小熊英二の戦後日本政治社会論をめぐり,戦争と平和の問題をあらためて考えてみる(後編)
※-1 事前の断わりと2023年10月「日本国の状態」
「本稿(後編)」は前編であるつぎの記述(住所・アドレス指示)を受けた内容になっている。そちらの冒頭では,その趣旨をこう説明していた。
⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/n593d30ee1dfe
また,本ブログ筆者がこの記述を初掲したのは,2015年8月31日であったが,2020年9月10日に一度,更新していた。しかしその後,しばらく未公表の状態になっていた本稿を,
昨日の(2023年10月29日)の「本稿(前編)」と,
本日の(2023年10月30日)「本稿(後編)」に
2分割するかたちで再掲することにした。このさい,もちろん一定の補正や追論がなされている。
付記)冒頭の画像資料は,末尾に挙げたアマゾン通販の本から借りた。
a) さて,2023年の秋になってからというもの,安倍晋三政権から菅 義偉政権を挟んでとなっているが,「自民党流の自堕落為政」を,すでに21世紀的にその末期病状をさらけ出しつつ,よろよろかつオタオタと,「世襲3代目の政治屋」の「丸出だめ夫」風の内政・外交を惰性的に推進するしか能がなくなった「現状の岸田文雄」政権は,
岸田文雄は政権の座に就いてから2年以上が経っている。だがはたして,自分自身がどのような国家の運営をおこなっているのか,まるで分かっておらず,しかもその自覚がない。このヨタヨタさかげんだけがめだつ,それも世間しらずの「世襲3代目の政治屋」の執政のために,日本国中がだい迷惑を受けている。
岸田文雄政権のそうしたできそこない執権ぶりときたら,いまとなってみれば庶民の目線からでも,その「愚昧さ」が明快かつ簡単に指摘できる程度の,不出来・不首尾ぶりであった。
b) 本日2023年10月30日の『日本経済新聞』朝刊には,今月にこの新聞社が実施した世論調査が報告されていた。政権寄りに好意的な数値をいつもはじき出すこの日経の内閣支持率だが,今回はその結果を踏まえてつぎのように報道していた。
なお,山賊・海賊のたぐいの政党「日本維新の会」が,まだ9%の政党支持率をえている事実は,この国の民主主義の成熟度という観点では,発展途上というか,もしくは明らかに衰退途上である点,いいかえれば,有権者意識の次元においては,その「途上性」がなお問題であった事実を,否応なしに教えている。
c) なおここでは『選挙ドットコム』による,つまりインターネット調査にもとづく政党支持率も公表されているので,参考にまで紹介しておきたい。
前段にも断わっていたように,本ブログのこの記述じたいが初掲されたのは,岸田文雄が首相になる1年前であった。ここに,この記述を復活・再掲するまでに,自民党政権は菅 義偉の時期も含めてすでに,3年の時間が経過してきた。現状,日本の政治・経済はいよいよ岸田文雄政権的にダッジロール状態になっているどころか,泥沼をはいずりまわるかの様相を呈している始末である。
今日は2023年10月の下旬で30日であるが,岸田文雄が「世襲3代目の政治屋」である事実に淵源する「政治家としての未熟ぶり」だけが,ますます露骨に現象する段階になってきた。ということで,つぎのごときに,新聞記事のあれこれを拾い読みをしてもらうことにしたい。
まず「岸田文雄政権の支離滅裂ぶり(=ちぐはぐ)」を批判した『毎日新聞』2023年10月27日の社説。
つぎに『日本経済新聞』2023年10月27朝刊コラム「大機小機」が,「岸田文雄政権」は「ダッチロールの減税」政策を謳ったと批判。
つぎは,2023年中に日本はドイツに抜かれる経済指標の話題。
最後に,安倍晋三がらみの,つまり統一教会の問題があった。日本の庶民のふところから韓国経由で北朝鮮にまで流入しているという指摘まであった。それでは,例のブルーリボンバッジはなんの効用も発揮できていなかったことにもなる。
以下から本日の中心となる話題に移る。※-2は,敗戦後史の論題から論及がはじめられているが,2023年の時点では,「以下の引用のように」現実的に語られる米日間の軍事連係問題になってもいた。この説明がなにを意味するかといえば,軍事面において日本が「アメリカに対して〈服属・上下関係〉」に組みこまれている事実を指している。
この文書の「論題の文句」をみれば,これがいったいどのような意味をもつかは一目瞭然である。次段からの※-2における議論の「その後のまたその後」の顛末は,以上のごとき,「平和財団」を騙る「博打胴元の戦争観」をもってしかも「平和的に語られる」点に,正直に説明されていた。
※-2 日本国憲法の基本問題
1)第9条の本性
憲法第9条が骨抜き状態になれば,第1条もその状態に合わせてカラッポにしたらよいのである。これしか当面する解決方法はない。これこそ憲法改定をしなければならない根本の事情・利用になりうる。
そもそも,敗戦時に残置されて天皇・天皇制は,占領軍の都合・利害のためにこそ,残されていたに過ぎない。だから,第9条の裏づけである在日米軍の実在とともに,この外国軍と合体・統合化するほどの実力(戦力)を,以前よりもちはじめていた自衛隊3軍の実在を踏まえて判断すれば,もはや天皇・天皇制は要らなくなったと断定されるほかない。
天皇は敗戦直後の被占領時代,日本帝国臣民から日本国民になった日本人たちを,在日米軍(GHQ)が統治・管理するための「ビンのフタ」の役割を果たしていた。だが,現段階における「在日米軍 + 自衛隊」という軍備実力(いわゆる暴力装置2国間体制)のなかにあっては,いまさら「象徴」として民主主義国家体制のなかで,天皇が存在する意味が希薄になった。
民主主義本来の政治体制を構築するために『天皇という「人間」』の制度が必要だとか不可欠だとは考えるのは,民主主義の基本理念に照らせば,見当違いの議論でしかない。日本敗戦に当たって占領軍の都合・利害で残置させてきたのが天皇・天皇制である。しかしいまでは,その存在意義が本来どこにありうるのかさえ不可解である。
2014年秋の話題であったが,憲法第9条にノーベル平和賞を受賞させたいと日本人のある主婦が提案し,実際にその候補として推薦までしていた。けれども,1947年5月から1950年8月10日までのその第9条に限ってのみ授賞せよという発想ならば,まだ理解できなくはない。けれども,21世紀において観るところの,在日米軍と自衛隊3軍のもとにおける第9条に対するノーベル平和賞をという発案であれば,これは「死ぬほどに痛い腸捻転にも勝るねじれ具合」を起こしたうえでの珍妙なる提案ではなかったか?
以上〔昨日の記述も受けて併せて話となるが〕,本ブログ筆者によるずいぶん長い論及から,次段では再度,小熊英二の論旨に戻ることにする。本ブログ筆者が以前より繰りかえし述べていた「当面する重要な論点」,すなわち,憲法「第1条と第9条の関係問題」が,小熊英二によっても今回,真正面から議論されている。
2)「第1条と第9条」と「東京裁判と日米安保条約」
〔小熊英二の記事本文に戻る→〕 したがってこの2つの条項(憲法の第1条と第9条)の改正は,基本コンセプトの変更を意味する。他の条項については,国民主権と平和主義をよりよく実現するための改正,ということもありうるだろう。しかし前文・第1条・第9条の改正は,国の骨格そのものの変更である。
フランスやアメリカでも,憲法の各条項の改正はおこなわれる。しかし,人権宣言と独立宣言は変えない。それは,建国の基本的精神を変更することであり,つまりは「『フランス共和国』や『アメリカ合衆国』をやめる」ことを意味するからだ。
逆にいえば,「日本国」を否定したい人びとは,前文と第1条と第9条の改正を目標にしてきた。これらの改正をめぐる対立は,「日本国」の存廃をめぐる争いなのである。
だが日本国は,国内条件だけで成立してきたのではない。戦争の惨禍を経て,平和主義をかかげた国の成立は,国際的には以下の2つなしにはありえなかった。すなわち,東京裁判と日米安保条約である。
まず東京裁判なしには,日本国の国際社会復帰はありえなかった。また当時の国際情勢では,東京裁判と第9条なしに,第1条の前提である天皇の存続もありえなかった。
そして第9条は,米軍の駐留抜きに実在したことはない。すなわち1952年までは占領が,1952年以降は日米安保条約が,米軍の駐留を正当化してきたのである。つまり「日本国」とは,第1条,第9条,東京裁判,日米安保の4つに立脚した体制である。これら4つは,相互に矛盾しながらも,冷戦期の国際条件では共存してきた。
そして「戦後70〔75→78〕年」とは「建国70〔75→78〕年」のことだ。もし,日本国の存立を支えている4要素が変更されれば,ないしバランスが変われば「戦後」は終わる。それがないかぎり,たとえなんらかの紛争に日本がかかわっても,「戦後」は続くだろう。
補注)ところで,ここでいわれる「戦後」とは,本当はなにを意味するのか? おそらく,在日米軍基地が日本の国土からすべて撤去されたときに,到来するはずのその「歴史の瞬間」になるはずである。
だが,小熊英二の場合「も」そのことを明確に表現する手順にまでは踏まない。いうところの内容があまりにも刺激的であり,根源的でもあるからである。日本の知識人・学究の限界に相当するなにものかが,そこには潜んでいるとも感じられる。
3)戦後という時期
小熊英二の修辞,敗「戦後は続く〔だろう〕」という文句が意味するのは,いったいなんであったのか?
東京裁判史観を否定したい者は,米日安保条約体制もすべて丸ごとを否定しえないかぎり,その「否定の本意」は実現させえない。しかしその意図は,絶対に実現不可能である。
小熊英二が上段のように表現しているように,だから,21世紀における今後においても,この「戦後〔状態〕は続く〔ほかないだろう〕」と断わられている。
「天皇・天皇制」とは,まったきに〈対〉の関係性をもって置かれてきたのが,「在日米軍基地」の存在である。これをどかすためには,両方をいっしょにどかさねば,もともとできない相談である。
この前提で日本国憲法を「改正」するとしたら,どのような方途が可能か? 自民党の憲法「改悪」は時代錯誤の政治思想にこだわっている。明治時代まえの先祖返りを夢みている。まさしく,白日夢である。
自民党「日本国憲法改正草案」は,「前文」で「主権在民,平和主義,基本的人権の尊重の三つの基本原理を継承しつつ,日本国の歴史や文化,国や郷土を自ら守る気概,和を尊び家族や社会が互いに助け合って国家が成り立っていることなどを表明」している。
その第1章が「天皇は元首であり,日本国及び日本国民統合の象徴」であり,「国旗は日章旗,国歌は君が代とし,元号の規定も新設」するとも唱えている。
これではまるで明治憲法の亡霊が登場したも同然である。明治時代以前に「天皇が元首」であった時代など,ふたしかにいうと,古代にはあったかもしれない。だが,中世以降には否でありつづけてきた。
明治維新が「神武創業」と称して,古代史への回帰を希求したものの,民主主義政治体制としてみれば,本来から有していたその中途半端さは,まさしく「敗戦」によって,いまさらのように実証された。
「東京裁判史観」を否定する人びとは,ホンネがどこにあったかはみえみえである。21世紀よりも19世紀に存在していた旧・大日本帝国憲法のほうが,日本国憲法よりもすばらしいと確信(盲信)できているわけである。
自分たちが創った「旧・憲法」が,敗戦後にGHQに押しつけられたという「新・憲法」よりも,民主主義の制度「設計・観」において勝っているというその確信(信心)は,いったいどこから湧いてくるのか,まことに摩訶不思議な感覚ないしは発想である。
21世紀もその四半世紀近くも経過した現代政治体制のなかで,いいかえれば,民主主義のより健全な展開を期待したい者たちの立場・思想にとってみれば,そもそも「天皇を元首に置くとする発想」そのものが不要・無用の長物である事実は,まともな政治精神の持ち主であれば,自然に認識できているはずである。
ところが,こういう発言をすると,これに反発する者はただちに,ならば共和国体制が至上なのかとムキになって批難してくる。しかし,政治制度として根幹的に異質である両憲法のあり方を,基本的に比較できると観念する発想からして,もとより稚拙とみなすほかない社会認識であった。
それでは,この21世紀における日本の政治・経済・社会・文化・歴史・伝統の諸実態を,真正面からよくよく観たうえで,よりまともに理解しようとしたことがあるのかと,詰問したくもなる。
とりわけ,「日本国の歴史や文化,国や郷土を自ら守る気概,和を尊び家族や社会が互いに助け合って国家が成り立っている」などと教説する部分についていえば,いまどきは「家族や社会が互いに助け合って」生きていける生活水準にもない世帯・個人が,現に,われわれの周辺にはわんさと存在しているだけでなく,これからもどんどん増える見通ししかもてないでいるにもかかわらず,それでも,その種の観念を昂揚できる立場は,みずからの社会認識がいかほど時空の措定に関して時代錯誤であり状況音痴であることに,いっさい気づいていないからである。
つまり,できもしないような思いこみだけの美文(?)を連ねて表現できたつもりなのか,それも,戦前・戦中の国家全体主義に戻りたいかのような〈封建遺制的な政治情念〉しか,感じさせえないような文章(作文)が,その自民党憲法改悪案にあっては露骨であった。
4)憲法研究会『憲法草案要綱』1945年12月26日
敗戦直後,日本国憲法が制定されるまでには,いくつもの憲法草案が提案されていた。たとえば,憲法研究会の『憲法草案要綱』(1945年12月26日)もあった。この草案はつぎのように解説されている。
憲法研究会とは,1945〔昭和20〕年10月29日,日本文化人連盟創立準備会の折に,高野岩三郎(たかの・いわさぶろう)の提案により,民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成された。事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し,他に杉森孝次郎,森戸辰男,岩淵辰雄等が参加した。
研究会内での討議をもとに,鈴木が第1案から第3案(最終案)を作成して,12月26日に「憲法草案要綱」として,同会から内閣へ届け,記者団に発表した。また,GHQには英語の話せる杉森が持参した。
同要綱の冒頭の根本原則では,「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇の統治権を否定,国民主権の原則を採用する一方,天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制の存続を認めた。また人権規定においては,留保が付されることはなく,具体的な社会権,生存権が規定されている。
なお,この要綱には,GHQが強い関心を示し,通訳・翻訳部(ATIS)がこれを翻訳するとともに,民政局のラウエル中佐から参謀長あてに,その内容につき詳細な検討をくわえた文書が提出されている。また,政治顧問部のアチソンから国務長官へも報告されている。
註記)以上は,http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.html
実際に制定された日本国憲法は,この憲法研究会『憲法草案要綱』の一部のいいとこどりだけをしていた。GHQの日本占領体制において,いかに統治・管理をおこなうか,その都合によい考えの部分(条項の文句)は流用されたかもしれない。つまりこの『憲法草案要綱』は,天皇・天皇制を全面的に否定していなかったものの,現行の日本国憲法よりははるかに前進していた創案(草案)であった。
ところが,21世紀にもなって前段のごとき自民党の「日本国憲法改正草案」が,反動形成的に提示されている。こちらは,20世紀の前半期(敗戦前)にまで憲法概念を逆送させるつもりである。
敗戦だとか「ポツダム宣言の受諾」だとか「東京裁判」だとか「安保条約体制」だとかが,敗戦後史のなかで固有に実在し発揮されてきたそれぞれの歴史的な意味など,彼らはわずかも思いだしたくもなく,むろん触れたくおないのである。
5)小熊英二の結論部分
〔小熊英二の記事本文に戻る→〕 いま「戦後」は不安定になっている。冷戦終結と国際社会の変動,戦争の記憶の風化,経済条件の変化などが,4要素のバランスと共存を脅かしているからだ。建国70年を迎えた日本国は,今後どんな国であるべきか。いま問われているのは,それである。その議論なしに,この国の未来は探れない。(小熊英二からの引用,終わり)
本ブログ筆者にいわせれば小熊英二はとくに,「『日本国』とは,第1条,第9条,東京裁判,日米安保の4つに立脚した体制である。これら4つは,相互に矛盾しながらも,冷戦期の国際条件では共存してきた」と措定したうえで,これを枠組に据えて論じていた。この認識は敗戦後史に関する当然の理解であり,指摘であった。
そのさい,歴史継起・連続的に展開されてきた,それら「論点間の文脈関係」について小熊英二は,実は,もっといいたいことがあったはずだと推察する。だが,今回における論説においては,それ「以上」の次元まで立ち入る主張は,あえて披露していなかった。
小さな寄稿文であるから,そこまで求めるのは無理があるかもしれない。しかし,敗戦後史:昭和20年代史にまつわる核心の論点,それも,21世紀における天皇制度の諸問題にまで連なる基本事項に,それ「以上」は意図的に触れていなかったとすれば,いささか隔靴掻痒の感を逃れえなかった。
※-3 議論の前提
以上 ※-1と※-2の議論のなかには,昭和20年代史における昭和天皇の『禁じられたはずの政治的な行動の「裏・表」』に関する論及がなされていた。ところで,〔この記述がなされていた時点から〕4ヶ月前の2015年4月18・19日であったが,日本国営放送がNHKスペシャル番組として,「『日本人と象徴天皇』の “表と裏” 」という放送をしていた。
ここでは,その番組の内容を批判していたブログの記述を紹介する。本日の議論に関連して,参考になる中身が記述されている。そのブログ名は『アリの一言-オキナワ,ヒロシマ・ナガサキ,フクシマなどの現実と歴史から,人権・平和・民主主義・生き方を考える。』である。以下に,適宜参照する(文責は引用者)。
註記)以下は,NHKスペシャル「日本人と象徴天皇」の“表と裏”
2015年04月21日,http://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/a5439a9a11248a0d6a0677b263a952b5 から。
1) 表と裏のある番組
NHKは2015年4月18日,19日の2夜連続で,NHKスペシャル「日本人と象徴天皇」を放送した。「戦後70年・ニッポンの肖像」企画の第1弾。番組はいくつかの重要な歴史的事実を明らかにする一方,肝心な点はあえて触れようとしなかったり隠そうとしていた。その “表と裏” は……。
2) 昭和天皇の戦争責任回避と「象徴天皇の誕生」
戦後ギャラップ天皇制度調査 この番組では1945年6月の米ギャラップ世論調査「戦後,天皇をどうすべきか」が紹介されていた,つぎの画像資料を参照したい。
それは「殺害する=36%」をトップに,圧倒的多数の米国民が昭和天皇の戦争責任追及を望んでいることを示していた。しかし,連合国軍総司令官マッカーサーは,占領政策遂行のために昭和天皇の戦争責任を不問にし,「象徴天皇」として天皇制を残した。
番組は「新たに発見された資料」として,昭和天皇が側近に「極秘だ」として,マッカーサーから退位しないでほしいといわれた,と語ったという「稲田メモ」なるものを紹介していた。
「象徴天皇」を国民に印象付けるための「全国巡幸」も,GHQの指示だったとするなど,「象徴天皇」はその「誕生」から「定着」まで,一貫してマッカーサー・GHQの意向・指示だったとした。
その一方,昭和天皇(日本)が必死に戦争責任追及を回避しようとしたことには触れず,「(巡幸で)戦争の傷の深さを自覚した」(コメンテーター・保阪正康氏),「(天皇は)国民の心を支えてくれる存在だった」(NHK司会者)などと昭和天皇の〈敗戦後〉を美化していた。
3)昭和天皇とサンフランシスコ体制・「沖縄メッセージ」
a) 番組は,日本国憲法に「象徴天皇」が明記されたのち,マッカーサーが日本との早期単独講和をめざしていたとき,昭和天皇が芦田 均外相(当時)を呼び,「日本としては結局アメリカと同調すべき」と指示した(『芦田日記』の)こと〔や〕,
補注)この場面はいわゆる「内奏」の具体的な様子を指している。つまり,象徴天皇になっていた昭和天皇自身が,日本の政治に直接介入していた事実に触れている。
b) さらに,マッカーサーとの会見(1947年5月6日)で,「日本の安全保障を図るためには米国がイニシアチブを執ることを要するのでありまして,そのために元帥の御支援を期待しております」(『昭和天皇・マッカーサー会見』より)と述べたことを紹介していた。
c) くわえて番組は,昭和天皇がGHQに対し,「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望する」とするメッセージ(「沖縄メッセージ」1947年9月20日付,画像 ↓ )を送ったことも紹介していた。
こうした史実は,昭和天皇が憲法の「象徴天皇」の権限を逸脱し,政治・外交の根本問題に積極的に介入・指示していたことを示している。それが今日の沖縄の軍事植民地状態を作り出したサンフランシスコ条約・日米安保体制の根源でもある。
ところがNHKスペシャルは,「象徴」を逸脱した昭和天皇のこうした憲法違反には一言も触れず,さらに「天皇の沖縄メッセージ」についても,「長期租借という措置で日本に主権を残したという面もあり,難しい問題だ」(コメンテーター・御厨 貴東大名誉教授)として,その売国的重大性を事実上,免罪するといったふうな,いわば中途半端以前の「裕仁擁護」しか「していなかった」
4) 天皇明仁への手放しの賛美
昭和天皇については,否定できない事実を紹介しつつ,その評価をあいまいにする一方,現(前)明仁天皇については,「沖縄に心を寄せつづけるというみずからの誓いを実践されている」「イデオロギーや偏りがいっさいない中立性をつくりあげた」(御厨氏)など,こちらは手放しで称賛していた。
以上のごときNHKスペシャルの番組「日本人と象徴天皇」が触れようとしなかった重要な問題が,少なくとも2つあった。
★-1 ひとつは,現在の「象徴天皇制」はなお,昭和天皇の戦争責任回避の問題を残したまま,もちこして来たという点である。これにかかわってはさらに,「天皇が象徴であるという位置(意味)づけ」など,まるで空中分解させたがごとき,換言すれば,憲法の基本から「天皇条項」を放出させてきたごとき「日米軍事同盟路線推進の進展」があった点が,そもそも前提に置かれるべき問題として看過できない,ということであった。
とりわけ沖縄の立場は,いまもなお焦点である辺野古新基地建設はじめ,米軍基地,日米軍事同盟の犠牲を差別的に加重され,格別にその分担を負わされてきたのであるから,こうした現実が「象徴天皇」の昭和天皇によってもたらされた事実をあいまいにすることなど,まったくできない相談であった。
保阪正康氏は現(前代の平成)天皇を,「過去,現在,未来の連続性のなかに自分を位置づけている」と,賛美したかったかのような解説を披露していた。だが,それならばなおさらのこと,現在にある平成天皇が,昭和天皇から引きついだ「過去」の責任を忌避することはできない。基本からして許されえない事情があった。
★-2 もうひとつは,たとえ(前代の)天皇明仁が主観的に「中立性」を保ちえたいと考えていたとしても,「象徴天皇」はつねに国家権力が政治的に利用しうる対象である。その典型的な例が,2013年4月28日,安倍政権が沖縄県民の批判・抗議を無視して強行した「主権回復の日」式典に,天皇・皇后が出席させられたことにも表出されていた。
補注)その式典の終了まぎわ,安倍晋三たちが式次第にはなかった「天皇陛下,万歳三唱」を,ゲリラ作法的に叫びあげ,問題になっていた。
敗戦70年。「象徴天皇」の「過去・現在・未来」は,NHKスペシャルとは別の視点から,私たち自身が考えなければならない問題である。(ここで※-3の記述としての参照は終わり)
以上の議論は,すなわち,本日紹介してきた小熊英二の寄稿「『戦後』とは何なのか」(2015年8月27日)は,いったい,敗戦後史の「なにを・どのように・考えればよいのか」について,基本からの再考をうながす論及であった。
ただし,その方向性について小熊が,具体的に明示しうる議論まで立てていたとは受けとりにくかった。参照した寄稿の意図はその内容によく反映されており,その種の感想を抱くこととなった。
前段の記述のなかに登場した識者,保阪正康や御厨 貴にも「同質の制約要因」がないはずがない。天皇・天皇制の問題,その歴史の展開のなかに記録されてきた問題点を,真っ向から批判して・する議論が,彼らにできるわけはなかった。そして多分だが,そうするつもりは,当初からもちあわせていなかった。
しょせん,体制内的な発言しかなしえないのが,彼らの立場に固有であった限界・制約といえる。たくさんの書物を公表している保阪正康や御厨 貴に対して,天皇・天皇制に対する「本格的な批判」は,最初から期待できるはずがなかった。
本ブログの記述は,そのあたりを忖度しながら,あえて肝要な問題に関する意見を,率直に提示してみたつもりである。
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