斎藤貴男による「平成」時期の批評-日本兵シベリア抑留問題と天皇・天皇制-
※-1 斎藤貴男の立ち位置
斎藤貴男『平成とは何だったのか-「アメリカの属州」化の完遂』秀和システム,2019年4月への若干感想を述べるかたちで,この記述をおこなってみたい。
付記)冒頭の画像は,橋本 明『知られざる天皇明仁』講談社,2016年の表紙カバーから。
斎藤同書の「平成」とは,いうまでもなく「天皇明仁の時代」を表わす元号である。実は斎藤貴男は,明仁の父:裕仁の時代に,それも敗戦後になってからだが,父が日本国に抑圧されてきた体験をもつ「その息子・貴男」の立場に置かれていた。
そのせいで,貴男自身の生活思想そのものが必然的に,ごくふつうの反体制派にならざるをえなかった事情も生まれていた。むげなるかなという感想を抱かせる。
以下に,アマゾンの通販を借りて,本日のこの記述がとりあげる斎藤貴男『平成とは何だったのか-「アメリカの属州」化の完成』2019年4月,および斎藤が自身の生い立ちなどを回想した本,『失われたもの』みすず書房,2016年11月を紹介しておく。
後著,斎藤貴男『失われたもの』2016年は,はっきりと旧安倍晋三政権のことを断罪的に,こう批判していた。
以上のごとき斎藤貴男の見解は,2016年11月時点におけるものであったが,最近(その約7年後の2023年4月段階)になっては,「プーチンのロシア」が2022年2月24日に開始したウクライナ侵略戦争が,とくに北半球世界各国にもたらした悪影響のもと,この日本国はますますアメリカへのその隷属性を深化かつ拡大させつつある。
斎藤貴男『平成とは何だったのか-「アメリカの属州」化の完成』」2019年は,帯に書いてあった宣伝用の文句であったが,平成天皇明仁に向かい「天皇は歯止めを買って出てくれたのか そしてあるべき “小日本主義” への可能性」と書いていた。
天皇明仁が天皇に在位してきた時期,そして皇太子の時期も含めた話題になるが,前段のごとき斎藤貴男の期待は始めから,ないものねだりであった。
天皇明仁が,嫁になってくれた正田美智子と手をたずさえて,オヤジが大元帥であった時代,まさに統帥していた「大日本帝国海軍」が敗戦するまで蓄積してきた「罪と罰」を,少しでも削りおとすための「鎮魂の旅」を試みてきたのである。
しかし,その旅程を組んだくらいで,かつて大日本帝国海軍を統帥する大元帥が指揮しきたはずの行状の結果,そのすべてが清算・浄化できるわけはなかった。あくまで明仁夫婦が自分たちで納得しうる範囲内で最大限の努力を計有してきたのが,その鎮魂の旅であった。
つぎの画像資料を挙げてから,これに関係する記述を,以下にしばらくおこないたい。
以上のようにサイパン島を訪問した天皇明仁夫婦は,前後して自分の公務を創る人生を過ごしてきた。
一連するその「祈りの旅」をまとめた『朝日新聞』の当該記事は,つぎのように彼らの旅をまとめていた。なお,説明の本文は冒頭部分だけ引用するに留めた。
註記)「祈りの旅」『朝日新聞』https://www.asahi.com/special/heisei-inori/
以上のような,天皇明仁夫婦による「慰霊の旅」とは,必らずしもいいきれなかった「祈りの旅程」は,その皇室神道的な意味あいを回避できなかった点が問題となって惹起するほかない。しかし,ここではその議論はせず,ほかの問題点を指摘しておく。
以上の「祈りの旅」をもって天皇明仁夫婦がたどってきた外国の国々やと日本の各地のうち,とりわけ外国への訪問地としては,旧大日本帝国が植民地として支配・統治していた台湾と韓国(北朝鮮も含めておく)が欠けていた。
そのように欠けていたという点では,敗戦後,旧ソ連・現ロシアの奥深い各地に虜囚として閉じこめられていた60万余名の旧日本軍兵士たちがおり,そのうち10名に1名は命を落としていた,それも食料不足と厳寒の気候のために死んだ彼らのために,天皇明仁夫婦がなにかを考慮したことがあるのかという気持ちまでは,というてい分かりえない。
まさか旧大日本帝国が宗主国であって,その植民地経営の対象になっていた台湾や韓国,くわえてシベリアなどは「慰霊の旅」「祈りの旅」から除外されたというわけではあるまい。だが,それにしてもまだ,よく得心がいかない疑問が残るというべき印象が,どうしても回避できない。
以上の記述は,戦前からの昭和問題史をめぐり,わずかだけだが問題提起するつもりで関説してみたに過ぎない。
斎藤貴男の話題に戻ることにする。旧満州国で関東軍の兵士であった斎藤の父は,敗戦を機に「シベリア抑留組」の1人になっていた。しかも,最長の期間となる11年もソ連に抑留されていた。
その息子:斎藤貴男が敗戦後において「居ること」を余儀なくされた地平から観た,「平成天皇夫婦のいわば日本の政治社会の頂点:稜線」を歩きつつなされてきた「祈りの旅」は,いったい,いかなるものとして映っていたか。
斎藤貴男自身にとってみれば多分,並みたいていでない印象を抱くほかない〈なにか〉が,平成天皇夫婦のその旅に関しては,いつまでも「尾を引きずる」ように残りつづけてきた。そのように推察しておくべきなんらかの問題性が潜在していた。
※-2 本論-斎藤貴男の議論と方向性-
1) 斎藤貴男『平成とは何だったのか-「アメリカの属州」化の完遂』 秀和システム,2019年4月
本ブログ筆者は,この本を,先日読んでみた(これは2019年4月中の話)。斎藤貴男は非常に多くの著作を公表している。そのすべてを読了してきたわけではないが,今回の最新作は広告をみてすぐに購入し,興味をもって読んだ。
分かりやすくあえて簡潔に採点すると「90点」はつけられる。100満点に満たない残りの10点分は,天皇・天皇制に関してもうひとつ理解しにくい論旨が展開されている様子に接して,あえて残しておいた点数の分となった。
書店(出版元)が本書に関して宣伝する文句は,つぎのようであった。なお,本書の文章は口語体である。
たしかに平成と呼んだ時代があった。とくに明治以降,天皇制「一世一元」になる時期区分をしてきた日本は,21世紀になってからは落ち目の一途になっていた。ところが,あの「世襲3代目の政治家」の安倍晋三君が,その総仕上げ作業をしてきた。
1年後れで2021年に開催された “2020東京オリンピック” の「あとの祭り」がとても心配だと感じていた。この国はすでに低調となっていた国力の勢いを,その後もさらに落ちこませるのではないかと,憂慮させるほかない風景を提供したからである
補注)「五輪経費,全貌不明 総額 1.4兆円 組織委最終報告」『毎日新聞』2022年6月22日朝刊という報道があった。この顛末は識者が以前から予想して批判していたデタラメに関する問題であったが,その指摘どおり,政府やJOCは,不明朗な会計・経理問題を残したオリンピックを開催しておきながら,そのまま闇のなかに溶かしこむという不埒も甚だしい無責任を記録した。
とりわけできれば2021年夏のその五輪開催の時期まで首相の地位に留まりたかった,しかしきわめつけの「売国・滅国・亡国かつ国恥・国難の元首相であった安倍晋三」の立場やその特徴は,そのやること・なすことのひとつひとつを通して,みずからがすすんで実証する経緯となっていた。
とりわけ,彼が「〈本物の国難〉である総理大臣」でしかありえない「活動状況(「P→D→C→A」)の悪循環」の進展ぶりは,時の経過とともにより明白になるばかりであった。それでも「自分1強」的な政権にすっかり陶酔できていた「彼のあの顔」には,まさに「国民たちにとっての〈国難の相〉」が色濃く浮かんでいた。
いまの日本,内政面をみると,この国を滅亡させかねない「現状のごとき対米従属国家体制」が,さらに肥大的に固定化させられている。外交面をみると,日本の国際的な立場が強められるどころか,世界中のなかでもとくに先進諸国の指導者たちに比べて格段に劣る「首相たちの外交手腕」をもってしては,この国の立場を高めることは,これからもとうてい無理難題である。
安倍晋三第2次政権⇒菅 義偉政権⇒岸田文雄政権と来た日本政治の現状は,いってみれば破滅への道をまっしぐらとしか形容のしようがない。内政の私物(私物)化になる縁故主義の跋扈跳梁。
「いまだけ・カネだけ・自分だけ」の我利・私欲の政治屋しかいない日本の為政。このままだと,21世紀中においてこの国が「現状のごとき惨状・窮状」を克服して,再び国勢を浮上させうるのか依然,まったくおぼつかないでいる。
2022年7月8日,統一教会の「宗教2世」山上徹也が,手製散弾銃をもって安倍晋三元首相を狙撃,死亡させた。2023年4月15日,日本の選挙制度に疑問を抱いた木村隆二が,手製爆弾を,岸田文雄首相に投擲した。
岸田文雄は無事であり,負傷することもなく幸いであった。そういえば,安倍晋三も岸田文雄も「世襲3代目の政治屋」で,世の中の「しもじもの皆さん」(これは麻生太郎という氏名のやはり「世襲3代目の政治屋」の発言)の,本当の生活実態・意識など,どうやら皆目理解も認識もできない面々であった。
以下から,ようやく言及することになる斎藤貴男「自身」は,以上のように捕捉してみた諸問題を,以前から具体的に描写し,そのつど批判する議論を旺盛におこない,しかも正論を堂々と展開してきた人物である。
※-3 斎藤貴男のジャーナリストとしての原点
斎藤貴男はこの本,『平成とは何だったのか-「アメリカの属州」化の完遂』のなかで,こういう点(自家の歴史に関した記録)に触れていた。
ところが,息子・斎藤貴男の立場においても,たとえば就職のときだったが,えらく不利益(実質的な差別)を受けた。
大学卒業時,内定していた会社から土壇場になってからドタキャンで断わられた。理由は分からなかったが,のちに週刊誌記者になってネタ元の公安関係の人に聞いたら「当たりまえ」だよと笑われたという。「シベリア帰りのせがれなんか入れてくれる大企業なんか,あるわけないじゃないか」とのことであった(87頁)。
昔は,両親が揃って(生きて)いないと,たとえば大手の銀行では採用しないという慣行もあった。斎藤貴男の場合,自身が受けてきた日本社会からの理不尽,その差別的な待遇にひどく憤っていた。彼の人生におけるそうした原体験は,自分の生き方に対して「特定のたしかな価値観:枠組」を提供した。そしてとくに,言論人としての活動を強力に推進させる原動力になっていた。
さて,旧大日本帝国の兵士たちの60万人(くわえては,中国人兵士も約1万6千名,朝鮮人兵士が約1万2百名含まれていたが)もが,敗戦後,ソ連によってシベリアに抑留されていた。だが,斎藤貴男の父みたく11年も抑留された人は少数派であり,その最長の部類に属していた。しかも,抑留された兵士たち全体のうち「約10人に1人が死亡」していた。
ところが,日本の公安当局側は斎藤貴男の父みたいな旧軍の兵士たちを,とくにソ連に洗脳され〔てしまった〕危険分子とみなし,無条件にかつ無期的に,つまり死ぬまでその疑いをかけつづけた。あげくに日本社会は,その息子までその疑いを拡大解釈して適応する〈暗黙の了解〉を作りあげ,彼に対してまで不利益なあつかいを実行してきた。
※-4 斎藤貴男のジャーナリストして迫力ある活動ぶり
斎藤貴男は,前段で触れたごとき「その種の不当でしかない」「人間に対する差別」を,まさしく理不尽にも受けてきた。彼の精神内に発生せざるをえなかった「怨念めいた要因」が,その後における人生に強く反映されてきたのは,必然的ななりゆきであり,不可避の事情である。
斎藤の,世の中の不正義・矛盾に対する分析・批判は非常に鋭く,かつ適切に整理し,解説してくれる。ここで,その実例のひとつを挙げる。最近に増補版が出版された『カルト資本主義 増補版』ちくま文庫,2019年3月がある。この本に対するある感想文は,こうつづっていた。
稲盛和夫が「ヒトラーを賞賛」していた点に,斎藤貴男『カルト資本主義』は言及していた(文藝春秋,1997年。引用は「文庫版」2000年,128頁以下)。
こうした日本の経営者側における重要な諸問題を指摘し,批評できる「感性の具備」と「胆力の発揚」は,斎藤ならではの問題意識によって発掘されたうえで,かつ文字となって公表されていた。
しかし,この斎藤貴男の論調は,今回の著書『平成とは何だったのか-「アメリカの属州」化の完遂』になると,しかも明仁天皇に言及する段になると少し変調していた。
安倍晋三政権期の「乱暴狼藉:専制的強権政治」について斎藤は,「民主主義が機能していないのは,あるいは他にも山積する問題の数々は,天皇制が元凶でしょうか」と問いかけ,「私にはそうは思えない」と自答しているのであった(282頁)。
それよりも「現代日本の元兇の多くはアメリカであり,彼らのスタンダードとしての新自由主義であり,彼らの命令を丸呑みにし,私たちを奴隷のように扱ってやまない政治体制であり,何よりもそんなものどもに抵抗もせず,唯々諾々と服従することにためらいがない私たち大衆自身です。戦前戦中だったらいざ知らず,天皇制を打倒したからといって,どうなるものでもありはしないと,私は確信しているのです」(282-283頁)と述べていた。
本ブログ筆者がさきに,斎藤貴男『平成とは何だったのか―「アメリカの属州」化の完遂』に対して,百点満点は与えられずマイナス10点として90点に採点した理由は,実はそこにあった。
斎藤貴男は白井 聡の説を参照し,戦後日本における「国体のありよう:3段階」を
1. 「対米従属の形成期」
2. 「対米従属の安定期」
3. 「対米従属の自己目的化」
というふうに段階づける見解をもちだし,このうち「現代は 3. もきわまった状態であり,天皇制や元号制度を廃止したとしても,私たちが直面している諸問題が解決に向かうことはありません」(283頁)と結論していた。
しかし,天皇・天皇制がたどってきた「敗戦後史的な政治過程」を回顧するとき,以上の3段階とは非常に密接した政治(内政と外交)の問題が「実際に介在していたこと」を,はじめから外した議論をするわけにはいかない。
それこそ “裏表の関連” を有していた天皇制度(狭くは「天皇家の家督者が記録してきた対応姿勢」)が,まさしく現在までにおける日本(「対米従属の自己目的化」の完成)を創出するのに,深く関係していた。仮にでも,この事実(史実)を軽視してしまう観察方法だとしたら,なお重要な論点を取りこぼした立場にあったことになる。
斎藤貴男自身,「私は天皇にくわしくないので,見落としている問題はいくらでもあるとは思います」と正直に語っていたが,このあたりに重要な論点が残っていないとはかぎらず,要注意であった。
ところで,父親がシベリア抑留者となってしまっていた人物としては,たとえば小熊英二(慶應義塾大学総合政策学部教授)がいる。小熊英二も非常に優秀で生産性の高い執筆家である。
実は小熊も,シベリア抑留者となった父のことを題材に活用した著作をもっている(『生きて帰ってきた男-ある日本兵の戦争と戦後-』岩波書店,2015年)。
ただし,父の論じ方はより対象性(「客体」性)を高めた次元でとりあげていた。英二の父:謙二は,同じくシベリアに抑留されたある朝鮮人兵士の「戦後-対日本政府との補償交渉」に協力していた。
小熊英二と斎藤貴男は学究(教授)とジャーナリスト(言論人)の相違はあるとはいえ,彼らの物書きとしての原点には「父親の人生=過酷だった戦争体験」が不可避の背景・事情となって控えており,共通する前提条件を提供していた。
ただし,小熊英二の分析視座は東アジア全体に広がっているのに対して,斎藤貴男の言論領域は日本国内中心であるがためか,この点から2人の発言・発想には,一定の顕著な差異が生まれていた。
※-5 要約的にだが断言しておくこと
斎藤貴男は天皇・天皇制に対する批判の見地を,「天皇明仁」に対しては急に遠慮(萎縮?)したかのような態度に変えていた。
平成の天皇はたしかに,父の立場を反転的にであっても忠実に継承・発展させてきた。前段に出ていたこの国の「対米従属の形成期」→「対米従属の安定期」→「対米従属の自己目的化」という《発展過程》の展開に対してならば,平成天皇も無条件に協力し,積極的に貢献してきた。
敗戦後史において昭和天皇が記録してきた「象徴天皇の立場を意図的に逸脱してきた行為」は,最近となっては専門研究者たちが詳細に分析し,批判もくわえている。だが,斎藤貴男の立場は,対米従属国家体制下に置かれてきた日本国の問題を,専門研究者たちよりも鋭く判りやすく解明してくれた。
だがまた,斎藤貴男は矢部宏治(の公表してきた諸著作)とともに,天皇制度の分析論としては結局,『菊のタブー』を尊重する立場から脱却し(え)ない方途を,選択していた。
もっとも,矢部宏治の場合はその「菊花の栽培」にまでみずからとり組む姿勢も明示していた。斎藤のほうではさすがに,矢部宏治のような姿勢はみせていなかった。そこまでにはとうてい至らない極地に陣取っていたからである。
たとえば『朝日新聞』2019年4月23日朝刊2面に掲載されていた連続ものの解説記事「〈平成と天皇〉第9部 令和への課題 下,意向反映 膨れた『公的行為』」という内容(以下の画像資料)は,その「対米従属国家体制である日本国」における,それも例の論法によれば,まさしく「アメリカが日本に押しつけた憲法」だとみなされ非難も受けている「日本国憲法」のなかでの「象徴天皇」の地位にまつわる,現実的な話題であった。
この憲法のもとで2代目の天皇に即位していた明仁天皇が関連してくる問題にかかわって,斎藤貴男は,日本の「民主主義が機能」不全であるだけでなく,「他にも山積する問題の数々は,天皇制が元凶で」あるとは,「私にはそうは思えない」と結論づけていた。
前段の発言に関しては,あらためて批判される余地が残っていた。白井久也『検証リベリア抑留』平凡社,2010年が次段で引用するように表現していた「戦争責任問題」としての「シベリア抑留」に関していうとすれば,この問題について,天皇明仁がなにか具体的に「国民に寄り添う」といった態度を示したり,関連する発言を発したことがあったか,という問うてみなければならない。
a) 参考にまで付記しておくと,1993年10月,ロシアのエリツィン大統領は訪日したさい,シベリア抑留の事実に関して「非人間的な行為」として謝罪の意を表わしていた。
b) 敗戦後,ソ連軍に連行された元日本兵らが労働力として酷使された「シベリア抑留」の事実は,「『国体護持(天皇制を守ること)』のために日本政府がソ連と取り引きし,「私たち:日本兵らを生けにえにした」(重ねていうが,約10名に1名は命を落としていた)ととらえられている。
昭和天皇から平成天皇の系譜はその「国体護持」のために維持されえていた。そしてさらに,2019年5月1日からは,明仁の息子である徳仁が日本の天皇に即位していた。その日付は,父・裕仁の誕生日4月29日の2日後であった。
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