見出し画像

大日本帝国元軍人「奥崎謙三の昭和天皇批判」-天子様の恩賜届かぬ兵士からの返答

 ※-1 昭和天皇-奥崎謙三-靖国神社

 本記述は2015年1月25日を補正し,改訂している。要点はとりあえず,つぎの3点となる。

  要点1 昭和天皇戦争責任の具体的な一事例

  要点2 大日本帝国陸軍1兵卒の大東亜(太平洋)戦争

  要点3 天皇裕仁の捨て石にされつづけている沖縄県
 

 ※-2 天皇が餓死させた帝国将兵について-岡崎謙三の天皇・天皇制批判,その要旨-

 1)「出版にさいして」

 奥崎謙三『ヤマザキ,天皇を撃て! - “皇居パチンコ事件” 陳述書-』(二月社,1974年,新泉社,1987年)の「出版にさいして」,この著者はこう語っていた。 
 付記)なお冒頭の画像は,『ゆきゆきて,神軍 [DVD] 』奥崎謙三出演,原一男監督の,レーベルから切り取った一部分である。以下の表紙画像は,同上書,1987年版から。

奥崎謙三 1987年・表紙カバー

 --数百万の無辜の民衆が死んだ,あの悲惨な太平洋戦争が,天皇裕仁の詔勅で始まり終ったというまぎれもない事実は,日本人のなかで天皇裕仁の戦争責任がもっとも重くかつ大であることを,なによりも如実に証明するものである。

 しかるに裕仁は,ヒトラーのごとく追いつめられて自殺せず,ムッソリーニのごとく民衆によって処刑されず,敗戦によってもまだ天皇迷信の蒙から醒めない多数の日本人の無知と怯懦に支えられて,今日の特権的な生活を保障され,存在しつづけている。

奥崎謙三 1974年・表紙カバー

 この厚顔無恥としかいいようのない,天皇裕仁とその一族の精神構造は,絶対に正常なものではなく,「現人神」(あらひとがみ)であった当時の奇怪異常なそれとまったく同一のものである。

 かかる裕仁およびその一族が,今日なお天皇,皇族,皇室として民衆の上に君臨することについて,激しい怒りと大きな疑惑を感じない者は,あの戦争の最高責任者である裕仁にその責任を問うことなく,敗戦前と同様に,尊敬・優遇しつづけてきた多数の日本人のこの感覚と態度は,

 去る昭和16年12月8日に無謀な戦争に突入した当時の日本人が示した狂った感覚と態度そっくりであり,そこには30余年の歳月が経過した年輪のあとがまったくみいだせない。

 このようにして裕仁が,今日まで誰からも罰せられず,今日なお公然と天皇として存在するゆえに,私は誰よりも激しい怒りと,軽蔑の念を,裕仁と,裕仁を許している者たちに対して,抱かずにはおれないのである。

 その激しい感情を持続することによって,私は自己の精神が正気に近いことを確認することができ,人類の未来に絶望することを免れ,天皇がいる体制のなかで不本意に送り迎える暗鬱な日々の生活を,辛うじて今日まで克服してこられたのである。

【参考画像】-奥崎謙三の店舗風景など-

奥崎謙三の自宅・店舗風景
『神軍新聞』No.2』号外

 昭和44年1月2日,私が裕仁に,パチンコを撃ってから,すでに3年半の歳月が流れたが,そのあいだに,私は,何回となく,裕仁を殺そうとしなかったことの是非について,自問自答を繰返しつづけてきたが,いまもって自分が満足できる結論をえるに至らない。

 私が,もしあの時,パチンコのかわりにピストルで裕仁を撃っていたならば,いまもなお “菊印” をタブーとする腑抜け同然の日本のマスコミも,私を精神病扱いにして,事件の意味と重大さを故意に無視・黙殺する態度はとりえなかったであろうと思うと,私は,裕仁を必殺できるならば,即座に死刑になってもかまわないから裕仁を殺してやりたいと,いまでも本気で考えずにはおられないのである。

 しかし,私が死刑になることを覚悟した上で,私の全知全能を傾注して裕仁を殺そうとしても,多くの番犬たちによって十重二十重に守られている裕仁を殺すことは,非力な私にとって不可能に近いことである。
 
 裕仁が,もし私に激しい殺意さえあれば簡単に殺せる市井の人間であるならば,裕仁を殺すことによって莫大な賞金と名誉を与えられ,法的に無罪を保証されたとしても,私は裕仁に対して殺意を抱くことは毫もできない。

 私が死ぬまで裕仁に対する殺意を捨てきれないであろう理由のひとつは,ニューギニアの戦場で飢え衰え死んでいった,戦友たちの無念を忘れることができないからであると同時に,私が死刑になることを覚悟して殺そうとしても殺すことが不可能といっても過言ではないほどに,裕仁が私から遠く隔てられた高いところにいるからである。

 ニューギニアの密林で,極限の状況裡にあって,飢え渇えた末に,孤独に淋しく虚しく死んでいった,名もなき多くの兵士たちの亡霊に向って,私は「天皇を撃て!」と,死ぬまで慟哭しつつ叫びつづけることをやめることはできない。

 --ともあれ,私の書いた下手くそな陳述書の文章が,ようやく出版される運びとなったことは,長く無限につづく闇夜の道で,前途に一縷の光明をみいだした異常にうれしい想いで,私の胸はいっぱいである。

 野蛮人の遺物である天皇と天皇的なものが存在する国を守るために,今日まで,戦時と平時を問わず,犠牲となって非業の死を遂げた無数の人びとの怨念と魂が,この1冊の本が出版されたことによって,いくらかでも慰められるならば,私にとってこれに過ぎるよろこびはない。
 
 私の書いた1冊の本が,1匹の蟻に化身して,体制の巨大で鞏固を堤防に小さな穴を穿ち,やがてはそれを跡形もなく欠壊させるよすがとなることを切に祈り,地上に真の平和が訪れることを,ひたすらに乞い願うものである。 --最後の2行は省略--

 2)『週刊朝日』評

 奥崎『ヤマザキ,天皇を撃て!』のカバー(後ろ側)には,当時の『週刊朝日』の評が転載されていた。これもここに,文章に起こして紹介しておこう。

 事件のあと独房で書かれたこの陳述書によって,私たちは,天皇の名によって青春を戦争に奪われた1人の庶民兵士が,数えきれぬほどの戦友の恨みを,このような,一見奇矯な行為によってはらさなければならなかったいきさつを,はじめてしるのである。それはグァム島生き残りの横井〔庄一〕元上等兵の言行と鮮烈な対照をなしている。

 陳述書の半ばを占めるニューギニア戦線の敗走記は,第1級の戦記文学となりうる。すぐれた描写に満ちている。

 戦後25年たって,これだけの記憶を呼びおこせるということは,限界状況を生きた著者の生の重さと,目の確かさを思わせる。

 それはまた,密林に飢えて空しく死んだ戦友の怨念が,彼の記憶を言葉にほとばしらせる力となったのだともいえよう。

『週刊朝日』評

 著者は,戦前の「不敬罪」の復活を思わせる裁判で1年半の懲役となるが,「戦争の再考責任者である天皇裕仁にその責任を問うことなく,敗戦前と同様に天皇・皇室を尊敬し,その特権的な存在を許してきた多数の日本人」の感性を責める著者の声は,戦争責任をついにみずから明らかにすることのなかった戦後日本の虚構を激しく撃つのである。
 

 ※-3 忠良なる帝国臣民が天皇・天皇制に反旗をひるがえすとき

 前項※-2は,戦場に送られたが,そこでの死を辛くも免れえた,旧日本帝国兵士の「天皇・天皇制」批判が強烈に激白されていた事実に触れた。この種の裕仁批判「論」は,研究者・学究であれば,それほど困難もなく記述できる内容かもしれない。

 だが,庶民の立場からこのように激しくきびしく天皇の思想・立場・利害を糾弾するものは,ほとんどない。戦前・戦中によくあったように,「天皇暗殺の試みにかかわった人物」が「狂人」として処置・始末されることは,しかし,この奥崎謙三には全然通用しなかった。それゆえ,戦後的に通用したのが,この奥崎兼三による,地獄の底から「天皇と天皇制」批判であった。

 もとより,狂人でなければ「天皇・天皇制」批判ができない時代ではない。民主主義のなかで天皇・天皇制の占める位置を真剣に考える機会のない一般の国民・市井の市民にとって,奥崎の発言はどのように聞こえるのか?
 

 ※-4 追補記事-『ゆきゆきて,神軍』1987年に関するある感想-

 「『ゆきゆきて,神軍』(1987年,日本)- 9.5点。奥崎,狂気の歴史的傑作ドキュメンタリー(投稿日: 2012年7月15日)」という映画の「DVD版」を視聴した人が書いた〈感想文〉を,以下に紹介しておく。いまからだと11年ほど前の文章になる。

 『ゆきゆきて,神軍』(1987年,日本)―122 分
    監督:原 一男  編集:鍋島 惇  企画:今村昌平
    出演者:奥崎謙三・シズミ夫妻 etc

  【点数】 ★★★★★★★★★☆ / 9.5点

  “THE Emperor’s Naked Army marches on” あのマイケル・ムーアが,生涯観た映画のなかでも最高のドキュメンタリーだと語る国際的にもっとも評価が高いドキュメンタリー映画の一つとして語りつがれる傑作。

 5年間の撮影期間を費やし作り上げられた作品で,ベルリン映画祭カリガリ賞など始め,さまざまな映画賞を受賞した。そんな邦画ドキュメンタリーの伝説的一作を,ふと思い立ってついに鑑賞した。

 奥崎謙三は,かつてみずからが所属した独立工兵隊第36連隊のウェワク残留隊で,隊長による部下射殺事件があったことをしり,殺害された二人の兵士の親族とともに,処刑に関与したとされる元隊員たちを訪ねて真相を追い求める。

 元隊員たちは容易に口を開かないが,奥崎は時に暴力をふるいながら証言を引き出し,ある元上官が処刑命令を下したと結論づけるのだが……(wikiより引用)。

 「暴力をふるっていい結果が出る暴力だったら,許されると…。だから私は大いに今後生きてるかぎり,私の判断と責任によって,自分と,それから人類によい結果をもたらす暴力ならばね,大いに使うと」高々と宣言して暴れまくる奥崎の姿は永遠に不滅……と,いわんばかりにすさまじいエネルギーを感じる作品。

 奥崎によってドキュメンタリー映画の至高のカタチにまで昇華した奇跡的な映画世界ではないだろうか。私はその狂気のカリスマ像に陶酔するかのように2時間ノンストップで引きこまれていった。

 冒頭の結婚式からどこか狂った奥崎の信念が炸裂する。しかし『アンヴィル』もそうだが,素晴らしいドキュメンタリーというには奇跡がある。追ってゆくなかで,奇跡が起きて,現実に物語が動き出すのだ。それがフィクションで無理やり動かされるストーリー以上の感動がある。

 はっきりいって,彼が追求する日本軍の40年前の功罪の真実には,興味深く引きこまれるがそこまで意味はない。それ以上に,過去の罪を背負って生きる人間の現在,そしてそこに神なる暴力で挑む奥崎の姿にこそ意味があるのだ。

 もう二度とこんな映画は撮れない。そう思えるさまざまな要因によって起きた衝動,そして奇跡を本作のフィルムから感じとることができた。しかし,これははっきりいって異常な映画だ。

 極端な右翼の男をこうもヒーローのように祭り上げている狂気。プロパガンダのような表現の手法をも感じる。奥崎が善なのか悪なのか,そこは曖昧なところであり,みているだけでは奥崎が英雄のように思えてしまう。

 それでも奥崎の狂気の過激右翼=神軍平等兵としての活動をフィルムに映したことには大きな価値がある。欠落した小指,洗練された尋問・言葉。暴力。公私混同したことはない,すべて神のため,宇宙の真理だといわんばかり。

 私はもう「天皇陛下の剥き出しの神軍」を貫き生きた,奥崎謙三のタフネスさを生涯忘れられない気がしている。kojiroh

『ゆきゆきて,神軍』感想

 日本国における天皇の戦争責任問題,そして天皇制の問題そのものを考えるうえで,この奥崎謙三という「一兵卒の戦後」を記録したこの映画が役にたつ,ということになる。奥崎は 2005年6月16日,死去。

 ところで本日,この記述を復活させるにあたり,奥崎謙三の死亡を報じたメディア・マスコミはないかと思い,ネット上を「奥崎謙三 死亡記事」で検索したところ,まず『四国新聞』の記事がみつかるほか,関連する記述もいくつか出てきた。
 

 ※-5 奥崎謙三の死去

     ★ 奥崎謙三氏死去 /「ゆきゆきて,神軍」の主人公 ★
 =『四国新聞』2005/06/26 21:39, http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20050626000286

 奥崎謙三氏(おくざき・けんぞう=ドキュメント映画「ゆきゆきて,神軍」の主人公)〔2005年6月〕16日,神戸市の病院で死去,85歳。兵庫県出身。自宅は神戸市兵庫区荒田町2の2の16。

 太平洋戦争中,陸軍工兵隊の一員としてニューギニア戦線に従軍。旧陸軍の上官らの戦争責任を追及した原 一男監督の映画『ゆきゆきて,神軍』の主人公としてしられる。

 1969〔昭和44〕年1月の皇居一般参賀で,昭和天皇に向けてパチンコ玉を撃ち服役した。1983年に旧陸軍時代の元上官の長男に発砲。殺人未遂罪などで懲役12年の判決を受けた。著書に『ヤマザキ,天皇を撃て!』」などがある。

 奥崎謙三の「死」については,つぎのような記述もあった。

 この種の死亡公告や関連の記事以外にも,ネットに掲載されている記事がいくつか存在するが,ここではとくに,つぎの記事を紹介しておきたい。2点出ているが,内容は連続ものの構成である。

 木村元彦「極限状態のジャングルを生き抜き天皇をパチンコで撃った元日本兵…寡黙な男を駆り立てたもの 『国に借りは作りたくない』 奥崎謙三という囚人 #1」『文春オンライン』2021/03/13,https://bunshun.jp/articles/-/43762

 木村元彦「『無知無理無責任のシンボルである天皇ヒロヒトに対して…』 “出過ぎた杭”になった男の刑務所生活「国に借りは作りたくない」奥崎謙三という囚人 #2」『文春オンライン』2021/03/13,https://bunshun.jp/articles/-/43763

2021年3月,奥崎謙三関連の記事

 ※-6 敗戦以来,天皇裕仁の戦争責任論に対して急先鋒でありつづけた井上 清

 天皇の戦争責任を追及し,沖縄訪問に反対する東京会議編・井上 清 ほか著『昭和の終焉と天皇制の現在-講座・天皇制論』(新泉社,1989年1月)という本が,天皇の代替わりがなされた時期に公刊されていた。この本の最初に登場するのが井上である。

 a) この井上 清の「昭和天皇に対する根本的な批判」を聞くまえに,前項に登場した奥崎謙三のいいぶんを紹介・分析した『文春オンライン』2021年3月に,木村元彦が書いた文章のなかから,つぎの段落を引用しておきたい。#1(前編)と#2(後編)からそれぞれ抜き出した部分である。

 #1から

 戦闘のみならず補給路を断たれたことによる飢餓と熱帯の感染症に苦しめられた地獄のニューギニア戦線から奇跡の生還を果たした奥崎の戦後の半生は,天皇の戦争責任を問うことと,敗戦を迎えた後に部隊内で起きた戦争犯罪の追及に費やされた。

 神軍平等兵になる前の奥崎。

 奥崎が自らを神軍平等兵と名乗り,「ヤマザキ,天皇を撃て!」とニューギニアで餓死した戦友ヤマザキの名を叫び天皇にパチンコを撃つ,あるいはデパートの屋上から天皇ポルノビラを撒く,といった天皇の戦争責任を直接的に問う行動を起こすのは,

 この大阪刑務所で10年の刑期を終えてからである。妻,シズミの生前の証言に拠れば,それまでの奥崎は極めて寡黙な人物であり,日常から声高にアジテーションをするようになったのも出所後であったという。

 #2から

 映画「ゆきゆきて神軍」の中で奥崎謙三は「田中角栄を殺すために記す」と大書した街宣車の中から,皇居の前でこんなアジテーション演説をおこなう。

 「立派な人間とは,どういう人間でありましょうか。金持ちでありましょうか,天皇でありましょうか,大統領でありましょうか,ローマ法王でありましょうか。私にとって立派な人間とは,

 神の法に従って,人間が造った法律を恐れず,刑罰を恐れず,本当に正しきことを,永遠に正しいことを,実行することが,最高の人間だと思っとるんであります!」

 また自身の弁護人である遠藤誠弁護士を囲む会の挨拶のシーンでは,「私は,一般庶民よりも,法律の被害を多く受けてきましたので,日本人のなかでは,法律の恩恵をもっとも多く受けてきました無知無理無責任のシンボルである,天皇ヒロヒトに対して,

 4個のパチンコ玉をパチンコで発射いたしまして,続いて,天皇ポルノビラを,銀座渋谷新宿のデパート屋上からバラまき,その2つの刑事事件にかかわった,法律家であるところの2名の判事と8名の検事の顔に,小便と唾をかけておもいきり罵倒いたしました」と話す。

 私〔この人は記述中に登場する刑務官のこと〕は19歳のときに大阪刑務所で声をかけてきたあのときの奥崎の顔をいまでも思い出すことがあります。奥崎は偉そうにしている上に対しては激しく抵抗しますが,現場の下っ端の刑務官には悪くないんですよ。特別でしたね。当時,大阪刑務所には受刑者が5000人以上も居た時代ですよ。そのなかでも全然,肌合いが違う人でした」

『文春オンライン』2021年3月,木村元彦の#1と#2

 b) 以上の奥崎謙三「像」に関した感想を聞いたところで,井上 清の「天皇・天皇制批判」を,前掲の『昭和の終焉と天皇制の現在-講座・天皇制論』(新泉社,1989年)に聞こう。以下にしばらく引用する。

 --憲法学者はいろんな理屈はいいますけれども,要するに天皇がいなけりゃ日本は動かなくなっている。日本国というものは最終的には,天皇のハンコによってしか活動できない,これが現実ですね。

 だからこそ,ソフトの面の天皇も生きてくる。ハードなしのソフトだけだったならば,高いゼニ出して天皇なんか置いておく必要ないということにもなりますわね,支配階級からみても。

 なぜそのソフトの面が役にたつかといえば,国民を天皇の下に精神的に縛りつけておくことにより,最終的には天皇が任命した政府なり裁判所なりの権力が有効に働くのです。

 こうしておいて,その天皇に支配階級はいつの間にか政治的にも活動させる。政治状況の変化とともに天皇と天皇制がさまざまに変質していく。

 敗戦の年1945年から1952年のサンフランシスコ講和条約の発効の年まで,完全な占領下にあったときの天皇および天皇制。

 それから,サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が一体の体制のときの天皇。ついで1960年に日米安保条約が改定されて日米帝国主義軍事同盟条約となるが,その体制下の天皇。

 ついで1970年,日米軍事同盟が東アジア支配の目標をはっきりさせる,……こういう段階によって天皇のあり方,国民の前への現われ方が違ってくる。

 敗戦日本の資本主義が復興し,それを経済的基礎にして,アメリカの世界戦略が変わっていくこととの関連のなかで,日本の帝国主義,軍国主義が復活し強化されていく。そのそれぞれの段階において天皇のあり方が変わってくる。

 占領下の天皇,これは国民の前にはひっそりしている。占領下の天皇は,国民の前から姿を消した同然みたいにしている。で,本当にそうなのかといえば,そうじゃない。

 裕仁はマッカーサーと取引して,自分をアメリカ帝国主義の道議として売りこむ。売りこんで,戦犯として裁判されないことにする。その代償は,米軍の沖縄占領をいつまでも続けさせる,米軍が講和後も日本に居座るようにするということだった。それがこの時期だ。

 同時に,天皇は敗戦直後,ずーっと日本全国を回って国民に自分を売りこんでいく。それは,1946年と1947年の初めまでです。新憲法ができて天皇の地位が保障されると地方巡幸はやめる。

 そして1947年5月,天皇はその憲法に定めた一定の国事行為以外は政治的機能はいっさいもたないと定めた憲法ができたその直後に,天皇はマッカーサーにメッセージを送って,沖縄を長期にわたって,25年ないし50年〔またそれ以上の年数〕にわたって〔も〕アメリカ軍が占領してくれということをいうんです。これは,ものすごい国事行為ですね

 以下・補注)その天皇の行為は,秘密裏に,つまり彼個人が自分のためを思い冒した勝手であっって,厳密には国事行為などではなくて,あくまで私的な逸脱の行為,恣意にもとづく自己保身のための行為に過ぎなかった。しかも,日本国憲法は1947年5月に施行されている。

 太平洋戦争中も末期になった1945年6月23日に沖縄戦は決着した。だが,敗戦後78年経った2023年になっても,つまり「四半世紀」の単位でいえば,その3期以上もの長期間にわたりいまだに,沖縄県は米軍基地によって実質「占領」同然の《半植民地状態》が継続「させられて」いる。

 沖縄県は依然,米軍だけに使い勝手のいい,それもアメリカ本土並みではなくて,「風土や環境」も含めて「人間と社会」が粗雑に扱われる他国の土地になったのは,一重に,裕仁個人の私利我欲を生かすための敗戦処理史的な事情に原因していた。もっとも,その事実は,なんといっても当人が一番よく心えていた経緯ではあった。

 だから,裕仁自身は生前,沖縄県にはとうとういけなかったものの,その代身として息子の明仁が嫁さんを同道させるかたちで,1975年7月17日から同県を訪問させた。しかし,当時,皇太子だった明仁夫妻が沖縄へ到着してからその道中に事件が発生した。

 この皇太子夫妻を乗せた車列に向かって,〔沿道の建物から〕瓶が投げられたりする不測の事態が発生したなかで,そのままひめゆりの塔へ向かった皇太子夫妻に対してに,さらに火炎瓶投下事件が発生したのである。

 c) 視点を変えてこう問うてみるのもよい。明仁夫婦は沖縄県に対してつぎのような感情を抱いていたという解説があった。

 △-1「普通の日本人だった経験がないので,なにになりたいと考えたことは一度もありません。皇室以外の道を選べると思ったことはありません」…… 明仁皇太子,1987年。アメリカの報道機関からの質問に対する回答。

 △-2「石ぐらい投げられてもいい。そうしたことに恐れず,県民のなかに入っていきたい」…… 明仁皇太子,1975年。沖縄訪問を前に。

 △-3「だれもが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら,それでも絶望しないで生きている」…… 美智子皇太子妃,1980年。46歳の誕生日会見より。

 註記)矢部 宏治【文】,須田 慎太郎【写真】『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』増補改訂,小学館,2015年。
 なお,つぎも参照されたい。⇒ https://sgkcamp2.tameshiyo.me/MESSAGE

『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』から

 生前,沖縄県にはどうしてもいけなかった昭和天皇裕仁の代身になったつもりで,第2次大戦末期「県民の3~4人に1人は死んだ」とされる沖縄戦の犠牲者を慰霊する意味もこめて,沖縄県を訪問したのが,皇太子明仁であった。

第2次大戦時,沖縄県における戦争犠牲者統計

 はたして,その代役は十分に遂行できていたのか? この点を考えるための材料を次項に指ししめしてみたい。沖縄県の地方紙がきびしく問うところに対して,はたして,昭和天皇とその息子たちは,よく応えることができたか?
 

 ※-7 沖縄地方紙の昭和天皇批判「社説」

 1)「〈社説〉昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ」『琉球新報』2014年9月10日 06:02,https://ryukyushimpo.jp/editorial/prentry-231371.html

 沖縄の運命を変えた史実は,十分解明されなかった。

 宮内庁は昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」の内容を公表した。米軍による沖縄の軍事占領を望んだ「天皇メッセージ」を日本の公式記録として記述した。

 しかし,沖縄の問題で重要とみられる連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサーとの会見記録や,戦争に至る経緯などを側近に述懐した「拝聴録」は「みつからなかった」との理由で,盛りこまれなかった。編さんに24年かけたにしては物足りず,昭和史の空白は埋められなかった。

 昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回,切り捨てられている。

 最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が「国体護持」の立場から1945年2月,早期和平を天皇に進言した。天皇は「いま一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した。その結果,沖縄戦は避けられなくなり,日本防衛の「捨て石」にされた。だが,実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない。

 二つ目は1945年7月,天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された「和平交渉の要綱」は,日本の領土について「沖縄,小笠原島,樺太を捨て,千島は南半分を保有する程度とする」として,沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から「捨てる」選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。

 三つ目が沖縄の軍事占領を希望した「天皇メッセージ」だ。天皇は1947年9月,米側にメッセージを送り「25年から50年,あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した。

 実録は米側報告書を引用するが,天皇が実際に話したのかどうか明確ではない。「天皇メッセージ」から67年。天皇の意向どおり沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中して「軍事植民地」状態が続く。「象徴天皇」でありながら,なぜ沖縄の命運を左右する外交に深く関与したのか。実録にその経緯が明らかにされていない。

 私たちがしりたいのは少なくとも3つの局面で発せられた昭和天皇の肉声だ。天皇の発言をぼかし,沖縄訪問を希望していたことを繰り返し記述して「贖罪(しょくざい)意識」を印象付けようとしているように映る。沖縄に関するかぎり,昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある。この点をあいまいにすれば,歴史の検証に耐えられない。

2)「〈社説〉昭和天皇『拝謁記』 戦後責任も検証が必要だ」『琉球新報』2019年8月21日 06:01,https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-975015.html

 初代宮内庁長官の故田島道治氏が昭和天皇とのやりとりを詳細に記録した「拝謁(はいえつ)記」の一部が公開された。それによると,本土で米軍基地反対闘争が起きていた1953年,昭和天皇は

 「全体の為(ため)ニ之がいいと分れば一部の犠牲は已(や)むを得ぬと考へる…」

 「誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払ハねばならぬ」(引用部は一部原文のまま)などと述べていた。

 昭和天皇が〔19〕47年,米軍による沖縄の長期占領を望むと米国側に伝えた「天皇メッセージ」の根本にある考え方といっていいだろう。

 沖縄をめぐり,昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある。歴史を正しく継承していくうえで,これらの検証は欠かせない。

 〔19〕45年2月,近衛文麿元首相が国体護持の観点から「敗戦は必至」として早期和平を進言した。昭和天皇は,もう一度戦果を挙げなければむずかしい,との見方を示す。米軍に多大な損害を与えることで講和にさいし,少しでも立場を有利にする意向だった。

 さらに,〔19〕45年7月に和平工作のため天皇の特使として近衛元首相をソ連に送ろうとしたさいには沖縄放棄の方針が作成された。ソ連が特使の派遣を拒み,実現をみなかった。

 そして〔19〕47年9月の「天皇メッセージ」である。琉球諸島の軍事占領の継続を米国に希望し,占領は日本に主権を残したまま「25年から50年,あるいはそれ以上」貸与するという擬制(フィクション)に基づくべきだ―としている。宮内府御用掛だった故寺崎英成氏を通じてシーボルトGHQ外交局長に伝えられた。

 すでに新憲法が施行され「象徴」になっていたが,戦前の意識が残っていたのだろう。

 これまでみてきたように,昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3度切り捨てられている。根底にあるのは全体のためには一部の犠牲はやむをえないという思考法だ

 こうした考え方は現在の沖縄の基地問題にも通じる。

 日本の独立回復を祝う〔19〕52年の式典で昭和天皇が戦争への後悔と反省を表明しようとしたところ,当時の吉田 茂首相が反対し「お言葉」から削除されたという。だからといって昭和天皇の責任が薄れるものではない。

 戦争の責任は軍部だけに押し付けていい話ではない。天皇がもっと早く終戦を決意し,行動を起こしていれば,沖縄戦の多大な犠牲も,広島,長崎の原爆投下も,あるいは避けられたかもしれない。

 「拝謁記」で,昭和天皇が戦前の軍隊を否定しつつも,改憲による再軍備を口にしていたことは驚きだ。憲法99条は天皇や国務大臣など公務員に「憲法尊重擁護の義務」を課している。象徴である天皇自身が憲法改正を主張することは許されないはずだ。

 「拝謁記」で明らかになった昭和天皇の発言が,現政権による改憲の動きに利用されることはあってはならない。

 --以上『琉球新報』社説を2件,紹介した。本ブログ筆者が奥崎謙三を記述の対象にとりあげ検討してきたつもりである「天皇・天皇制」問題の,それも,とくに敗戦後史における天皇裕仁の我利私欲・自己保身になる処世術は,天皇だとかいった問題としてとらえて議論する以前に,彼の「1人の人間としての〈哀れさ〉」を感じさせるに十分な材料を明示していた。

 こうした敗戦後史的な足跡を残した昭和天皇の生きざまは,まさしく対律的であったとはいえ,自分の敗戦後を生き抜いてきた奥崎謙三の生きざまとは,まさしくまた,相即的かつ即時的にもきわめて濃厚に連関していた。しかも,両名をとりむすんだのは,1969〔昭和44〕年1月の皇居一般参賀で奥崎が放ったパチンコ4個(発)であった。とはいえ,両名のあいだにはきわめて近しくて,かつ深く共有しうる歴史的背景が控えていた。

------------------------------

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?