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安倍晋三極右政権と皇室・天皇家の戦い-在日米軍と自衛隊が統合化する軍事事情のなかでの天皇明仁の判断-(2)

【断わり】 「本稿(2)」はつぎの「本稿(1)」の続編である。できれば,この(1)の住所(リンク先)における記述をさきに読んでもらうと好都合である。

 なお,この「本稿(2)」では,見出しの連番は「本稿(1)」のものを受けており,「※ー2」から始まっている。


 ※-2 全国戦没者追悼式での天皇の「お言葉」変更・追加     -天皇陛下,戦没者追悼式「お言葉」で              「深い反省」表明 安倍談話より踏みこむ-

 1) 天皇明仁の抵抗

 この「本稿(2)」は当然,前編の記述「本稿(1)」の論及を受けてとなるが,肝心となる問題点をより明確にとりあげて議論をおこないたい。

 要は,天皇明仁が2015年8月15日「全国戦没者追悼式」のあいさつ(お言葉)のなかに突如として新しい字句を追加した点は,実は,安倍晋三(当時は第2次政権になっていた)の最近政治に対して「天皇が懸命に試みた〈精一杯の政治的な抵抗精神〉の発露=かんばり」の一環を意味した。

 そのあたりの事情・経緯についてだが,関係のある報道を参照しながら,以下においてさらに関連する議論を続けたい。

 --70回目の終戦の日にあたる2015年8月15日,政府が東京・北の丸公園の日本武道館で開いた全国戦没者追悼式で,天皇陛下が「先の大戦に対する深い反省」を表明した。安倍談話では「反省」は「間接的言及」にとどまった。

 安倍晋三首相が70年談話で「反省」に間接的にしか言及しなかったのに対して,より踏みこんだ内容であった。式典には天皇皇后両陛下,安倍晋三首相,100歳から3歳までの遺族ら6820人が参列し,日中戦争と第2次世界大戦で犠牲になった約310万人を追悼した。

 ここで以上の記述に関連する画像があったので,いつくか挙げておく。

皇后美智子の和服は喪服であるが色あいに注目
この変化は安倍晋三の政治行動に即応・対抗したものであった
同上のつづき

 ★-1「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ」という文言がくわわる。

 正午の黙とう直後に天皇が読みあげる「お言葉」の文言は,毎年ほとんど同じ内容になっていた。

  a) たとえば戦後50年(1995年)と戦後60年(2005年)の文言を比べた場合,その違いは,「尊い命」「苦難に満ちた往時を思い,感慨は誠に尽きるところを知りません」(1995年)に対して,「かけがえのない命」「苦難に満ちた往時をしのぶとき,感慨は今なお尽きることがありません」(2005年)といったふうに,きわめて小さいものであった。

  b) 2005年と2014年との比較にいたっては,「終戦以来すでに何々年」という部分しか違いがない。

 ★-2 ところが,2015年の文言ではそれが一転した。

  c) 例年の文言では「国民のたゆみない努力」が「今日の我が国の平和と繁栄」をもたらしたとされていたが,今回は「戦争による荒廃からの復興,発展に向け払われた国民のたゆみない努力と,平和の存続を切望する国民の意識に支えられ」に変化しており,「国民」と「平和」を強調する内容になっていた。

  d) 例年の「ここに歴史を顧み,戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い」という表現では,「顧み」のあとに「先の大戦に対する深い反省とともに」という表現が挿入された。

 2) 安倍晋三の狭量・矮小・偏屈・幼稚

 さて,安倍晋三の70年談話では,過去の談話の反省が「揺るぎない」と説明され,2015年8月14日に政府が閣議決定した「70年談話」では,「反省」「お詫び」といったキーワードについて,

 「我が国は,先の大戦における行いについて,繰り返し,痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました」という過去の談話の立場を「今後も,揺るぎないものであります」と間接的に言及するにとどめていた。

 註記)以上,『J-CASTニュース』2015年8月15日 13時30分配信,http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150815-00000002-jct-soci も参照。

 安倍晋三の談話は,嫌々というか渋々,書きこみたく〔いいたく〕ない中身をとりあげていたゆえ,そこには,なんとか可能なかぎり,そのもちうる意味あいは薄味にしておきたい気分を充満させていた。かといって,その薄味化された部分じたいを,まったくとりあげないかたちすることは,できていなかった。

 そうでもしたら,天皇の「お言葉」とのあまりにも「隔絶した安倍晋三の反動的な極右の歴史観」が,より鮮明に比較対照され,安倍に対する批判が国内外から集中したはずである。今回(2015年)の安倍戦後70年談話については,とくに海外のジャーナリズムからの批判がなかったわけではない。

 

 ※-3 天皇も「ただの人」


 最後に豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本-〈憲法・安保体制〉にいたる道-』岩波書店,2015年7月の表紙に巻かれたカバーに印刷された前掲の文句(解説)を,もう一度思いだしてみたい。

豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』岩波書店,2015年
同上

 豊下はこのように表現していたけれども,要は,昭和天皇は,自家:皇室内での自分の立場(家長のメンツ)からする〈個人的な利害〉を,第1に置き,最優先する「敗戦後史を生き抜いてきた」に過ぎない。

 別の表現をすれば,「国民の利害よりも天皇家のそれを目先で追ってきた彼の人生」が明らかにされている「に過ぎなかった」

 天皇であった裕仁もただの1人の,ふつうの人間(オジサン)であった自然なありようは,かつては現人神であったかのようにあがめられた「過去の経歴」を有していたにせよ,厳然たる事実であった。

 しかし,敗戦という世紀の大事件をはさんで,この国の命運を握ってきた人としてこの昭和天皇をみなおすとすれば,ごくふつうに「実物大の人間像」をとらえる観点に立脚したうえで「彼の履歴(天皇としての仕事)」を,歴史的な観点から棚卸しつつ評価替えをほどこしておく余地が大いにあった。

 そうであったからには,20世紀における日本政治史のなかに刻みこまれるようにして記録されてきた,つまり,昭和天皇が関係して形成されてきた深刻・重大な歴史的な論点は,これからも怠ることなくなんどでも精査されるべき対象でありつづける。

 前段,全国戦没者追悼式において「日中戦争と第2次世界大戦で犠牲になった約310万人を追悼し〔てき〕た」という儀式での発言の内容は,天皇明仁の以前から天皇裕仁も同じに使ってきたものである。

 しかしながら,その「310万人の死」は天皇の名のもとに起きた・もたらされた〈死〉ではなかったか? この話題の場合しかも,その死の数=310万人はしかも,日本帝国臣民に関係する対象だけに限定されていた。

 全国戦没者追悼式でいくら追悼の〈お言葉〉を述べたところで,本ブログで以前紹介したある日本人女性は,つぎのような痛烈な「天皇批判」を繰りだしていた。もう一度聞いておきたい。

       ★ 日本女性による反撥,強烈な天皇批判 ★

 この天皇による『全国戦没者追悼式に出席し,「お言葉」』に対して,加納実紀代編『女性と天皇制』思想の科学社,1979年は,まだ昭和天皇の時期にあって述べた批判であったが,こう語っていた。

加納実紀代(かのう・みきよ,1940年-2019年)
日本の女性史研究家で女性史研究のパイオニアの1人

 天皇も,毎年8月15日の「全国戦没者追悼式」において,遺族を前に「戦陣に散り,戦果に倒れた数多くの人々とその遺族の上を思い,いまもなお,胸の痛むのを覚える」と安じていう……。

 ……この「全国戦没者追悼式」における「天皇のお言葉」を,昭和38年の第1回以来,書き抜いてみたことがあるが,同じことの繰り返しにウンザリすると同時に,ヘドをこらえるのに苦労した。

1979年発行


 「いまもなお……」とは,なんたる恩着せがましさか! なんたる厚顔さか! 天皇の命により夫や息子を死なせた女たちは,30年経とうと40年経とうと,生きているかぎりいつだって「胸の痛むのを覚え」ているのというのに……,

 ちなみに,第1回は「常に胸の痛むのを覚える」であったが,〔昭和〕39年の第2回からは「常に」が「いまもなお」にかわっている。戦後19年目ともなれば,死者への哀悼においても「もはや戦後ではない」ということか。

 註記)以上,加納実紀代編『女性と天皇制』思想の科学社,1979年,79頁。

 こうした女性の立場:見地からの「全国戦没者追悼式」における “天皇のお言葉” に対して投じられた批判は,天皇明仁の安倍晋三〔政権〕に対する批判が,あたかも「彼らのあいだにおける私闘」であるかのようにも思わせる。

 

※-4 敗戦後史としての昭和天皇巡幸

 1)昭和天皇巡幸の記憶(昭和21年~29年)

 昭和20年代史の,いわば日米国際関係史の枠組のなかで,それもとくにGHQ占領支配下の自国のなかで,いうなれば,自分なりに必死になって暗躍・闘争していたつもりであった昭和天皇の「表向きの姿」は,同じ時期に実行されていた「全国巡幸」という行事の次元においても,ありのままによく反映されていた。

 補注)21世紀風の修辞を使うとしたら,いわば,裕仁自身のよりよき「生き残り(サバイバル)戦略」,くわえては「皇室・皇族たち全員のよりよき再生および持続可能な生活空間の構築と確保」も,その敗戦後,間もないころに実施された「全国巡幸」という企画の実行にさいしては,期待されていたのである。

 関連してつぎに,この画像資料にした本の表紙カバーをみたい。出版社は河出書房新社で発行年は2013年5月である。この写真からなにが問題になるかついてなどは,昭和天皇の表情からして興味深いなにかがあるが,ここではあえて触れない。

右下の序文・竹田恒泰氏(旧皇族・竹田宮家)という表記は
誤導臭を紛々とさせている

 ここでは,この本の表紙カバー・帯に記入されていたその「序文・竹田恒泰氏(旧皇族・竹田宮家)」という表現は,99%誤導的な表記である事実を指摘しておく。

 竹田恒泰の父親恒和(JOC委員長を2020年6月末日に退任)は,1947年11月1日に生まれていた。その日付の19日前,1947年10月13日,敗戦後において皇室会議の議がもたれ,昭和天皇の直系と秩父・高松・三笠の直宮家を除く,傍系11宮家51名が皇籍を離脱することを決めていた。

 それゆえ,恒和の息子竹田恒泰(1975年10月24日生まれ)はもちろんのこと,父親の恒和も皇族であった時期は1日でもなかったにもかかわらず,この父子を皇族であった「時代があった」かのように誤解させるかのごとき表記を意図的に(?)するのは,故意に曖昧な,そしてかつ,相当にいいかげんな人物紹介をしておくことで,あえて誤解に誘導するために説明をしたと批判されて,当然である。

〔記事:本文に戻る→〕 要は,昭和20年代史における昭和天皇はヤヌス(Janus)であって,その後も人生を終えるまで,その二面相の実際演技を止めることはなかった。これは国民に対する裏切り行為であった。彼自身が演じてきた「表の顔と裏の顔との使い分け」には,あまりにも大きな懸隔があった。

 だから彼は,よくしられているような〈以下のごとき態度〉を採ることになっていた。

 天皇夫婦は米国訪問を終えた1975〔昭和50〕年10月31日午後4時から約30分,初めて公式記者会見をおこなっていた。その応答からはつぎの2点が有名になっていた。

 a)「記者の質問」 天皇陛下はホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが,このことは戦争に対しての責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございますか。また,陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか,おうかがいいたします。

  ⇒ 天皇の答え 「そういう言葉のアヤについては,私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから,そういう問題についてはお答えできかねます」

 b)「記者の質問」 陛下は (中略) 都合3度広島にお越しになり,広島市民に親しくお見舞いの言葉をかけておられましたが,原子爆弾投下の事実を陛下はどうお受け止めになりましたでしょうか。おうかがいしたいと思います。

  ⇒天皇の答え 「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが,こういう戦争中であることですから,どうも,広島市民に対しては気の毒であるが,やむをえないことと私は思っています」

1975年10月31日 昭和天皇夫婦「米国訪問帰国」後の記者会見

 この天皇の2つの発言は,当時各方面で論議の的となった。原爆投下容認とも受け止められる発言に対して,「これは人類を破滅に導くものであり,とうてい容認できない」とする談話を,日本原水協はただちに発表した。

 2)かつての「忠良なる臣民」たちの怒り

 ところで,昭和天皇が人びとの怒りを爆発させたのは,発言内容に対してというより,もっと深いところにあったように思われる。

 天皇が戦争責任についてみずから「言葉のアヤ」といい「文学方面」のことがらだといって,核心の質問を回避したとき,これを耳にした人びとが「いったいなにをいうのか!」と眼を剥いたことは,容易に想像できる。

 だが,そのこと以上に,天皇がその記者会見中に披露した応答ぶりから誰もが感じた全体的な印象は,ずいぶんと「ひどく冷淡な反応」であった。「彼のそっけない口つき」に対した日本の国民たちは,そのときの裕仁の態度に尋常ならぬ疑念を抱いた。

 だから,1975年10月31日の,昭和天皇夫婦が米国訪問から帰国したあとにもたられた記者会見に対しては,つぎのように語る識者もいた。

 すなわち,その記者会見時,テレビに映った天皇の姿は,「『被害者』とだけいって済まされてはたまらない」ものを表出させていた,ということなのである。

 たとえば,『春秋』昭和51年2・3月号で,伊藤成彦は以上の怒りに共感し,「人間天皇」なるもののフィクション(性)を鋭くつき,つぎのような痛論をくわえていた。

 「冷静なユーモリストとしては異例と思われるほどに激したその一文に深い共感を感じて,やっぱり人間の尊厳を陵辱されたような激しい衝撃を感じたんだな,と想像した」

 「三島由紀夫は天皇に対して,なぜ人間になったかと恨み,その人は,お前はそれでも人間か,と怒っているのだから,天皇として立つ瀬がなさそうだが,そこに『人間天皇』というものの本質的な背理が両側面からみごとに照らしだされていると思う」

 さらに結論は,こう書かれていた。

 「あの『人間宣言』は〈現人神〉という戦前のフィクションを〈人間天皇〉という戦後状況に合わせた,もうひとつのフィクションに切り替えたものであっ」た。

 「国民の側は,天皇=人間をあまりにあたりまえの現実と錯覚して,そのもうひとつのフィクションの意味を問うこともなく,今日にいたったのではないか」

 註記)以上の記述はつぎを参照して書いた。『怒り』「藤枝静男のこと・15 」,藤枝文学舎ニュース第61号,2007年7月,https://tetsuao.com/huroku/huroku6.htm 参照。

 2024年4月2日補注)前段に示した註記の文献から引用していなかった他段落からは,さらに併せて,こういう記述も引用・紹介しておく。

 この天皇の二つの発言は,当時各方面で論議の的となった。原爆投下容認とも受け止められる発言に対して,「これは人類を破滅に導くものであり,とうてい容認できない」とする談話を,日本原水協はただちに発表した。

 ところで藤枝静男が怒りを爆発させたのは,発言内容に対してというより,もっと深いところにあったように思われる。

 天皇が戦争責任について「言葉のアヤ」といい「文学方面」といったとき,「なにを!」と藤枝静男が眼を剥いたことは想像できる。

 が,そのこと以上に,天皇の会見中の立ち居振るまいに,その非人間的であることに,藤枝の本当の怒りは向けられていたのではないか。それは高村光太郎の「ボロボロの駝鳥」をもち出していることからも想像できる。

『怒り』「藤枝静男のこと・15 」,藤枝文学舎ニュース第61号,
2007年7月から追加し,引用した段落

 
 前段に参照した記述内容じたいは,在日米軍基地の歴史やその問題には触れていない。けれども,米軍基地の問題が下部構造に相当すると措定できれば,以上の語りの対象になっていたのは,上部構造的な問題次元に位置していたものである。

 敗戦後,昭和「天皇」の「人間としての象徴性」をあまりにも「あたりまえの現実と錯覚し」てきた「かつての帝国臣民」,すなわち「その敗戦後の日本国民」のなかには,敗戦を前後してこの天皇が演じてきた舞台を,どこまでもお人好しな関心をもって,観覧してきた者たちも大勢いた。

日本人の戦没者数はフィリピンが一番多い
このフィリピンは戦後になって日本にどのような態度を示したか?

 忌憚なく指摘するとしたら,敗戦を境にしてだが,天皇裕仁からはあらためてその「良いつらの皮」を押しつけられていたのが,「帝国市民(平民)から国民(市民)に変わった」「われわれ側庶民の立場であった」ことになる。

 というのも,生存中の彼(昭和天皇)に,国民たちはさんざんにコケにされてきたのだから,その思いは人なりにそれぞれひとしおであった。しかも「一将功成り万骨枯る」という「あの戦争の結末」にすらなっていなかったのだから,

 前段に引用したなかでは,天皇が自分にかかわる戦争責任について「言葉のアヤ」といい「文学方面」といったとき,これに対して「なにを!」と「藤枝静男が眼を剥いたこと」を想像せよ(!)と主張した意見を紹介してみたが,

 あの戦争の場合,天皇裕仁はその「一将に成りえないまま」に,「万骨を枯れさせただけ」であっただけであり,なおかつ,自分1人だけはマッカーサーに利用され,かつまたその反対にも逆用するかたちで,敗戦後における政治過程を生き抜いてきた。

 ただし,その息子の立場は現実的に観たところ,かなり異なっていた。しかし,オヤジの立場から派生した彼の立場であった事実もたしかにうかがえた。その意味では,明治以来の「皇統は連綿」する内実があった。とはいえこの父子間に実在した異同について,けっしてないがしろにしてはおけない「歴史問題」が残されている。

 これまでの時代と状況との変異を受けて,2015年8月15日に開催された「全国戦没者追悼式」における天皇明仁のお言葉が準備されていた。この準備をせかしたのが,安倍晋三という日本国首相であった。

 日本国憲法が占領軍からの「押しつけ憲法であった意味あい」がもっとも端的かつ正直に刻印されていたのが,まさしく昭和天皇が昭和20年代史に記録してきた政治的行動であった。

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【参考文献】 -アマゾン通販を借りた文献紹介-


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