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「協力者としての朝鮮人」(1945/8~1964)

このリストは戦後日本演劇作品のなかから筆者がサンプリングした「日本人作家が執筆した戯曲で朝鮮人あるいは韓国人の登場する作品」を、舞台公演の順序で紹介するものである。敗戦から東京オリンピックを開催した1964年までの時期は、朝鮮人を日本人の「協力者」として描く傾向が見られた。

第1期サンプリング作品リスト

サンプリング作品の朝鮮人表象における3つの変化

1945年の敗戦から2005年に至る約60年間に執筆あるいは上演されたサンプリング作品に描かれた朝鮮人・韓国人のイメージは、大きく「協力者としての朝鮮人」(1945~1964)と「対立者としての朝鮮人」(1965~1989)、そして「犠牲者としての朝鮮人」(1990~2005)の3つに分けることがきできる。作品リストもこの変化に従って3つに分けて紹介する。

第1期サンプリング作品の特徴

本稿でいう「第1期」とは日本が連合国に敗戦した1945年8月から東京オリンピックを開催した1964年末までの期間のことである。本稿が敗戦から約20年間を「第1期」とする理由は、この期間に執筆あるいは上演された作品は朝鮮人を日本人の「協力者」として描く傾向が見られたからである。

第1期は労働運動に対する関心喚起を目的にした「社会変革」作品と、軍部批判あるいは再軍備を批判する「反戦平和」作品が主流を形成した。前述した人物形象化における特徴は、特に労働運動に対する関心喚起を目的にした作品で顕著だった。

ご注意
●まだ分析を終えていない作品もあることから、このリストはサンプリング作品の簡略な紹介にとどめた。
●リストは『作品名』「公演主体」の順で表記した。上演記録のない作品は公演主体の代わりに「作者名」を表記し、雑誌などに発表された日時を基準にリストに加えた。
●金達寿(1919~97)や立原正秋(金殷奎:1927~80)など在日作家の執筆した戯曲も参考資料としてサンプリングしたが、これらの戯曲は「日本人劇作家が執筆した作品」を紹介するという本稿の主題からはずれるのでリストには掲載しない。
●戯曲を入手できなかった作品は「戯曲未入手」と表記した。もし当該の戯曲の存在をご存じであればぜひご連絡いただきたい。

『興安櫻』国鉄上野演劇班(戯曲未入手)
国鉄労働組合の機関紙『驀進』(1947/12/23号)といくつかの劇評によると1947年12月21日、国鉄職場劇団のひとつである「国鉄上野演劇班」は鈴木正三(生没年不詳)の演出で国鉄職員の田中小太郎(1913~没年不明)が執筆した『興安櫻(3幕)』を下谷文化協会の主催する「第1回台東区演劇コンクール」(池之端文化会館)で上演した。この作品はコンクールの審査員を務めた金子洋文(1893~1985、プロレタリア文学の小説家)と高橋邦太郎(1898~1984、翻訳家、比較文学・日仏文化交流研究者)の二人から「職場演劇の最高を行くもの、最も民主主義に合致せる作品」と絶賛された(前掲の機関紙)。好評を得た『興安櫻』は翌1948年4月に東京の上野で開催された「国鉄演劇祭」と、同年7月に東京の都民文化会館を会場にして開催された「第2回東京自立演劇祭」で再演された。『興安櫻』は戯曲未入手だが、この作品に関する当時の劇評などから〈堀田〉という名の朝鮮人が主人公であったことがわかる。また、東京の浅草に本拠を置く劇団「新風俗」がこの作品をレパートリーに選定したことで改作が行われ、1949年夏に『アジヤの悲劇』と改題されて初演された。

『春婦伝』劇団「新風俗」(戯曲未入手)
読売新聞(1949/2/17)に掲載された「広告:劇団新風俗『春婦伝』日劇小劇場」によると1949年3月、東京・浅草に本拠を置く軽演劇団「新風俗」は田村泰次郎(1911~83)の小説『春婦伝』(1947)を劇化した演劇作品『春婦伝』を上演した。この作品が原作小説を忠実に劇化した演劇作品であるならば朝鮮人軍慰安婦が描かれたと考えられる(しかし戯曲を入手できなかったので未確認)。

『アジヤの悲劇』劇団「新風俗」
1949年夏、軽演劇団「新風俗」は田中小太郎の『興安櫻』(1947)を改作した『アジヤの悲劇(全3幕)』を上演した。この作品は「満州国」の興安に設置されたペスト防疫所を舞台にして、戦争の狂気に翻弄される人々の姿を描いてたことから当時大きく好評を博した。『アジヤの悲劇』は朝鮮人防疫官の〈堀田〉を主人公にして、小学校の教員でありながら同時に独立運動を行っている〈松下(金曹達)〉と、平壌出身の軍慰安婦〈あけみ(林英蓮)〉が登場した。作品意図は日本軍部に対する批判を通じて反戦を主張するものであったが「アジヤの悲劇」という題名が示すように、軍部以外の日本人もまた朝鮮人や「満人」と同様に戦争の狂気に翻弄される「被害者」として描かれた。このことから中国や朝鮮に対する侵略と植民地支配という問題は、日本人演劇観衆の眼には不可視のままに置かれた。

『つばくろ』新協劇団
1950年3月、戦前から活躍した演出家・美術家の村山知義(1901~77)の率いる「新協劇団」は、日本共産党の党員作家である諸井條次(1911~94)の執筆した『つばくろ(全6幕)』を上演した。主人公の〈ノグチ〉と〈タワラダ〉の二人はもと国鉄職員だが、日本各地に労働運動の火床を作るために旅を続けている。やがて二人は中国地方の村へたどり着いたが、その村では代々の地主や村長などの支配層と、彼らと結託した警察権力によってさまざまな搾取が行われていた。そこで〈ノグチ〉と〈タワラダ〉は搾取に対抗して立ち上がる村人を助けようとする。『つばくろ』には〈ノグチ〉と〈タワラダ〉の目的をいち早く理解して、積極的に協力する多数の朝鮮人たちが描かれた。

『煤煙の下から』建設座
1954年5月、川崎市所在の地域劇団「建設座」は黒沢参吉(1917~82)の作・演出で『煤煙の下から(1幕)』を上演した。この作品は日本人工場労働者たちが生活を守るために困難な組合運動を続ける姿を描いた作品で、日本人労働者たちを励ます〈金おばさん〉と息子の〈金春二〉の朝鮮人親子が登場した。〈金おばさん〉は困窮している日本人労働者に小額の金を融通したりする親切な人物として描かれているが、しかし金親子がどのような理由で日本に暮らすことになったのか、あるいはどんな仕事で生活の糧を得ているのかは全く描かれなかった。

『常磐炭田』劇団民藝
1954年6月、劇団「民藝」は松尾哲司(1908~86)の演出で伊藤貞助(1901~46)の『常磐炭田(4幕8場)』を上演した。この作品もまた労働運動に対する関心喚起を目的にした作品で、作者の伊藤は戦前からプロレタリア作家として活動した人物だった。『常磐炭田』は敗戦直後に常磐炭鉱で起きた朝鮮人鉱夫による争議が背景となった作品で、執筆は1945年12月にはじまり翌1946年1月に脱稿した。筆者が収集した「日本人劇作家の書いた朝鮮人の登場する作品」のなかでは最初期の戯曲である。『常磐炭田』で朝鮮人が登場するのは幕開きの一場面のみだが、若い朝鮮人炭鉱労働者〈朴世哲〉が「ボク等、これから朝鮮に帰って、大いに戦います。[…] 仲間達みんなてを握って戦って、日本も朝鮮も支那も立派な国になって、兄弟のように仲良くなる…(戯曲p53)」と日本人労働者にむかって語り、意気揚々として故国に向かって旅立つ姿が描かれた。

『制服』劇団青俳
1955年3月、劇団「青俳(せいはい)」は倉橋健(1919:朝鮮~2000)の演出で安部公房(1924~93)の執筆した戯曲『制服(3幕7景)』を上演した。この作品は戦争末期の厳冬の北部朝鮮のある港町を舞台にした物語で、日警による拷問で死んだ〈朝鮮青年の幽霊〉が登場する。主人公の日本人〈チンサア(巡査)〉はじつは気の小さい人物だが、警官の制服を着たとたんに日本人と朝鮮人を問わず金品・酒食を要求する傲慢な人物に変貌する。じつは〈チンサア〉は酔っ払って道端で凍死したのだが、〈チンサア〉殺害の嫌疑を受けたある朝鮮青年が警察に拘引されて拷問死する。警察はつじつまを合わせるために形ばかりの捜査を行うが、それを幽霊になった〈チンサア〉と〈朝鮮青年〉が眺めている…というストーリーである。〈チンサア〉の幽霊が制服を脱ごうとしても脱げないという場面は、1950年秋の「逆コース」などで顕著になった日本の再軍備を批判するものであろう。この作品は劇団「青俳」が1960年11月に再演したが、最近になって2011年に劇団「俳優座」が眞鍋卓嗣(1975~)の演出で再演した。

『ヤシと女』劇団文学座
1956年6月、劇団「文学座」は創団20周年記念として、女流演出家の長岡輝子(1908~2010)の演出で飯沢匡(1909~1994)の『ヤシと女(5幕8場)』を上演した。貴族出身の海軍将校〈香椎宮為久〉一行の乗っていた船が敵の攻撃で沈没して南海の孤島にたどり着き、3人の男性軍人と6人の女性報道班員そして5人の軍慰安婦たちが戦争の終わったことも知らずに数年間にわたって奇妙に民主的な社会を営むという、上演時間4時間の大作喜劇である。この作品には主人公の〈為久〉と親密な関係になる海女出身の朝鮮人軍慰安婦〈金田あい(金愛玉)〉が登場した。孤島での生活に嫌気のさした〈為久〉はある夜、誰にも告げずに〈愛玉〉と二人で小舟に乗って島を脱出する。〈愛玉〉は空腹を訴える為久のために何か食べるものを探すために海に潜ったが、しかしそのまま浮かんでこなかった…というエピソードが芝居の終盤に〈為久〉によって語られる。『ヤシと女』の作品意図は戦後民主主義の後退を批判することにあると考えられるが、特にこのエピソードは「愛玉(植民地朝鮮)」を犠牲にして「爲久(宗主国日本)」が生きながらえたことを暗示するものではないだろうか。

『禿山の夜』劇団「生活舞台」
1957年4月、劇団「生活舞台」が上演した大橋喜一(1917~2012)の『禿山の夜(2幕)』は日本軍の非合理性を描いて戦争批判を試みた作品である。満州に配備された日本軍のある小部隊は既に日本がポツダム宣言を受け入れて降伏したにもかかわらず、一人の指揮官の狂気によって玉砕(全滅)させられる。この作品には軍人とともに自決を強要される無名の〈朝鮮人軍慰安婦〉が登場した。『禿山の夜』は「生活舞台」のほかに劇団「関西芸術座」(1959)と劇団「泉座」(1962)、そして劇団「東演」(1974)が上演した。大橋喜一は何度か『禿山の夜』を改作したが、東演での上演時に使用した戯曲を最終稿としている。初演台本と東演でしようした最終稿では〈朝鮮人軍慰安婦〉の台詞に微妙な違いがある。

『黒竜江』劇団青俳(戯曲未入手)
『日本現代演劇史 昭和戦後篇1』(大笹吉雄、2001、p694)に再録された朝日新聞(1958/9/22)の記事によると1958年9月、劇団青俳は職場演劇出身の劇作家である鈴木政男の執筆した『黒竜江(2幕)』を倉橋健の演出で上演した。この作品には朝鮮人日本兵〈長尾一等兵〉が登場する。鴨川都美(2015)によると、鈴木政男は「僕なんか七年間も(戦争に)行っている。しかも好きで行ったわけじゃない。いやだいやだというのをむりにひっぱられた。行かないと憲兵に殺されてしまうから結局泣き寝入りで行った」と語ったという。このことから『黒竜江』では朝鮮人日本兵がどのように形象化されているのか興味深い。

『京浜の虹』東京芸術座
1959年9月、劇団「東京芸術座」は劇団主宰者である村山知義の演出で神谷量平(1915~2014)の執筆した『京浜の虹(3幕)』を上演した。この作品は東京近郊の工業地帯に暮らす底辺労働者の生活を描いた作品で、「一人の善意に満ちた詩人労働者を中心にニコヨン労働者の一団が、朝鮮動乱で儲けるボスに抗し、自分たちの力を平和への仕事に結集しようとする」(「新劇」76号「新劇評/『反応工程』と『京浜の虹』/日下令光」)というストーリーである。この作品には〈金山松夫(金文植)〉と〈朴さん〉という二人の朝鮮人が登場した。金文植は日雇い労働者を安く使役する日本人手配師〈大隈〉の手下として登場し、一方の〈朴さん〉は総連の活動家で、日本人日雇い労働者の団結と自立を助ける役柄として描かれた。『京浜の虹』は東京芸術座の上演に先立って川崎市所在の劇団「建設座」が同年5月に上演したが、建設座の上演台本に朝鮮人は登場しない。建設座での上演後の1958年8月に在日朝鮮人による「帰国運動」が始まったことから、東京芸術劇場での上演に際して書き加えられたのであろう。

『がめつい奴』芸術座
1959年10月、劇作家の菊田一夫(1908~73)が「芸術座」に書き下ろした『がめつい奴(4幕)』は大阪の釜ヶ崎に暮らす貧しい庶民の生活を描いた作品である。1959年10月に公演が始まり、戦後初のロングラン作品となった。この作品には二人の朝鮮女性〈さだ〉と〈のぶ〉が酌婦として登場した。日本人登場人物との会話は行われるが、特に問題提起は行われていない。

『炉あかり』川崎協同劇団
1960年6月、川崎市所在の地域劇団「川崎協同劇団」は黒沢参吉の『炉あかり(3幕)』を上演した。この作品は貧しい日本人工場労働者の家族の日々の生活と、朝鮮への帰国を迷う朝鮮人少女の姿を並行して描いた作品である。失業対策事業でその日の生活を支える〈堀井太一〉は企業の「スト破り」に利用されるお人よしだが、太一の娘の〈澄子〉は組合運動のリーダー〈橋田順吉〉に惹かれていることもあって工場での組合活動に熱心だ。一方、太一の家の向かいに小さな飲み屋「永楽軒」をかまえる朝鮮人〈鄭賛根〉は日本での商売に成功したので帰国にはまったく関心がない。帰国を薦める朝鮮人学校の若い教員〈尹〉の話に耳を貸すのは、もっぱら賛根の娘の〈鄭春子〉だ。〈春子〉は〈賛根〉と後妻の日本人妻〈しのぶ〉との間にできた娘だが、日本での暮らしに希望を見出せないことから帰国を真剣に考えている…(『テアトロ』1960/9)。つまり日本人側と朝鮮人側の双方ともに既成世代は世界を変化させることにあまり関心がないが、朝鮮人の若い世代は帰国を通じた祖国建設に、日本人の若い世代は労働運動を通じた労働者の権利獲得と自立に積極的だという構造である。そして日・朝の若い世代を刺戟する者は、朝鮮人側は朝鮮人学校の教員で在日朝鮮人たちに帰国を勧める〈尹〉であり、日本人側では組合運動のリーダーの〈橋田〉である。労働運動に挫折して職場を去るた〈橋田〉を慰めるのは日本人ではなく、成功裏に帰国運動を勧めている〈尹〉であった。なお「川崎協同劇団」は「建設座」や「ぶどう座」など、川崎市近郊に本拠を置く劇団が集まって創設した劇団である。劇団の名称は代表格の黒沢参吉が戦前に創団した劇団名に由来する。

『血は立ったまま眠っている』劇団四季
1960年7月、劇団「四季」は浅利慶太(1933~2018)の演出で、当時はすでに歌人として名のあった寺山修司(1935~83)の処女戯曲『血は立ったまま眠っている(3幕)』を上演した。主人公の〈灰男〉と彼の弟分〈良〉の二人は革命を夢見るテロリスト気取りだが、実際には自衛隊の基地からこそこそと物を盗む泥棒にすぎない。ある日〈灰男〉の前にダイナマイトの入った鞄を抱えた〈男〉が現れて、この鞄の中のダイナマイトを自衛隊の基地で爆発させて欲しいと言う。この〈男〉はある新聞社の記者で、すでに灰男の武装決起を書いた記事が準備できていると語る…(『現代日本戯曲大系5』三一書房、1971)。この作品には倉庫人夫でブルースを唄う〈張〉とドラマーの〈陳〉という二人の朝鮮人が登場する。彼らはこの作品の一方のストーリーを構成する「リンゴの闇商売一味」に加担する者として描かれるが、戯曲では朝鮮人であることを示す視覚上や聴覚上の特異化はなされず、役名さえ呼ばれなければ日本人との区別はつかない。寺山は朝鮮人を日本社会に普遍的な存在として描くことに関心を持っていたのだろうか。

『跫音(あしおと)』野崎氏治
「悲劇喜劇」1960年8月号に掲載された野崎氏治の『跫音(1幕3場)』は、1943年に「在学徴集延期臨時特例」によって大学生らが戦場へ送り出される「学徒動員」が始まった戦争末期を描いた作品である。主人公の〈三原英一〉は独文学専攻の大学生だが、ある日とつぜん特高警察の家宅捜査を受ける。この家宅捜査は同じ大学の独文科に在籍する朝鮮人学生〈鄭宗基〉が特高警察に拘引されたことと関係があった。まもなく〈鄭宗基〉は釈放されたが、彼は「半島人特別志願兵」として志願することを約束させられていた。つまり特高による拘引や家宅捜査は、文系の日本人学生と朝鮮人学生の反戦運動を牽制し、同時に特別志願兵制度を徹底させるための脅しだったのである。そして彼らは「時局」の要請するままに、否応なしに学徒出陣で出征することになる…(「悲劇喜劇」1960年8月号)。この作品は「戦争体験の風化」(吉田裕、2005)が社会的問題になり始めた時期にあって、さらに日米安全保障条約の成立で日本が再び戦争に巻き込まれるという危機感を作品にしたものと考えられる。上演の記録は見出すことができなかった。

『金明玉の帰国』朝日放送ラジオドラマ
この作品は演劇作品ではなくラジオドラマである。しかし劇団民藝所属の堀田清美がシナリオを執筆し、同じく北林谷栄や下元史郎など民藝の演技者が声優として出演したことからここで紹介する。

1960年9月13日に朝日放送が放送したラジオドラマ『金明玉の帰国』は、職場演劇の出身作家で当時は劇団「民藝」に所属した堀田清美(1922~2009)が戯曲を書き、同じく「民藝」の北林谷栄(1911~2010)と下條正巳(1915~2004)などの演技者が声優として出演した作品である。この作品には植民地朝鮮から夫とともに日本へ渡ってきた主人公〈金明玉〉の、日本での苦労の末に希望を抱いて北朝鮮へ向かう姿が描かれた。主人公〈金明玉〉は両班の家に嫁いだが、やがて日本によって財産を奪われ没落する。夫の〈尹相琪〉は先に日本へ出稼ぎに出ており、〈明玉〉も〈相琪〉の後を追って日本へわたる。日本での暮らしは貧しかったが、〈明玉〉にとって家族が一緒にいるということは幸福だった。しかし〈相琪〉は軍属として千島に出かけたがそこで戦死し、残された〈明玉〉は3人の子供たちを育てるうちに敗戦を迎える。敗戦後の混乱が落ち着くと長男の〈英一〉が韓国へ帰ることを主張したが、夫の死が信じられない明玉は日本に残って〈相琪〉の帰りを待つと言い張る。〈英一〉はひとり韓国に戻ったが、韓国戦争に巻き込まれ生死不明となる。やがて韓国戦争は休戦し、日本では帰国運動が始まる。そこで〈明玉〉は次男の〈俊二〉を連れて北朝鮮に帰国することにした。長女の〈玉順〉も日本での仕事が片付きしだい帰国することにしている。〈明玉〉と〈俊二〉を乗せた帰国列車は〈玉順〉に見送られて品川を出発し新潟に到着する。帰国者たちは清津へ向かう船の待つ埠頭へとバスで移動する。そしてバスガイドの「お疲れさまでした」という声に送られて、〈明玉〉は帰国船のタラップを登る…(『テアトロ』1961年3月号)というストーリーである。

『金明玉の帰国』は初回放送から半年たった1961年3月に「民間放送十周年記念大会ラジオ文芸番組部門」の最優秀作に選ばれて、同年4月23日にラジオ東京「KR空中劇場」で再放送された。当時の朝日新聞(1961/4/23)の記事「民放大会受賞作『金明玉の帰国』/北朝鮮帰国問題を描く/今夜、東京ラジオから放送」はこの作品を「30年間、被圧迫民族としての苦しみをなめてきたが、祖国に帰るという喜びから、おだやかな気持ちで、日本に『さよなら』する」までを描いた物語であると紹介した。このように年老いてなお「祖国建設」にまい進する〈金明玉〉の姿は好評を得たが、しかし労働の喜びが「祖国」へ帰ることでしか得られないという悲しさは描かれなかった。また、〈明玉〉が日本で苦労したときにはいつも彼女を気遣い助けの手を差し伸べる親切な日本人の姿が描かれた。

『乾いた湿地』劇団はぐるま
1960年12月、岐阜市所在の地域劇団「はぐるま」は、劇団主宰者であり劇作家でもあるこばやしひろし(1926~2011)の作・演出で『かわいた湿地(四幕)』を上演した。主人公の〈河村〉は日本で生まれて日本の大学を出た朝鮮人土木技術者だが、日本社会の朝鮮人差別のために日本での生活に希望を見出せない。そこで新しい暮らしを夢見て本名である〈鄭〉を名乗り、家族とともに帰国することを決意する…というストーリーである(「演劇会議」1977年11号掲載)。日本社会の朝鮮人差別を問題視した作品ではあるが、主人公が日本人妻と一人息子を連れて北韓に帰国することが唯一の問題解決策として描かれており、日本社会の変革や朝鮮人との共生という主題はまったく描かれなかった。この作品は後に大阪所在の新劇団「関西芸術座」が『湿地帯』(1962/1963)として改作・上演し、大きく好評を博した。

『バタヤと宝石』東京新喜劇(戯曲未入手)
東京新聞(1961/2/5)「春日八郎ショウと東京新喜劇」によれば1961年1月、「東京新喜劇」が程嶋武夫の演出で『バタヤと宝石』(新宿コマ劇場)を上演した。この作品には左とん平(1937~2018)が演じた「三国人のバタヤ」が登場する。原案は絣くるめで脚色は酒井俊。戯曲を入手できず「三国人」が朝鮮人であるのか中国人であるのかなど詳細は不明のままである。

『日本三文オペラ』劇団「葦」(戯曲未入手)
『新日本現代演劇史2』(大笹吉雄、2009、p614)に再録された毎日新聞(1961/10/3)「新劇/うすっぺらな劇化/日本三文オペラ」によれば1961年9月、劇団「葦」は『日本三文オペラ』を砂防会館ホールで上演した。この作品は開高健の小説『日本三文オペラ』を劇団員の藤田傳(1932~2014)が脚色・演出したものである。藤田が雑誌『国文学』(1982/11)に寄稿した「演出ノートより」に〈キム〉の名前が記載されていることから、この作品に朝鮮人登場人物が描かれていると考えられる。しかし戯曲を入手できなかったので確認できていない。

『アリラン軒』新国劇
1961年10月、新派の流れを汲む劇団「新国劇」は東京の明治座で北条秀司(1902~96)の作・演出による『アリラン軒』を上演した。この作品は登場人物のほとんどを大阪弁を話す朝鮮人が占めるという、これまでになかった趣向の作品である。「大阪南部の朝鮮人スラム街。やにわに殺人のあった朝鮮料理やアリラン軒の表のさわぎからはじまる。この芝居は殺人そのものがちゅうしんではなくって、殺人をめぐる辰巳の推理マニア崔というコックのああでもないこうでもないという推理から引き起こされる事件が中心になっている」(読売新聞)。「アリラン軒」という朝鮮食堂で起きた殺人事件を、同じ町内の朝鮮食堂「羅津軒」のコックであり推理小説マニアの〈崔〉が真犯人を探るというサスペンス・コメディである。羅津軒の新参調理人〈金〉は、観客の立場からは明らかに殺人犯とわかる設定になっている。しかし羅津軒の女主人から気に入られており、また人命救助で警察から表彰されて町内の人気者になってしまう。そして最後は先輩調理人の〈崔〉だけに正体を明かして、住民たちからは惜しまれつつ「某国」に帰国するというストーリーである。日本側の劇評はおおむね好評だったが、しかし在日の文学研究者である朴春日(1933~)は主人公の〈金〉があたかも北朝鮮の人物であるかのように描いて共和国を中傷し、帰国事業をゆがめた悪意の作品だと非難した(朴春日『近代日本文学における朝鮮像』未来社、1985、p314)。

『キューポラのある街』関西芸術座
1962年9月、大阪所在の劇団「関西芸術座」は道井直次(1925~2002)の演出で、蓬莱泰三(1929~)脚色の『キューポラのある街(3幕6場)』を上演した。この作品は当時人気を得ていた早船ちよ(1914~2005)の小説『キューポラのある街』を、児童・若年層向けに脚色した演劇作品である。主人公〈ジュン〉は高校進学を夢見る中学3年生だが、父の〈辰五郎〉はケガで職を失い、家庭は経済的にひっ迫している。〈辰五郎〉の職場仲間は組合運動を通じて〈辰五郎〉の復職を助けようとするが、昔かたぎの〈辰五郎〉は「アカの世話になるのはいやだ」と耳を貸さない。〈ジュン〉は高校進学の希望を失い弱気になっていたが、不安を抱きつつ帰国した級友の朝鮮人〈金山ヨシエ〉の残した手紙に励まされ、製糸会社への就職と夜間高校への進学を決心する。父親は娘の行動と職場仲間の熱心な勧めから、労働組合に対する偏見を残しつつも復職を決意する…(『テアトロ』1963年8月号)。関西芸術座の『キューポラのある街』は大阪市教育委員会から推薦を受けるなど好評を得た。また、各地の地域劇団も長い期間にわたって再公演を繰り返した。

『こわれないものはない』こばやしひろし
岐阜市に本拠を置く劇団「はぐるま」を主宰するこばやしひろし(小林宏昭、1927~2011)が執筆した『こわれないものはない』は日本社会の朝鮮人に対する差別を問題視した作品である。日本人と朝鮮人の夫婦を中心にして、朝鮮人に対する就職差別などを描いた。

『湿地帯』関西芸術座
1962年10月に大阪所在の劇団「関西芸術座」は岩田直二(1914~2006)の演出で『湿地帯(4幕)』を上演した。この作品は前述した『かわいた湿地』を関西芸術座での上演にあわせて改作したものである。主人公の〈金村〉は日本で生まれて日本の大学を出た土木技術者だが、朝鮮人に対する日本社会の朝鮮人差別によって生活は苦しく安定しない。日本人の妻〈康子〉もまた朝鮮人と結婚したことを理由に家族から見放されるなど苦労する。日本では安定した生活を望めない〈金村〉は一人息子〈和夫〉を連れて家族で朝鮮への帰国を決意する。しかし〈和夫〉は帰国を拒否し、妻の〈康子〉もまた逡巡する…(『テアトロ』1963年19月号掲載)。『湿地帯』は「大阪労演」の「10月例会(定期鑑賞会)」で当時の新劇の人気作に劣らない数の観客を動員し、翌1963年の6月から8月までの三か月のあいだ全国巡回公演を行った。

『パラジ―神々と豚々』俳優小劇場
1962年12月、劇団「俳優小劇場」は映画監督の今村昌平(1926~2006)の演出で、今村と長谷部慶次(1914~)の共同執筆による『パラジ―神々と豚々(2幕)』を上演した。「パラジ」とは血縁共同体を意味する言葉である。この作品は主人公〈太亀太郎〉の勤める東京の小さなプレス工場と、〈亀太郎〉の故郷である「クラゲ島」という架空の島を交互に店ながら舞台が進行する。クラゲ島のパラジという血縁共同体の持つ強固な絆は時には呪術的な桎梏でもあり、〈亀太郎〉はパラジから抜け出そうと東京の金属工場へ就職した。しかし東京の工場に勤めてもパラジの影響から抜け出すことができず、パラジから疎外された父親が死んだことを契機にまた故郷へ戻ることになる…(「パラジ」『現代日本戯曲大系9巻』)。この作品には主人公〈太亀太郎〉の勤める工場の同僚として朝鮮人〈三宅〉が登場した。〈三宅〉は組合活動に熱心な労働者だが、同時に遅配した給料の代わりに工場から製品を盗み出して売って金を得る「アウトロー」でもある。そしてパラジ(血縁共同体)の干渉に疲れはてた〈亀太郎〉が心を許すことのできるただ一人の人物でもあった。

*第2期リスト「対立者としての朝鮮人」に続く


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