古文で物理?漢文で英語?現代文で音楽?ーー私が「国語」という枠を超えて授業をする理由。
先日、オヤノミカタの松井さんから「オヤノミカタマガジン」という共著マガジンに誘われました。
(ちなみに松井さんは、私がフリーランスになるまで勤めていた広告代理店の同僚(先輩)で、今も何かと一緒にお仕事しています)
オヤノミカタマガジンは
「『これからの教育』について、複数の視点からの意見を発信していく」
というものだそう。
基本スタンスは
「お互いの主張に干渉せず、同調する必要もなく、足並みを揃える必要もない」
という、「教育(これからの人を育てることについて)」という観点であれば何だってよく、つまり「私が思うことを発信することそのものが多様性の証であり、複数の視点のひとつとなり得る」というワケです。
ちょうど子育て真っ最中だし(小学生+園児)、昨年から非常勤講師を始めてるしで、「教育」というワードには興味があるところ。
そして、私自身が自分の働き方について考えているところ。
なので一度、自分が思う「教育」、そしてそれに対する関わり方を振り返ってみることにしました。
◆【はじめに】なぜ私が、いつも「ちょっと変わった国語」をするのか。
私は普段、子育てのnoteのほか、「現役ライターの国語授業」という記事をUPしています。
こんなんとか、
こんなんとか、
こんなんとか。
なんでこんな授業をするかというと「国語=受験に必要だからやってるだけの教科」「古文=睡眠時間」と思ってほしくないからです。
国語こそ、生きていくうえで必要な教科であり、他の教科と、もっと言うとこの社会や世界とをつなぐ重要な教科だと考えています。
だから古文であれば助動詞や単語の説明に終始するのではなく「いかに違う切り口でこの題材を読み取るか」を考えています。
◆【例】宇治拾遺物語「検非違使忠明」の段で、重力加速度の話をしたら・・・。
例えば、宇治拾遺物語「検非違使忠明」の段は、検非違使という警察みたいな仕事をしている忠明が、悪ガキに追い詰められて、清水の舞台から飛び降ります。
このとき、蔀を持ってふわーっと降りたので、傷もなく無事だった、ってことらしいんですね。
でもまぁ、最初読んだとき、ぶっちゃけ
・・・ホンマかいな。
って思いましたね!昔話はホラも多いからね!
でも私、こういう最初の感想を結構大事にするところがあって、一応調べたんです。
そしたら、いるじゃないですか。ちゃーんと、物理に則って計算している人が!
結論としては若干怪しいけど、まぁ絶対作り話だ、とも言い切れないよう。
そこで、授業の後半に少し余裕を持たせるような感じにして、生徒に「重力加速度、習ったよね。ちょっと計算してみようか」と、けしかけてみたんです。
すると、それまで何となく見ていた生徒のうち明らかに理系という奴らの目が、俄然輝きだしたんです。
「え、じゃあ清水の舞台の高さってどれくらいですか」
「質量どれくらいあったんですかね」
「空気抵抗の計算の仕方が分からないけど・・・」
どんどん、向こうから聞いてくる。
とてもわかりやすい、受動から、能動への転換。
そして、それまで「教科書にフツーに載ってる興味薄な古文」が、「自分の興味ある分野の題材」に変わった瞬間でした。
(もちろん、文系の子もいますが、これもまた「割と好きな文系学問から苦手意識のある理系へのスムーズな移行」ができたみたいで、できる子たちの解答を楽しんで見ていました)
それを見ながら思いました。
「こどもたちは、『興味』というエンジンで能動的になり、自ら枠を超える力を持っている。ただ、それを発揮する場、使うきっかけを知らないだけだ。」
と。
枠をつくっているのは教師の方で、教師が「ここ、超えていいよ、超えられるよ」と促せば、枠は超えられる。
相手の「興味」というキーをおさえて、つつくことができたら。
だから、私の授業は、しょっちゅう脱線します。相手の興味を引き出すために。
ただ、いつも適当に脱線しているワケではありません。
◆【思うに】脱線こそ、至高。その場の流れが生み出す吸引力と意外性が、相手の目を開かせる。
私の脱線は(というか、世の先生方はそうなのかもしれませんが)実はある程度筋書きがあっての脱線のことが多いです。
(いやもちろん、勢いに乗って「えーと、何の話してたんだっけ」みたいな予期しない展開も多いです・・・って、あれ? どっちも『多い』とはこれいかに笑)
とにかく、最初の教材研究のときに「この題材でどう脱線しようか」を考え、思いついたらそれについて調べます。
このとき、可能なら「何かの別の学問」とくっつけるようにしています。
毎回は出来ませんが、例えば物理の例のように「この単語は英語でいうと○○っていうのに似ててね」とか「この天気の移り変わりって、気象学的にもあってるらしくて」とか「この時代、中国史ではこういうことがあって」とか。
クラスには、生徒が20人も30人もいて、それぞれ興味が違います。
どこで誰がどう引っかかるか分からない。
「みんなが引っかからなくてもいい。これは、このクラスの誰か、面白いと思うかもしれない『君』に向けての脱線なんだ」
私は、そういう使命感ある脱線(!)をしているのです。
そんな脱線を色んな方向で、あれやこれやとぶっ飛ばして、後で「こないだのアレはちょっと面白かったです」なんて言われた日には大成功です。
(普通は感想なんて言ってくれない。一人で楽しんだりほくそ笑んだりしてるのがほとんど)
そうやって、単なる授業も、どこかで自分の興味に結びつく可能性があるということ、またすべての学問は結びついていることに気づいてもらえたらなと思うのです。
国語は国語、数学は数学、社会は社会で理科は理科・・・
義務教育の便宜上で枠は設けられているけれど、本来の学問は、いろいろな見方や考え方が絡み合っている。
それを教師の私が気づいていなければ、生徒が気づくはずもありません。
だからできる限り、私からまず枠を超えて、または超えるきっかけを与えて、『自分の力で考え、答えを導き出す楽しさ』を知ってほしいと思っています。
◆【要は】教育って難しいんだけど、鍵は多分「興味」にある。
私も毎回毎回、授業がうまくいくワケではありません。
盛り上がらなかったり、そもそも進まなかったり、生徒の目が明らかに死んでたり・・・。
でもきっと、教育のポイントは「相手の興味」にあると、私は思います。
それが一体どこにあるのか。
探せるか。引き出せるか。共有できるか。
その興味を持って相手が枠を超えようとしたとき、背中を押せる用意はあるか。
それをいつも、試行錯誤し、問い続けながら。
日々、教壇に立つ次第です。
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