もの犠牲者を出したや大日本帝国の天皇陛下とその軍隊(皇軍!)がいた。戦争末期,ベトナムでは日本軍の都合で食料生産を妨害されたその民たち,200万人が餓死させられるという惨禍まで発生していた。

 いまどきの「ロシアのプーチン」は,いまだに大ロシア帝国の夢想にこだわる立場から2022年2月24日,隣国ウクライナに攻め入った。だが,当初の侵攻計画では早ければ2~3日で,遅れても数週間もあれば,ウクライナ全土を掌握できると踏んでいたもくろみが,ウクライナ大統領のゼレンスキーが逃亡せずに果敢に指揮をとったり,またウクライナ軍側の果敢な抗戦は,プーチンの策謀を初期の段階で瓦解させた。

 「歴史は繰り返される」。「戦争を起こす偉大なる国家指導者」たちは,当該国々の「狂った精神・病んだ気持」を悪用したかっこうで,しかも,いつも自分たちの戦争行為は「祖国防衛」だといいつのりながら,自国に特有の「侵略思想」を原動力ないしは推進力に利用しては,近隣諸国に押し入る戦争を繰りかえしてきた。

 大ロシア帝国がなつかしいプーチンの意識内だと,今回起こした隣国への侵略行動を開始するに当たっては,人の意見を聞く耳など,もともともちあわせなかった。ウクライナ侵攻が開始されてから早,1年と3ヶ月経過した。彼の周辺にいた側近たちのなかにはすでに,何人も姿を消している。。独裁者のつねとはいえ,彼のその采配ぶりは,もとより「死ななきゃなおらない病理的な精神状態」になっており,おまけにそのドツボにはまっていた。

 ここで,大澤武男『ヒトラーの側近たち』(筑摩書房,2011年11月)という本を紹介しておきたい。

 大澤武男『ヒトラーの側近たち』というこの本じたいは,題名からして,けっして珍しい内容を論じているわけではなく,類書は何冊もある。とはいえ,論じている内容そのもののとりあげかたに新味があると評価したい著作である。

 本書はつぎのように解説されている。目次もつづけてかかげておく。

 ヒトラーに共鳴・心酔し,あるいは打算で,ヒトラーの支配妄想を成就させようと画策したナチスドイツ。直観力に優れ弁は立つが,猜疑心が強く気分屋のヒトラーに,なぜ,ナチスの屋台骨である有能な側近たちが追随したのか。彼らにより強化され,エスカレートしていったヒトラーの支配妄想とはいかなるものだったのか。

 ゲーリング,ヘス,ハイドリッヒ,アイヒマン,ヒムラー,ゲッベルス,独裁者を支えた側近は,政局や戦局のときどきに,どのように対処し振舞ったか。過激な若者集団が世界に巻き起こした悲劇の実相をえぐる。

 大澤武男『ヒトラーの側近たち』の目次構成はこうである。

 第1章 政権への道--よみがえる若者ヒトラー,輝く一級鉄十字章,ナチス党員番号2,エッサー,ほか
 第2章 独裁支配の確立と戦争への道--国防軍司令官を前にした演説,独裁支配の演出,フリック,ほか
 第3章 侵略戦争と側近たち--安楽死政策の遂行 ボウラー,安楽死政策の方法と勇気ある司教,ほか
 第4章 破局を前にして--総統官邸地下壕,鳴り続ける電話,ほか
 エピローグ 彼らはどこで誤ったのか--国民の不満と過激な若者集団,個人崇拝のエスカレート,ほか

 筆者の大澤武男[オオサワ・タケオ]は1942年に生まれ,上智大学文学部史学科卒,同大学院修士,ドイツ政府給費留学,ヴュルツブルク大学より博士号を受ける。専攻はドイツ・ユダヤ人史,古代教会史。現在,フランクフルト日本人国際学校理事。

大澤武男『ヒトラーの側近たち』目次

 ※-2 ヒトラー総統とヒロヒト大元帥

 1) ヒトラーの世界観の思想史的意味

 大澤武男『ヒトラーの側近たち』2011年は,「ヒトラーの空虚な世界観と独裁,生か死かの侵略戦争貫徹のもとで,その手足となって行動した側近たちとはいったいどのような人間だったの」かと問うていた(7頁)。

 第2次大戦でまた,同じ敗戦国となった日本の最高指導者:大元帥の昭和天皇は,それではどのような世界観・歴史観をもち,股肱の臣下や赤子たちや,多くのアジア人たちを死に追いやる指揮ぶりを記録してきたのか。

 大澤は「いつも不可解なのは,ヒトラーの行動原理である世界観,イデオロギーが実質を欠いた妄想に満ちていたにもかかわらず,それが現実的な政治活動のエネルギーとなって,独裁支配を打ちたててしまったことである。そこには非理性的,非現実的,非人道的な独善と偏見,征服への野心がみなぎっていた」とも分析する(7頁)。

 第1次大戦後のドイツにおいて,ワイマール憲法体制を「民主主義の原理」に則ってこそ破壊することに成功したナチスは,ヒトラー独裁のもと,人類史の記録に残る大虐殺を敢行した。

 もっとも,大衆・人民を殺戮するという政治的行為の事実史に関しては,旧ソ連の強制収容所体制や中華人民共和国「文化大革命」などでも明白なように,それぞれが無慮,千万人単位の犠牲者を出している。その具体的な数値はいまだに判明していないけれども,それほど大規模での犠牲者を出していた歴史の暗闇じたいを否定できる者はいない。

 2) 日・独の軍律

 ドイツの「陸軍元帥」「ヴィルヘルム・カイテル」は,「ヒトラーの狂気の戦闘意識(生か死かのどちらか)を」に逆らえず,「戦う前提が整っていない無意味な戦いは止め,部下の命を守るという」「軍人精神から逸脱し,国防軍をヒトラー・ナチスのテロの手先にしてしま」った(144頁)。

 大澤は,そこに書いてみたドイツ国防軍:「軍人精神の崩壊・欠如」に相当する問題が,旧日本陸海軍の基本精神のなかにも厳在していた事実に触れてはいないが(本題ではないゆえ当然だが),これが『ヒトラーの側近たち』にとっては対象外の論点であっても,日本帝国・日本軍人側の問題じたいとしては,けっして回避するわけにはいかないものである。

 旧日本軍のばあい「特攻隊」の問題だけでなく,さらに将兵の戦闘精神についていえば「無意味な戦い」というほかない戦史を性懲りもなく反復し,死屍を累々と重ねたあげく,あの戦争に敗北していた。この点で日独を比較すると,ドイツ軍将官には備わっていた基本的な考え方とは異なり,特攻隊突撃にも表徴されるように兵卒たちは「天皇陛下の御為に死なねばならない」と厳命され,そう洗脳されてもいた。

 帝国臣民は「死ねるための愛国教育」を徹底的に叩きこまれてきた。この点でいえば,ドイツよりも日本のほうが《殉国・殉死》を無条件で将兵に強要する教育・訓練が徹底されていた。その意味で日本の兵士は強兵であったといえるが,人間性を奪うほかない「軍隊精神の悪弊」が,彼らを徹底的に束縛していたわけである。

 大澤は「現実から遊離したヒトラーのがむしゃらな戦争ファナティシズムは,まさに異常であり,病的であり,また壊滅的であった」(218頁)と指摘する。けれども,旧日本軍将兵が戦場でみせた〈異常さ〉,それも「天皇の名」によって絶対的に強制された「軍人としての死の覚悟」は,ドイツに勝ることはあっても,わずかも劣ることがなかった。

 ■ 2022年3月26日 補注 ■
 大澤武男『ヒトラーの側近たち』によるここまでの記述は,このたびの「プーチンのロシア」によるウクライナ侵攻にさいしては,プーチン1人にしか妥当しない話題になっていた。そのほか一般の兵士次元には基本からまったく通用しておらず,さらには将官といった高位の軍人,そしてロシア政府内のプーチンの側近たちにおいても,大約は外れる話題になっていた。
 
 このような,プーチンの権威主義的独裁政治の宿痾は,ウクライナ侵攻作戦の不首尾となって否応なしに現出していた。ウクライナに派兵された兵士たちの士気が非常に低いだけでなく,作戦の概要(兵卒向けの必要最低限の情報)すら指示されていなかった。

 ウクライナ軍の捕虜になったロシア兵自身の話によれば,そもそもウクライナに侵入する作戦だという事実すらなにも聞かされておらず,あるいはそれをしらされていた兵士の話であっても,ウクライナに入ったらウクライナ人に大歓迎される進軍だと説明されていたというのだから,プーチンの作戦要領はそもそも基本的にいい加減であった。

 その後の情報で判明した点は,ロシア軍が各師団次元での相互間の布陣や作戦関係を事前に調整・準備しないまま,今回における「ロシアのプーチン」のウクライナ侵攻が実行されたと分かってきた。

 それにしても,このたびにおけるプーチンの流儀になるそのズサンな軍事行動の始動は,一国最高指導者の立場における「総合的な軍事戦略の不在:欠陥」と「具体的な目標設定の省略・欠落」を思わせるに十分であった。

補注の記述

 大澤『ヒトラーの側近たち』は「問題はヒトラーを囲む彼ら〔側近たち〕はあまりにも長く総統に黙ってつき従ってしまった」ことにあり,「『戦争に勝てない』という敗北への兆しがはっきりしてから,2年以上もヒトラーのいうままに事態を放置してしまった」(225頁)ことに触れていた。

 ■ 2022年3月26日 補注 ■
 前段の引用でも,「ヒトラー」を「プーチン」に入れ替えて読める記述内容になっている。

補注の記述

 3) 自分の息子は軍人にしなかった天皇ヒロヒト

 だがまた,日本帝国側の大東亜戦争後期においては,こういう出来事があった。当時,帝国「陸海軍の総大将=大元帥」であった昭和天皇は,明治以来の皇室のしきたりである『皇族身位令』の定めに従わず,自分の息子:アキヒトを皇族将校にさせなかった。

 ヒロヒト自身は11歳のとき少尉に任官していたのだから,1933〔昭和8〕年12月生まれのアキヒトも,敗戦前の1944年12月には皇族将校になっていなければならなかったはずである。しかし,この父親は当時すでに日本帝国の敗北を認識(予測?)していたゆえ,その後において息子に敗北に伴う災厄を少しでも回避・除去しておきたかった。

 つぎの画像は,昭和天皇自身の少年期における軍服・礼装姿である。皇族将校としての扮装であった。大正2年は1913年だから,彼が満で12歳になるころの画像である

軍服・礼装姿のヒロヒト

 だが,天皇ヒロヒトはその後も,帝国臣民たちに対しては「玉砕戦法」や「特攻攻撃」を強制し,無数の将兵を殺させていった。ところが,自分の息子の未来になるときわめて慎重に考慮し,軍人には就かせなかった。

 一般の臣民たちの立場から振りかえってみれば,それはとうてい考えられない〈甘え〉を表現していた。結局,自分の「世継ぎ予定者」である息子の存在を介して,「ヒロヒトも単なるエゴイスト」である真実が鮮明に記録された。

 参考にまで,アメリカの大統領として親子2代にわたり就任したブッシュ家については,こういう事実を指摘しておく。

 まず,親父のジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(George Herbert Walker Bush,1924年6月12日-2018年11月30日)は,アメリカ合衆国第41代大統領(在任:1989年1月20日~1993年1月20日)であった。

 つぎに,その息子のジョージ・ウォーカー・ブッシュ(George Walker Bush,1946年7月6日- )は,アメリカ合衆国の第43代大統領(在任: 2001年1月20日~2009年1月20日)になっていた。

 「戦争の問題」に関してとなれば,この親子を格別にとりあげて考えてみたい話題があった。

 まず親父は,第2次大戦中に戦闘機搭乗員となって日本軍と戦い,2度も撃墜されていた。しかし,救助態勢の整っていた米軍ゆえ,そのたびに無事生還できた。

 対してその息子の話題となると,年齢的には当然ベトナム戦争にいくべき時代であったはずのところが,親父の裏での采配(画策)が効いて,本土のテキサス州で空軍パイロットになり,こちらで軍務に就いた。つまり,ベトナムにいかないで済んだ。

 以上,「あのかわいい▲カ息子のブッシュ」が「死の危険性が高い確率で迎えられるベトナム戦争行き」を,裏から手をまわし,上手に阻止していたのが,この「息子を盲目的に溺愛したパパ」であり,元大統領としての甲斐性を的確に発揮させたことになる。 

〔本文の話題に戻る→〕 臣民は「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」「鴻毛より軽し」などと虫けら同然の扱いをし,将兵に対して戦争・戦場での「合理的な戦闘行為」のありかたを認めなかった。

 そうした軍人精神を兵士たちに対してならば,一方的に強制していた天皇「ヒロヒト側の重大責任」が,大東亜「戦争にはもう勝てない」と判断しえた時期においてであったが,すでに敗戦に至る段階を事前にみこした彼は,自分の子ども〔長男〕だけは断固として軍人にさせなかった。この天皇家側が記録した〈歴史の事実〉は,そう簡単には忘れられない。

 要は,そこでは,わが家の「息子にかぎっては自国の法律を無視したヒロヒトの身勝手」がめだっていた。これに比較するに「天皇の赤子たち」の立場は,完全にないがしろにされていた。その意味,その関連で観る臣民の安寧・幸福などは,いとも簡単に無視・放置されていた。

 要は,皇族の一員である皇太子の立場となれば,臣民たちのそれとは比較のしようがないほど大切であり,無条件に特別なものであった。

 4)「あまり戦果が早くあがりすぎるよ」1942年3月9月

 大東亜戦争開始後,真珠湾攻撃・シンガポール陥落・ビルマのラングーン占領・ニューギニアにも上陸・ジャワのオランダ軍降伏といった日本軍の快進撃に感激してだが,「喜びの声〔あまり戦果が早くあがりすぎるよ〕をあげた」のは,天皇ヒロヒト大元帥であった。

 ところが,1942年4月18日の白昼,日本本土を横断し,神戸・名古屋などを爆撃した米軍機の襲来があった。「そんなはずはないだろう」「空襲が来ても夕方だろうといっていた」のは,ヒロヒトであった。
 
 1942年6月5日,ミッドウェー海戦で4隻もの空母を喪失した海軍の損失に対して,「今回の損害はまことに残念であるが」「今後の作戦消嬰とならざるようにせよ」と,なお彼は督戦した。
 註記)黒田勝弘・畑 好秀編『昭和天皇語録』講談社,2004年,144-145頁。 

 当時,日本軍将兵は「天皇を神である『かのやうに』信ぜしめるのは,戦争を遂行し国民に犠牲を強いるための,鞏固で巧妙な形式の完成であった」。「天皇の命令のもとにそこに日本軍隊の生命があった」。「この生命なくしては日本軍は烏合の衆に過ぎなかった」。
 註記)半藤一利『昭和天皇ご自身による『天皇論』講談社,2007年,40頁。

 ところで,前段に触れた「1942年4月18日」の「米空母ホーネットから発艦したドーリットル隊所属のB-25群による日本本土急襲」に関してなされた,日本側発表にもとづく「9機撃墜撃退す」といった報道は,事実ではなかった。また,襲来したB-25は16機であった。

 当日は晴天であり,墜落した航空機など,市民の目線から1機も確認されなかった。とりわけ,帝国臣民の命よりもまずさきに「皇室御安泰に渡らせらる」ことが,無条件に最重要の関心事であったが,50人の死者,家屋262戸の被害が出ていた。

 時間が飛ぶが,敗戦を迎えるころ,日本軍の将兵は実質においてほとんど〈烏合の衆〉になっていた。大澤は日独両軍の戦死者数の相違に言及する。次項で記述する。

 5) 軍隊が動員され戦争になれば大量殺戮

 a) ドイツ国防軍。--1943年春以降,敗戦へと向かう激戦における国防軍の死者は,攻勢であった大戦前半の時期に比して2倍以上,1か月平均4万8千人近い数に上った。連合軍のはげしい空爆は,それにくわえて膨大な数に上る死者を出した。

 b) 帝国日本軍。--第2次大戦における日本軍の死者が180万であったのに対し,ドイツ人の犠牲者はその3倍に近い525万人であった。この事実は,ヒトラーの戦争を早期に停止できなかったドイツの悲劇が,いかに甚大であったか分かる(大澤『ヒトラーの側近たち』226頁)。

 しかし,以上のごとき指摘は,陸続きのヨーロッパ戦線における〈ドイツの戦争〉と,最終的には島国への空襲・原爆投下で終わり,本土上陸作戦のなかった〈日本の戦争〉との差異を,適切に比較考量せずに意図的におおげさにとらえている。

 「ヒトラー独裁の悪と暴走をしりつつ,それを許し,つき従ってしまった彼ら〔ドイツ軍人〕の体質とその責任が問われる」(226頁)というのであれば,同時に,藤原 彰の『餓死(うえじに)した英霊たち』(青木書店,2001年)という著書名に表現されるような「旧日本帝国軍隊にかかわる〈怨霊:幽霊の存在〉」にも強い関心が寄せられねばならない。   

 6) 日本軍戦死者,死因は6割が餓死と栄養失調

 日本軍の軍人・軍属戦死者,死因は6割が餓死と栄養失調であった。アジア・太平洋戦争で死亡したとされる日本軍軍人・軍属約230万人のうち,約6割にあたる約140万人の死因は戦闘による狭義の「戦死」ではなく,栄養失調による病気や飢えだった。

 こんな結果を歴史学者の藤原 彰・一橋大名誉教授(77歳当時)が約10年がかりの研究でまとめたのが,前掲の『餓死(うえじに)した英霊たち』2001年であった。

 戦後の旧厚生省調査では日本人戦没者は約310万人とされ,空襲の内地の被災者らを除いた軍人・軍属が約230万人に上る。藤原さんは,餓死が多かったガダルカナル島,ニューギニア,メレヨン島(現ウォレアイ島)などの南洋諸島などをはじめフィリピン,タイ,中国大陸など,ほぼ全地域にわたって戦線や作戦ごとに現存する軍資料や幹部の証言録,戦後の戦没者調査などをもとに死因別の死者数(一部推計を含む)を数えた。

 藤原さんによれば,食糧について「現地自活(調達)主義」をとった日本軍では補給の途絶などで膨大な飢餓が発生。体力や抵抗力を失い,マラリアやアメーバ赤痢などの伝染病や下痢による死亡が相次いだ。大量の餓死を生み出した背景について,藤原さんは

 (1)過剰な精神主義  (2)敵の火砲の軽視
 (3)補給部門の軽視  (4)参謀らの机上の空論的作戦主義

などを挙げる。兵士の人権を無視し,天皇や国を守る弾丸や盾のように兵士らを扱ったことなども指摘し,欧米の近代軍隊との差が出たという。

 補注)前記の4点は,敗戦する国家の軍隊が「勝てない戦争」の内容として,おおよそ普遍的にかかえる問題点である。

 2022年2月24日に「プーチンのロシア」が始めたウクライナ侵略戦争においても,それらの「軽視・不備」が,共通する要因として登場していた。

 具体的に説明する。

 (1)過剰な精神主義 ⇒ ロシア軍は強く,ウクライナ兵など簡単に蹴散らせる。

 (2)敵の火砲の軽視 ⇒ ウクライナ軍の装備は不十分であったが,戦争開始以来,米欧の支援により徐々に「火砲」の実力水準を強化してきた。

 (3)補給部門の軽視 ⇒ この問題は兵站の運営となるが,最近のロシア軍のほうが,この兵站の点では不備・不足が目立っていた。

 (4)参謀らの机上の空論的作戦主義 ⇒ ロシア軍の最高将官の層からプーチンのところへ戦況分析が事実に即して適切に報告されていない。

 また,将官位の戦死者が2022年7月時点ですでに10名も出ていたとする報告もあり,ロシア軍の将校たちからは,異常なくらいに多くの戦死者が出ている。

 ロシア軍の高級将校が不用意に狙い撃ち(狙撃ないしは爆撃)される場面も発生しており,軍隊組織としての連絡網(情報伝達体制)の軽視・不備も重なって,非常な不利がもたらされている。

ロシア軍の未整備

 藤原 彰自身,陸軍士官学校で教育を受け,中国大陸縦断作戦の前線に中隊長として参加した。道路補修を命じられても工事器材がなく,食糧も弾薬も補給がないなかで未明の急襲作戦をとり,右胸に被弾した。銃弾がいまも右肺の奥に留まっている。

 藤原は「『靖国の英霊』の過半数は飢餓地獄のなかでの野垂れ死にだった。首相による靖国神社公式参拝が取りざたされるが,国をあげてたたえようとしている戦死の実態をもっとしってほしい」と話す。研究結果は『餓死(うえじに)した英霊たち』(青木書店)として出版された。

 7) 医学史からみた戦争と軍隊-餓死,戦争神経症-

 a)「日本軍の餓死者数について」   日中戦争以降の日本の軍人・軍属の戦死者は,約230万人(含,朝鮮,台湾人兵士5万)。そのうち,藤原 彰の推計では,その約6割が広い意味での餓死 注記)であるが,秦 郁彦の推計 注記)では,約37%が餓死である。

 なお,秦 郁彦氏も,餓死については「内外の戦史に類をみない異常な高率であることに変わりはない」と付言している。また,藤原は「将校,下士官,兵士と,下に下がっていくほど餓死率が高くなる」と断わってもいる。

 注記) 栄養失調死と,栄養失調による抵抗力低下にによる伝染病等による死亡を含む。
 注記) 秦 郁彦の論文「第2次世界大戦の日本人戦没者像-餓死・海没死をめぐって-」『軍事史学』第42巻第2号,2006年9月。

 b)「日中戦争期から発生していた戦病死」   中国戦線における戦没者数に占める戦病死比率は,すでにこういう数値になっていた。

  ☆-1 1937~1938年 16.9%
  ☆-2 1940年     46.4%
  ☆-3 1941年     50.4%
 註記)「医学史から見た戦争と軍隊-2 餓死,戦争神経症 」『考察 NIPPONN』 2008/05/04(日) 01:22:05http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-561.html
 

 ※-3 電撃戦好きのヒトラーと攻勢作戦好きの天皇ヒロヒト

 1) ヒトラー流「電撃戦」

 ヒトラーは,第1次大戦での実体験から戦車の威力を高く評価していた。政治的には保守主義者だった彼の「技術に関する知識と理解」は,他国の要人たちの群を抜いて優れていた。その先見性は,ドイツ参謀本部の平均的な軍人よりも進んでいた。

 ヒトラーが「電撃戦」を重視した理由はほかにもあって,民衆の経済生活に負担をかけないように戦争を遂行する必要があったのである。銃後の国民感情を重視した。

 第1次大戦の経験=「ドイツの敗因」を,すなわち国民を経済的に苦しませ,「背後からの一突き」を招いたことにみいだしていた。だから,戦争に勝つためにはその原因である国民の困窮を起こしてはならないと考えた。
 註記)「第十四章 電撃戦」http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/hitler14.htm

 天皇ヒロヒトは「原則に忠実な伝統的な考え」ではあっても,徹底した攻勢主義者・攻撃偏重主義であった。その意味では日本軍の軍事思想を忠実に学んでいた。しかも,天皇の軍事思想はあくまで最高統帥者=大元帥としてであって,その念頭には「部下将兵の士気を崩壊させてはならない」ということがあった。「天皇」は,将兵に対する「みずからの激励を効果をよくしっていた」し,「みずからの軍事的役割をよく自学していた」。
 註記)山田 朗『昭和天皇の軍事思想と戦略』校倉書房,2002年,368頁,367頁。

 ヒトラーの「国民経済生活」を意識した「電撃戦好き」と,ヒロヒトの「督戦効果」を前提した「将兵激励好き」は,ともに敗戦した国家の最高指導者として観察することになれば,その評価はすべて結果をもって下されるほかない。ヒトラーは「責任をとって」ともかく死んだ。だが,ヒロヒトはともかく「生きのびた」。

 さて,前段でも触れていた話題であったが,2022年2月24日に「プーチンのロシア」が敢行したウクライナ侵攻は,おそらく2~3日で,長くなっても数週間以内には片付けられるという目算で開戦したらしい。

 ところが,ウクライナ軍側(民兵・郷土兵も含めて)の士気は高く,またロシア側の侵略行為に対して事前の備えがなされていた。そのために,「ロシアのプーチン」によるウクライナへの侵略行為は,1ヶ月が経った時点ではほぼ阻止されており,さらに一部地域ではウクライナ軍がロシア軍を後退させてもおり,膠着状態になってもいた。

 しかも,今日の時点は2023年4月28日であるが,こんどはウクライナ軍が大攻勢をかけて,今回の「プーチンのロシア」の侵攻によって奪い取られた国土を奪回し,できれば,2014年のロシア侵攻によって奪われたクリミア半島うぃ,それ以前の状態に戻そうと計画しているとも観測されている。

〔本文の話題に戻る→〕 個人的な次元でいえば,後者(ヒロヒト)はそれなりにひどく苦労はしてきたが,ずいぶん長生きできた。だいたいは,多分,いい人生を送れたのかもしれない。しかし,敗戦後において彼は,この日本国中に〈無責任意識〉を蔓延・充満させるのに絶大な効果を挙げた。「自虐史観」を許さないとする〈見当違い〉の風潮が,21世紀のいまもなお,堅持されているのは,彼のせいだといっても過言ではない。

 2) エドウィン・ライシャワーいわく「天皇を傀儡に」

 戦後の1961年から1966年まで駐日アメリカ大使を務めたエドウィン・ライシャワーは,1942年9月の時点でこう提唱していた。日本帝国を敗北させたあとは,昭和「天皇を傀儡とすべきだ」と。

 アメリカは日露戦争後,オレンジ計画を立案し,太平洋戦争に備えていたが,日本を負かしたあと,この国をどのように支配・統治するかについても,戦争中の早い時期から予定を立てていた。

 補注)オレンジ計画については,つぎを参照されたい。

 あえて極論してみる。戦時期の日米関係においてはいくらか「出来レース」とみられるべき歴史的要因があった。そう勘ぐってみてよい「りっぱな理由」があった。

 「ヒロヒト天皇はアメリカの占領政策を実現させるための,順応性と権威をもった,『ベスト・ポッシブル』傀儡になる,とライシャワー・メモランダムには書かれて」いた。

 註記)吉見俊哉&テッサ・モーリス ‐ スズキ鈴木『天皇とアメリカ』集英社,2010年,109頁。

 補注)当時,Edwin O. Reischauer は,Harvard University の Faculty Instructor in Far Eastern,Languages に所属していた。

 ここで注目したい文章がある。ライシャワーが1942年9月14日,アメリカ政府当局に提出した “MEMORANDUM on POLICY TOWARDS JAPAN” は,以下に直接引用する段落のほかに,さらに1カ所に puppet という単語を使っていた。

 この文章のなかには,この puppet は何回出ていたか(字にしておく)。引用では適宜改行を入れてみた。

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 In Germany and Italy we can expect to see a natural revulsion against Nazi and Fascist rule, a revulsion so strong that it will carry a large percentage of the population over to a policy of cooperation with the United Nations.

 In Japan, on the contrary, no such easy road to post-war victory is possible. There we shall have to win our ideological battles by carefully planned strategy. A first step would naturally be to win over to our side a group willing to cooperate.

 Such a group, if it represented the minority of the Japanese people, would be in a sense a puppet regime. Japan has used the strategem of puppet governments extensively but with no great success because of the inadequacy of the puppets.
 補注)太字の a puppet regime は「傀儡政権」と訳す。the strategem of puppet governments は「傀儡策略政府」とでも訳すか?

 But Japan itself has created the best possible puppet for our purposes, a puppet who not only could be won over to our side but who would carry with him a tremendous weight of authority, which Japan's puppets in China have always lacked. I mean, of course, the Japanese Emperor.

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 註記)以上のライシャワーの文章についてくわしくは,つぎを参照されたい。
  ⇒ https://www.worldscientific.com/doi/pdf/10.1142/9789814324144_bmatter

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 エドウィン・ライシャワーの配偶者は日本人であったが,日本人全体を格下の人種・民族と “みていなかった” というような,彼の立場における「絶対の保証」はありえない。それは,この人が政治家として客観的に記録してきた仕事:業績に即して判断すればよい評価である。

ライシャワー夫婦・画像

 天皇ヒロヒトの軍事思想であった《攻勢作戦》は,日本帝国が敗戦の憂き目に遭ったあとも,戦後において自分自身がどのようによりよく生き延びていくかにも応用され,もっとも有効に活かされていたともいえる。

 『日本の対米従属』観で正直に形容するとしたら,昭和天皇が〈自己の利害中心に行動してきた〉と指示されてなんら不思議はなく,反論できる余地もない。

 なぜならばヒロヒトは,自分の命だけの安泰や一族の安定の保障と引き換えに「沖縄メッセージ」(1947年9月20日)をアメリカ国防省にみずから送った。彼は,琉球の苦しみを承知のうえで犠牲にして平気であった。

 21世紀になっても沖縄県が米軍基地問題で苦しむ窮状に照らせば,ヒロヒトは存命中に沖縄を訪問できなかった。その代わりに息子夫婦が遅ればせながら訪問した。そのとき,この夫婦がどのような目に遭ったかは触れるまでもない。

 天皇ヒロヒトをカミサマのように尊崇する日本国民(かつて〔とくに明治以降〕の臣民)は,もののみごとにこの生き神さまから裏切られていた。逆にいえば,天皇を裏切らなかったのは「忠良なる帝国臣民の子孫たち」の側ばかりであった。となれば,いまさらのように「日本国民側の政治的覚醒」が問われている。

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