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「万世一系」の観念は天皇家専用の歴史的な用語にて汎用には不可なり

 ※-1 草野善彦『改訂版 「邪馬台国論争史学」の終焉 日本古代史学と憲法第一条』本の泉社,2016年

 本ブログ筆者は最近,上記,草野善彦『改訂版「邪馬台国論争史学」の終焉 日本古代史学と憲法第一条』本の泉社,2016年を取りよせ読むことになった。その関係で,2018年10月29日時点に記述した文章であったが,すでに退会していたブログサイトに公表してあったその文章が,現在まで未公開のままになっていたことを思い出し,本日 2024年3月23日に,再公表することにした。

 明治以来の日本は,その教育勅語的な教えでもって,それもきわめて特定の意味しかもちえない,つまり「天皇家専用の歴史的な用語」に過ぎない『万世一系』の「観念」が,いかにも日本独自の歴史観としてであっても,普遍的にも形成しうるかのように,非科学的・反合理的に語られてきた。

 つぎの画像資料が教育勅語である。カタカナを振ってあるので読みやすい。

 ここで,古代史研究の観点に照らして究明すれば,この直後に記載されている「朕思フニ我カ皇祖皇宗ヲ肇ムルコト広遠ニ徳ヲ樹タツルコト深厚ナリ・・・」という冒頭の文句じたいが,そもそも完全に事実無根でしかあった。つまり,歴史学の視座からする解明には,最初からとうてい堪ええない「ひとつの意見」,つまりその程度のしろものでしかありえなかった。

天皇のために死ね覚悟をふだんからよくこころえておけといいたかった

明治の時代が始まって1945年までどのくらい
「忠良ノ臣民」が死んでいったか?

つぎの戦没者概数をみたい
大日本帝国の「朕の教え⇒『教育勅語』の帰結」


 ところで,万人のための「万世一系」ということばが使われるのは,いかにももっともであって,さもありなんであった。なにも不思議はないその用法であるにもかかわらず,なぜか,天皇家にかかわる万世一系の観念となると,それがいきなり神聖なる趣を醸し出さねばならなかった。

 その点から観ると,実は「奇怪なる〈歴史観〉だ」と指摘されるだけに,非常にもどかしくも感じるものが,そこには控えていた。いいかえると,ただに,ひどく「決めつけだけがはげしかった独断の建国理念」が,その「万世一系的神聖天皇観」のもとに披露されていた。

 考えてみるまでもないが,本当のところ「私にも,あなたにも,誰にでも」「その万世一系性」はある。そもそもが,昔から連綿と持続可能に継承されているそれであったゆえ,「昔のあなた」から「いまのあなた」に,そして「未来のあなた」にも,伝わっていくその一系「制」であった。。

 すなわち,すべての人びとにとってまったく同じに,その万の世をつらぬいてきた「種の連続」性はある。人びとが,自分の子孫を残していくかぎりその「万世の一系」という「生命体としての継続性」は,いつまでも維持されていく。

 このようにある意味,たわいもなく当たりまえであって,真実というまでもないような「事実の連続性」にかかわる事象=出来事が,なぜか,天皇・天皇制の舞台における展開になると「俄然,格別視される」ことになる。

 この※-1の見出しに出して触れてみた,草野善彦の本,『改訂版 「邪馬台国論争史学」の終焉 日本古代史学と憲法第一条』本の泉社,2016年は,この国における天皇・天皇制の,それもとくに「万世一系的神聖天皇」論の見地に,基本から疑念を提示しながらその本質問題を討究している。そのさい,たいそう刺激的に「古代史日本に関する通説的な認識」に向かっては,真っ向から批判的な考察を与えていた。

 なお,草野善彦は数多くの関連する著書を有する。そのうちの何冊かは末尾の参考文献に挙げておくが,ともかく草野の「万世一系の天皇制」に対する基本の立場は,徹頭徹尾,批判的な論調をもって明述されている。

 草野善彦は「古代日本史の真偽の解明」をおこないつつ,かつまた「日本の民主主義確立上,不可欠の日本人の独自的課題」を,どのようにとらえなおし議論するか,という研究課題に取り組んできた。

 本ブログ筆者は,この記述全体における問題意識に関しては,こう強調しておきたい。

 「Y染色体の系統性(皇統の連綿性?)を維持してきた」と議論したところで依然,「疑問(虚構)だらけであった天皇史の裏庭事情」そのものに,重大な関心を向けた議論が必要であった,と。


 ※-2「天皇家の嘘(万世一系ではない)」『コンサルの独り言』2017年6月17日,https://kongojia.exblog.jp/24481682/ 参照

 a) 天皇家は万世一系ではない。その125〔徳仁の令和までだと126〕代を並べてみても,途中でなんども断絶している。ましてや,神話時代からのあやしい継続のはなしになると,なにをいわんかやである。

 さて,加治将一『失われたミカドの秘紋』祥伝社,2010年は,そもそもその天皇はどこから来たのかという,なぞなぞを解き明かしている。この本を読みはじめる前までの僕〔引用されているこの文章のブログ主〕の知識〔は,以下のとおりだと説明されていた〕。

 ☆-1 倭国というのは朝鮮半島南部と北九州で形成されていた。

 ☆-2 秦のころから豪族たちが,鉄器と軍馬で,この国を部分的に支配していた。

 ☆-3 継体天皇〔第26代天皇に当たり,現在の皇室の源流とみなされている人物〕以前は,天皇の存在すら確認はできていない。
  補注)⇒いわゆる「欠代」の問題のこと。

 ☆-4 古墳は天皇の墓というよりは,地域豪族のものがすり替えられてきた。

 ☆-5 なぜ騎馬民族はこの島をめざしたのか,それは肥沃で,先住民族を奴隷にしやすかったからである。 

天皇・天皇制の謎々

 b) 大嘘は『日本書紀』で作りあげられている。それは天武天皇のころ〔在位は673~686年〕,歴史の大幅な改ざんがおこなわれたらしい。それまでは「天皇」という呼称はない。

 「大王」〔おおきみと読む〕であるし,豪族の力が拮抗している連合国である。天智と天武は兄弟ではない。天智は百済系,天武は新羅系なのだから。ちなみに「日本」という呼称も,この天武の時にできている。

 大陸から朝鮮半島を経由した〔この表現はおかしいが,そのまま引用する〕支配階級が作った国は,「倭(わ)⇒ 倭(やまと)⇒ 大倭(やまと)⇒ 日本」と呼称が変わるたびに王朝の交代が起きている。

 「倭(わ)」とは,北九州勢力が近畿に移って読み名を変えるが,大陸からの軍を怖れて当て字はそのままにしておき,大陸から認められていた名前を使っている。また,神武の東征は強大な出雲豪族を怖れ,瀬戸内海経路でおこなわれた。

 「倭(やまと)」になると,大阪・奈良の豪族をしたがえ,「大」をつける。ただ,まだ豪族集団の国,大陸との朝見外交の都合から名称変更はせず,前政権とかわってないというため,表示のみ「大倭(やまと)」に替えた。

 「日本」とした国号は,実質的には初代天皇(天武)が670年のときに始まっていた。この後も天皇家は何回か血筋が絶えている。とくに南北朝時代がそうであった。そして近年では,明治維新の〈大室寅之祐・朝廷〉の時期が,それに当たる。

 結局,われわれは『日本書紀』という天武の虚飾に騙されたままである。

 c) 「ヤマト」という,語源については,アラム語の「ヤ-・ウムト」から来ているといわれている。ヤ-は,ヤ-ウェ-の頭文字,ウムトは民,つまり神の民の意味だとされる。

 この本を読むまで,漢という国には「景教」(キリスト教ネストリウス派に対する中国でのよび名)が盛んだったことを認知してなかった。キリスト教徒寺院,イスラム寺院が多々ある。

 日本の古代史は大陸・朝鮮半島との関係を抜きにしては考えられない。中国の歴史は騎馬民族との歴史であり,それはロ-マとキリスト教徒とつながる。

 補注)ここまで参照していて思い出したが,本ブログ筆者の書棚には由水常雄『ローマ文化王国-新羅』新潮社,2001年という本があった。本書の宣伝文句はこう謳っていた。 

 「従来の史家は “北方系の異質な文化” として,解明できなかった4~6世紀の新羅とはどんな国だったのか? 天馬塚,味鄒王陵,皇南洞九八号墳等,韓国考古学の成果である大発掘による出土品の数々と世界の博物館の品々とを対比させ,深い関係を検証して,正に新羅文化がローマ文化の所産である一大展観を書中に試みた画期的著作」

 この本--前段に出ていた由水常雄『ローマ文化王国-新羅』2001年--で着目すべきもう一点は,ダビンチの「最後の晩餐」。キリストの右うしろに人差し指を突きだした男が描かれている。その男の名前は「ユダ・トマス」…….。トマスとはアラム語で双子を表わす。別名「ユダ・ディディモ」。ディディモも,ギリシャ語で双子を表わす。

最後の晩餐

 新約聖書ではユダの役割が不自然にそぎ落とされている。2世紀からはじまった,キリストの伝聞は,397年カルタゴ教会会議で正典となった。もちろん,支配者に都合の良いものだけが残された。これを「新約聖書」という。

 ユダは誰と双子だったのか。もちろんキリストとだ。そして,そぎ落とされた話には彼の東方布教の話が書かれていた。インドから中国,朝鮮半島,そして倭ヤマト民族の根源をどう考えるかということは,すなわち,日本をどう考えるかということでもある。(引用終わり)

 d) 以上の記述が,いったいなにを意味させたいかというと,古代史であってもこれを “世界史的な視野で考えろ” という点であった。前段中で本ブログ筆者は,「大陸から朝鮮半島を経由した〔この表現はおかしいが,そのまま引用する〕支配階級が作った国」がこの日本だという文言については,このように〔 〕内で「おかしい」と,意識的に註記しておいた。

 NHKテレビ(総合)では,毎週土曜日午後7時半から「ブラタモリ」という番組を放映している。なお,この人気番組「ブラタモリ」は2024年3月一杯でレギュラー放送が終了になることが,決まっている。

 その事実はさておき,2018年の10月27日と10月20日の各土曜日,2回をかけて放送されたこの「ブラタモリ」は「有田焼,世界へ」と題していた。陶器で有名な有田焼をめぐってだが,いろいろと興味ある番組の内容になっていた。

 その2回の放送のうち1回目の2018年10月20日は,こういう内容の放送であった。

 大迫力,ドイツの宮殿を模した建物のなかには有田焼の名品がずらり! 超巨大花瓶,驚きの制作の秘密とは? 磁器の原料「陶石」があったのはみわたすかぎり真っ白な岩山。奇跡の地形誕生のナゾを追え!  川底に空いた不自然な岩穴。

 これこそが焼き物作りに欠かせない,スペシャル装置の痕跡だった!? 「絶妙な斜め15度」の坂道,そのびっくり利用法とは? 窯のレンガを再利用した美しい壁,使われなくなった煙突のハッピーな利用法も登場!

  註記)ここでは,https://variety.freedoga.com/second-layer.php?id=49355 から。この住所は現在削除。

 e) その放送は2回とも〔途中でトイレもいかず〕全部を視聴してみたが,1回目の冒頭でこう触れていた。

 豊臣秀吉が朝鮮侵略のさい,朝鮮の陶工を捕虜として有田に連れてきたこと,この有田に来たその朝鮮人の陶工が「磁器の原料」に最適である「陶石の組成からなる山」をみつけてくれたことについては,ごくさらりと流すように語っていた。

 さらに,その2回目の放送日であった10月27日でも,それに関連する「歴史の事実」に触れることはなかった。

   ◆ 豊臣秀吉の朝鮮侵略 / 文禄・慶長の役 / 壬辰・丁酉の倭乱 ◆

 16世紀末に2度におよぶ豊臣秀吉の朝鮮侵略があった。日本では文禄・慶長の役,朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱という。

 1592年,朝鮮に侵攻した倭軍は平壌まで進んだが,朝鮮の義兵の抵抗と明の援軍によって反撃を受け,さらに李 舜臣指揮の朝鮮水軍によって補給路を断たれたため苦戦,いったん講和した。

 1597年に再び侵攻し,朝鮮南部で朝鮮・明の連合軍と戦った。1598年,秀吉の死によって撤退し,戦争は終わったが,豊臣政権は間もなく倒れ,朝鮮の国土は荒廃し,明もまた間もなく清によって滅ぼされる。

 またこのとき捕虜となって日本に連行された朝鮮人によって,日本の朱子学の興隆,陶芸技術の飛躍的発展などがもたらされた。

 註記)「世界史用語解説 授業と学習のヒント」『世界史の窓』2015年3月21日,https://www.y-history.net/appendix/wh0801-111.html

豊臣秀吉の朝鮮侵略

 この最後に書かれている「陶芸技術の飛躍的発展」の結果:現状の有田焼の産業実態が,ブラタモリたちが出演するNHKの番組を通して紹介されていた。現在の視点からでも,有田焼の起源を考えるさい忘れてはならない関連の〈歴史の知識〉は,こういうものであった。

 「磁器は中国では古くから製造され,後漢時代には本格的な青磁が作られており,磁器の産地としては景徳鎮がとくに有名である」

 日本では豊臣秀吉の朝鮮出兵文禄・慶長の役によって,朝鮮半島から連れて来た陶工・李 参平(金ヶ江三兵衛)が,肥前有田で磁石(じせき,磁器の原料)を発見したことから製作が始まった。窯跡の発掘調査の結果からは,1610年代に有田西部の諸窯で磁器(初期伊万里)の製造が始まったのである。

 積み出し港の名から伊万里焼と呼ばれた肥前磁器は,江戸時代後期まで隆盛をきわめ,また中国風の赤絵などのデザインだけでなく,日本独自の酒井田柿右衛門による濁手,金襴手,錦染付などが生まれ,明末清初の混乱で磁器生産が滞った中国に代わってヨーロッパにも輸出され,高い評価をえた。また佐賀藩では藩窯として生産をおこない,美しく緻密な作品が作られた。

 江戸時代後半には磁器焼成は九谷,砥部など各地に広まり,明治頃には瀬戸で大量に生産されるようになり,庶民にも磁器は広まっていった。明治以降はさらに,ゴットフリード・ワグネルなどからヨーロッパの科学技術をとり入れて,生産効率が飛躍的に向上した。

 註記)https://ja.wikipedia.org/wiki/磁器 参照。

陶工・李 参平(金ヶ江三兵衛)

 いずれにせよ,NHKのブラタモリの番組のなかでは李 参平(金ヶ江三兵衛)の姓名は一度も出ていなかったが,第2回目の「有田焼,世界へ」(2018年10月27日)の放送は,酒井田柿右衛門(現在:当時は15代)について,この子孫が経営する有田焼の工場経営の現場も時間をかけて紹介する構成になっていた。

 重要無形文化財「柿右衛門窯」の制作現場へ! 熟練のろくろ技に,繊細で美しい「赤絵」。驚きの徹底分業の秘密とは? 柿右衛門さんの仕事場にまで特別に立ち入りを許された! 極上絵の具を作り出す「赤絵町」の職人。

 完成までなんと10年! 気の遠くなるようなこだわりとは? 電柱にとりつけられた絶縁体「ガイシ」。これこそが有田焼が世界に飛躍する決定打になっていた!? 人間の知恵と工夫と努力の数々に,タモリさん思わず感動!

 註記)https://variety.freedoga.com/second-layer.php?id=5096

 補注)酒井田柿右衛門については,つぎの本文段落に移して記した『住所(ウェブの個所)』を参照されたい。     

酒井田柿右衛門


 f) ここではただちに,「天皇・天皇制の起源の問題」と「有田焼の由来」とをいっしょにした話題に移れるわけはない。

 しかし,そこにはまた,時間(歴史の流れ)のなかでもはるかに遠くなっているせいで,そのさきの向こう側に隠されてしまいがちであり,現在の視野からはまったくみえにくくなっている「歴史の事実」が存在していた。

 その古くからの〈経緯の伏在〉を発掘し,表層にまで引き出すためには,あえて意識的に掘り起こそうとする発意(動機)が不可欠である。

 本日の話題は,天皇家の問題に深くかかわっているのだが,それでいて実は,絶対的な確証などみつからない『万世一系』という歴史的な話題(虚説)になっていた。

 ここでは再度,一言断わっておきたい。誰であっても,その人についての『固有である「万世一系」性』 が,それなりの事実として,つまり歴史をどこまでもさかのぼっていける系譜として保持している〔はずである〕。

 そうであるからには,私もあなたも,そしてほかの誰もが「万世一系」としての血統的なつながりを,古代史にまで,さらにはそれ以上の有史の範囲にまで向けて,延々とつらなる系譜をもちあわせている。

 この事実に例外などひとつもない。もちろん人間だけではなく,天皇家に限定版とされる〈歴史の観点〉でもなかった。したがって,神話の世界に引きずりこむような「天皇(家)の歴史〈観念〉」は,歴史の舞台で語れるごとき話題ではなく,神話風の架空論でしかありえなかった。

 g) ひとまず,人間の「1世代を30年間」としておけば,10代で300年,100代で3000年。中国・韓国系に人たちには,孟子の「孟」という苗字があるが,この子孫に当たる人たちが日本国内にも居住している。

 孟子の「生死年」は「紀元前372(?)から紀元前289年」だとされている。孟姓の子孫も平均30歳ほどで,子孫への代をつないできたとみなせる。ともかく,この孟という姓をもつ孟子の子孫たちは,「万まではいかないものの,75代」まで,2千3百年以上をかけて系譜を積み重ねてきた。この1代ごとに流れてきた年数はほぼ31年(正確な計算では 30.67歳)である。

 日本の天皇家の場合はどうか? 継体天皇(第26代,在位 507~531年)からが,ひとまず “まともな天皇史の出立時期だ” と認定されているが,これ以降における天皇位の継続についても「なんらかの断続があった〈事実〉」に対する疑いを払拭できていない。

 そうであっても明治維新以降は,『皇統の連綿性』そのものだけが特別に力説されており,この点が天皇家に関する歴史理解としてもっとも重要であるかのように,臣民たちに向けて力説され,それも洗脳するかのように教えこまれてきた。

 以上の議論を踏まえていうと,以前,なにかといわれていた〈平成の時代〉という時代区分に関連させては,つぎの※-3のような解説記事が,たいそうたくさん登場していた。


 ※-3「平成の天皇と皇后30年の歩み(26)「人格否定発言」に揺れる 『万世一系』の苦悩次代にも」『日本経済新聞』2018年10月27日朝刊38面「社会」

 a) それは,ときに人間を幸福にしない「万世一系」というシステムへの,悲痛な叫びのように聞こえた。

 2004(平成16)年5月,欧州訪問前の皇太子さまの記者会見で飛び出した,いわゆる「人格否定発言」。緊張感を帯びた肉声に触れ,そう感じた。皇太子妃雅子さまは当時,公務を休みがちだった。待望の長女,愛子さまを授かったが,「お世継ぎ」への周囲の期待がストレスになり,気分が落ちこむことが多かった。

 閣僚が,女性を子供を「産む機械」にたとえたのはその3年後のことだ。が,ご夫妻は,同じような圧力を感じていたのかもしれない。皇太子さまは会見で,「この10年,自分を一生懸命皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが,そのことで疲れ切ってしまっているようにみえます」と妻の心労を代弁。「それまでの雅子のキャリアや,そのことにもとづいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実」と踏みこんだ。

 補注)皇室に所属する人たちに,国民・市民としての「人権(人格権・生活権)」があるかといえば「ない」といったほうが適切である。以下しばらく,この補注の説明となる。

 戸籍も違っていて,別の『皇統譜』(天皇および皇族の身分に関する事項を記載する帳簿で,天皇・皇后用の「大統譜」とそれ以外の皇族用の「皇族譜」からなっている)のなかに記載されている。

 しかも,民主主義と自由と平等のために制定された日本国憲法にも対応させるかたちを意識しつつ,皇族たちに対するそのような身分のあつかいがなされている。

 もちろん,明治帝政期に創作された『皇室典範』が実質面においてはそのまま,敗戦した日本国にもちこまれていた。それゆえ,中途半端だった戦後処理が皇族たちの立場・身分に対しておこなわれていた。

 その結果,21世紀になったいまもなお,明治憲法〔と旧皇室典範〕下の皇族に対する処遇面の残滓(というよりはむしろその骨子)が,除去もされずにそのまま継続されられている。

 明治維新・明治憲法(皇室典範はこの憲法の頭上に位置していた)が,古代史の復興を精神史的な後景に据えた方法でもって,「富国強兵・殖産興業の国家体制」を実現させつつ,米欧帝国主義勢力に対抗する外交戦略を樹立してきたゆえ,

 その過程のなかで「新しく・創られてきた天皇制」が,いつかはその「時代錯誤であった本性」に原因する機能不全を暴露するのは,理の必然であった。

 明治天皇は側室の1人に,のちに大正天皇になる嘉仁を生ませていたが(男児としてただ1人成人できた),正妻の一条美子は1人も子を儲けていなかった。

 明治天皇睦仁の妻:皇后であったこの美子(はるこ)は,なぜか皇后とは呼ばれずに「昭憲皇太后」(睦仁の母だ)と位置づけられ(「?」),大正天皇(この人はその息子に当たるはずなのだが)の指示によってこそ,しかも実に奇怪なのあるが,

 「それでいいのだ」,いわば「自分の『母が祖母』なのだ!」といった,それこそリクツを一足飛びに越えた指定:呼称が,ともかく,決められていたのだから,奇々怪々さも高々度にきわまった皇室史の実話だと認定するほかあるまい。

 しかし,大正天皇の時期からは側室の女性は侍らなくなっていた。大正天皇は4名の息子(昭和天皇・秩父宮・高松宮・三笠宮)を儲けていた。昭和天皇は明仁ともう1人の男子を儲けていた。

 その明仁(平成天皇)の代は2人の男子を儲けていたが,その長男である徳仁は女児を1人儲けただけであった。このためにいわゆる「お世継ぎ問題」が発生し,女系・女性天皇の問題が21世紀に入ると俄然,世間の関心を惹くことにもなった。

 つぎの画像資料は,悠仁が生まれる前の段階,平成の時代における解説となる系譜図である。現在は,このとき皇太子であった徳仁が「令和の天皇」になっている。前後する説明は,この図解が示した「2017年5月」の時制に併せて記述している。

天皇家も少子化の趨勢にありや?

 というのも,現状〔当時〕のままでは現皇太子徳仁の弟:秋篠宮が男子(悠仁,12歳)を1人儲けていただけで,その悠仁からさらに天皇家の世代をつないでいき,「万世一系」の継承性を担保するための,

 いいかえれば「Y染色体」(「男系に決めていた天皇制」のこと)を確実に継承していくための「皇室内における生物学的な連続線」は,21世紀におけるこの先に関する見通しとして,いささかならず心細い状況を迎えていた。

 そうした皇室内の現実的な状況にまつわって,現在の皇太子夫婦をいらただせる要因が発生させられてきた結果,前段のごとき記者会見の場を借りた「徳仁の語り」が披露されていた。この場合,そうした皇室事情に対する「世間(とくに宮内庁内部?)からの圧力」に堪えかねた皇太子夫婦からの反撃を意味していた。

〔ここで日経の記事に戻る→〕 外交官の経験を生かした国際親善など,ひとりの女性としての社会貢献や自己実現の道を閉ざされ,ただ男子出産を期待される。万世一系の国体を護持する責務を一身に負わされた宿命の過酷さを訴えたのだ。

 独身時代の皇太子さまの登山に同行し,山小屋などで話を聞く機会がなんどかあった。つねに周囲に気を配り,笑みを絶やさぬ身ぶりが深く印象に残っている。

 補注)「万世一系の国体を護持する責務を一身に負わされた宿命の過酷さ」とは,ごく庶民的な〈感覚の世界〉に合わせていえば,ジーバが息子(や娘?)に孫(オトコ?)の誕生を期待しているが,なかなかできそうにもない様子にいらだつ状況のことに似ている,というふうに形容できなくもない。

 だが,そちらの世界とこちらの世界とでは,あまりにも次元が違いすぎて,こうした比較・比喩ではうまくいいつくせない特定の問題,つまり,残余的な印象が,どうしても違和感として残った。

 要は「万世一系の国体を護持する責務」というものが,この国のなかでいかほどに重いものだというのか,もうひとつ理解しにくい。

 だが,ともかくも,現在の皇太子夫妻にあっては,その「万世一系の国体を護持する責務」が果たせなかった。雅子の夫婦が女児1人を産んだだけの結果は,事実,彼女が夫からのY染色体を媒介・伝達できなかった。この事実に対して一時期,「世俗的」でありかつ「皇室的・宮内庁的である〈非難〉」が,皇居の内外を問わず盲発していた。

 ごく自然体になって考えてみたい。いまは,いったい,いつの時代にあるのか? なにゆえ,そのように「お世継ぎ問題」が日本の社会全体を巻きこむほどにまで大騒ぎされ,ひときわ大きな問題になっていたのか?

 もちろん,ミーハー的・週刊誌的に,今風にいえばSNS的にも,とても強い関心を惹くほかない話題であった。したがって,世間の俗っぽい興味から向けられる目線に対して,皇室側はつぎのように応答していた。皇后美智子からの援護射撃であった。

〔記事に戻る→〕 「浩宮の人柄のなかに,私でもならいたいというような美しいものをみいだしています」。皇后さまは,かつて,わが子について語られた。そのような心根の持ち主が発した言葉だけに,周囲の衝撃は大きかった。

 b) 雅子さまの人格を否定した主体は誰か。その後の報道で焦点化され,天皇家は大きく揺れた。発言をめぐって,天皇陛下が「理解し切れぬところがある」と述べられたほか,秋篠宮さまも「(陛下との意思疎通が大切で)残念」など,ご家族からも真意を問われる異例の展開に。

 皇太子さまの発言の半年ほど前。当時の湯浅利夫・宮内庁長官は記者会見で,秋篠宮ご夫妻について,「皇室の繁栄を考えた場合,3人目のご出産を強く希望したい」などと述べた。官僚としては,かなりきわどい発言だ。周囲は天皇,皇后両陛下の期待感を代弁したものと受けとめた。

〔その結果として〕宮内庁と皇太子ご夫妻との間の溝は,深まった。当時の侍従は,「かつて天皇制は敗戦という外部要因により危機を迎えた。だが,今回は内部要因によって揺らいでいる」と事態の深刻さを語った。

 補注)この皇室史に関する認識・説明には違和感を抱く。「敗戦という外部要因」と「お世継ぎ問題という内部要因」が,それほどに別離しうる問題同士には思えない。

 敗戦という出来事のあと10年ほど経ってから,当時の皇太子であった明仁が民間人:正田美智子を配偶者に迎えた。この夫妻の息子の徳仁が皇太子時代に「お世継ぎ問題」で苦悶させられた事実そのものに,敗戦という歴史の一コマが関係がないとはいえないけれども,

 とりわけ,それぞれを内部要因と外部要因とに単純に割り切り,腑分けした議論は,要注意である。あまりにも,宮内庁的に便宜的に調子をはずしたご都合主義のコジツケだという印象が強く感じられる。

 敗戦前においてからすでに,昭和天皇は側室をもたない夫婦として暮らしていったが,敗戦後の天皇家の人びとも同じ〈道:生き方〉を歩んできた。つまり,Y染色体の確実な維持・継承については環境条件的に,危機にみまわれる可能性が排除できないような,「皇室の人びと」の生き方(婚姻生活のあり方)が,現実の歴史として記録されてきた。

 戦前的な感覚でいえば,その維持・確保のためには側室がいてもいいという〈宮内庁的な発言〉が,圧力とし発生してきてもなにらもおかしくはない。

 その点について付言すると,昭和天皇夫婦が女児ばかり,長女・照宮(てるのみや),次女・久宮(ひさのみや),3女・孝宮(たかのみや),4女・順宮(よりのみや)を産んでいた時期には,そういう話題が実際に浮上していた。

 また触れておくと,昭和天皇の実弟である秩父宮と高松宮とともに,子どもに恵まれていない。明仁の弟:常陸宮も子どもは儲けていなかった。この3名の皇族たちは,まさか子どもがほしくなかったわけではないはずだから,この事実についてはつぎのように言及することができる。

 以上にたまたま名を出してみた皇族の夫婦たちの場合にかぎった話となるが,通常における夫婦間の不妊率--10分の1の確率としておく〔ただし最近はほぼ1割5分の上昇している〕--に比較しても,ここでとりあげうる事例が少ないにせよ,ともかくも「異様に高い」

 平成天皇夫婦の場合は男児2人,女児1人を産んだ。妻美智子が民間から嫁いでいたが,以上の論旨に照らして,意味深長である要素がまったくなかったとはいえまい。

 「万世一系の国体を護持する責務」なるものに執拗かつ異様にもこだわる思考が控えているようでは,以上のような疑問がただちもたげてくる点を,誰も阻止できない。

 「万世一系の国体を護持」といったふうな,いわゆる「絶対矛盾的な自己同一」性を,神話的な初代天皇「神武天皇」からの末代まで戴いていく「日本の天皇」制だとしたら,

 しかも,それが「民主主義と自由を尊重する日本国憲法」のなかで,象徴天皇の実在とにさらにこの「一族にかかわる問題」になるのだとしたら,その矛盾的な本質は,できるかぎり闇雲のなかに隠遁させておく必要性すらあったといわざるをえない。

 こうしたたぐいの問題として述べられる事実は,いかんともしがたい「なんらかの〈根源からの立ち往生〉」を意味してもおり,天皇・天皇制問題のありように必然的に随伴する難所まで示唆する。

〔ここで再度記事に戻る→〕 皇太子発言のあと,2つの出来事があった。ひとつは,宮内庁は雅子さまが「適応障害」という病であることを公表〔したことである〕。健康回復には,長い時間が必要であることを明らかにした。いまひとつは,秋篠宮ご夫妻に男児が誕生したことだ。これを機に女性・女系天皇を認める皇室典範改正の議論は急速にしぼんだ。

【参考画像】-平成天皇から令和天皇へと代わるころ-

皇位継承順位に注目したNHKの報道から

 その後,女性皇族は結婚により,相次ぎ皇籍を離脱。天皇制の命脈は,秋篠宮家の長男,悠仁さまと,将来の配偶者という一筋の細い糸に託された。その重圧はいかばかりか。皇太子ご夫妻の苦悩からなにを汲むべきなのか。人びとがそれを忘却したとき,真の皇統の危機が訪れるかもしれない。(編集委員 和歌山章彦)(引用終わり)

 ところで,その「真の皇室の危機」とは本当にところ,いったいなにを意味するのか? 

 それはいうまでもなく,皇統連綿性の断絶であり,つまり皇室の消滅である。天皇・天皇制の終焉でもある。もちろん,男系天皇にこだわってなされる「筋書き」でのその話題となるが……。
 
 だがはたして,そのような時が到来したとしたら,この国はそのとき,どのような日本になるというのか? この問題に真正面から答えようとした学究,知識人はいないのか? あるいは考えたくないのか?

 むろん,天皇・天皇制じたいの廃絶を主張する有識者が,いるにはいる。彼らの見解によれば,京都に皇族たちは帰ればいい,当面の難題が解決できるというのである。

 だが,明治の時代から1世紀半以上も,徳川家から奪った江戸城に住んできた実績がある人たちに対して,そう簡単に進言できる案だとは思えない。敗戦直後に起きたのが,つぎの出来事があった。

 1947〔昭和22〕年10月13日,新憲法下の皇室典範第5章にしたがい,初の皇室会議(議長は片山哲首相=当時)が開かれ,「皇族のうち,天皇と直接の血縁関係にある直宮(じきみや)」を除いて,11宮家51人の皇籍離脱が決定された。翌日,51人の皇族が一般市民となっていた。

皇室離脱

 男系天皇を絶やさないためには,それら旧宮家の男性を皇室に戻したりして,彼らを天皇に就けること(即位させること)も検討すべきだという意見も出ていた。しかし,その手の対策(男系天皇の途絶予防策?)は,時代錯誤どころか男女差別そのものになる。

 とくに,ヨーロッパ諸国に残る王室では王位制度の継承方法では,女性差別を完全に除去した国々もある。それを横目でみながらでもまだ,男系,男系だとつぶやきつづける御仁が,この国は大勢いる。

 要は,明治仕立てに発足していた「近代皇室・皇族」の存在が,現代における民主主義の国家体制のなかで,どのような “生態:生息のかたち” をとればいいのかは,いまだに問われつづけている課題である。

 思うに,敗戦という歴史の大事件が起こっていなかった場合,旧大日本帝国は,天皇・天皇制をどのように維持・展開しえてきたか。

 歴史に “もしはない” ものの,その点を想像したうえで,現在のそれとあえて「想定の世界」のうちでとなるが,比較してみるのも一考の価値がある。

 若い人たちだけでなく多くの人たち(日本国籍人)は,天皇・天皇制の実在を,日常生活のなかではそれほど意識しているとは思えない。在日米軍基地の問題もそうであった(もっとも,基地周辺に生活の場をもつ市民たちはまった異なる日常生活を強いられているが)。

 しかし,前代の平成天皇自身は,皇室・皇族をこれからも維持・発展させていこうとする強い意志をもっていた。この点は否定しようもない厳然たる事実であり,実際に彼らの行動面において明晰に解読できる志向であった。

 日本国憲法は「天皇・天皇制」をかかえている。基本的に異質である法令「皇室典範」をかかえこんでいる。しかも,国家体制にとって痼疾というほかない一種の特殊な現状は,その解消に向けて解決しようとする努力を,頭ごなしにハナから否定する勢力を排除させえないできた。

 とはいえ,その自家撞着であるほかない「天皇家の問題性」をよく自覚している人物が,ほかならぬ平成天皇であった。だが,この人が在日米軍基地の問題に対して,憲法の問題とからめて発言することは,いっさいできていない。それは,おいそれと発言などできない政治領域の課題であった。

 その課題の意味がなにかを「真っ向からとらえ,議論できる日本の学究・知識人がいない」。この事情にはそれ相応のわけがあった。憲法の第1条から第8条に対する「第9条の問題」という関連のなかで,まともに思考をめぐらせば,以上のごとき疑念が登場するのは当然であった。

 c) 先日〔ここでは2018年10月26日〕には,たとえば『日本経済新聞』にこういう記事が掲載されていた。

          ◆ 絢子さまが宮中三殿拝礼 ◆
       =『日本経済新聞』2018年10月26日夕刊 =

 結婚式を〔2018年10月〕29日に控えた高円宮家の三女,絢子さま(28歳)は〔10月〕26日午前,皇居の宮中三殿に拝礼する儀式「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」に臨まれた。母の久子さまや姉の承子さまら皇族方が見守るなか,厳かな雰囲気のなかで,三殿に祭られている皇室の祖神や歴代天皇に結婚を報告された。

 午前10時すぎ,三殿中央の賢所に姿をみせられた絢子さまは,束ねた長い髪をうしろに垂らす「おすべらかし」姿。赤地に緑と白の紋が入った小袿(こうちぎ)に紫色の長袴(ながばかま)の宮中装束を着て,檜扇(ひおうぎ)を手にゆっくりと回廊を進まれた。

 御簾(みす)の前で座って一礼したのち,なかに入り拝礼。皇霊殿,神殿でも同様の所作を繰り返された。

皇族の宮中三殿拝礼行為

 この記事については,つぎの様子2態が問題となる。

 ▲-1 まず,文章が日経なりに無条件に敬称・敬語に飾られている点。

 ▲-2 つぎに,天皇家の私事的な皇室神道の神社内における行事,すなわち「国・民の統合の象徴である天皇」の「係累に当たる1人(女子)の婚姻関連」が,宮中三殿においてその神々に報告する様子として,しかもそれが国民たちに伝達されるべき大事な内容として報道されている点。

 日本に住んでいる人たちすべてが神道教徒ではない。この点は自明に属する国内の宗教事情である。ところが,以上のごとき「皇族の祝いごと」が公的に重要とみなされたうえで,マスコミが欠かさず報道すべき出来事になっている。

 だが,いうまでもないけれども,日本国憲法第20条はこう規定している。

 第20条 信教の自由は,何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない。

  2 何人も,宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない。

  3 国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

日本国憲法第20条

 要は,天皇家・皇族における神道問題に根本から深く関連するこの第20条の問題は,ただしこの皇室内の宗教的な行為に関してのみは,適用外であった。

 もっとも,それをまともに厳格に適用したら,憲法第1条から8条にかかわるもろもろの現実態は「砂上の楼閣」と化すほかなくなる。

 それでいて皇室関連のニュースは,国民たちが必読である記事を提供するかのように,毎日,途切れることもなくかのように報道されつづけている。

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