アナログ派の愉しみ/音楽◎宮沢賢治 作詞・作曲『月夜のでんしんばしら』

ドツテテドツテテ、ドツテテド
そこには賢治のはしゃいだ息遣いが


 ドツテテドツテテ、ドツテテド。
 でんしんばしらのぐんたいは
 はやさせかいにたぐひなし
 ドツテテドツテテ、ドツテテド
 でんしんばしらのぐんたいは
 きりつせかいにならびなし。

 
宮沢賢治が生前に出版した唯一の童話集、『注文の多い料理店』(1924年)に収められた九つの作品のうち、八番目の『月夜のでんしんばしら』には特別な仕掛けが凝らされていた。ある夜、恭一という男の子が鉄道線路に沿って歩いていると、がたんと音を立ててシグナルの横木が下がったのを合図に、電信柱たちが行進をはじめて、そのときに上記の軍歌をうたうことが描写されているのだが、実際、賢治はこの歌詞に自分で作曲してあったのだ。

 
ときあたかも、極東の島国が第一次世界大戦に参加して戦勝国となり、さらにはロシア革命に際してシベリアへと出兵したころだっただけに、そこには鼻息の荒い時代の空気が多少反映していたかもしれない。ただし、賢治がみずからこの作品について「うろこぐもと鉛色の月光、九月のイーハトヴの鉄道線路の内想です」と説明しているとおり、あたり一面見渡すかぎりの電信柱が足並みを揃えて進むイメージには、軍国主義の勇ましさよりも、つい笑いだしたくなるような気分が漲っていよう。

 
今日では地上から電信柱を撤去して、電線類は地下に埋設することが主流のようだ。もちろん、それは防災・安全や景観などの見地から望ましいにせよ、わたしなどはあの電信柱から電信柱へと電線がえんえん張りめぐらされた風景に安らぎを感じてしまう。

 
木造の電信柱が当たり前だったころ、長谷川町子の四コマ漫画『サザエさん』にこんなエピソードがあったのを覚えている。サザエとマスオの夫婦が浴衣姿で近所を散歩しながら、仲良く会話を交わす。「あつくなったわねえ」「この頃になると思いだす」「婚約時代にいった、あの高原!」「あの林!」「二人でほったあのラクガキ!」「あの木、どうなったかなァ」。そして、最後のコマで、サザエが「電柱になったわよ、あなた!」と叫ぶのだ。目の前の電信柱には、相合傘にサザエとマスオの名前が刻まれていて……。このコントを成り立たせたのは、電信柱というものが都会と田舎のはるかな距離をつなぎあわせているイメージに他ならない。

 
日本の国土に電信柱がお目見えしたのは明治維新を迎えてすぐのことだったらしい。それ以来、めざましい勢いでの電信柱の増加は文明開化の恩恵がどこまでも広がっていくことを意味したわけで、大正年間に至って、岩手県を理想郷とする賢治が『月夜のでんしんばしら』を着想したのもそうした背景があってのうえだったろう。

 
わたしの手元にあるのは『宮沢賢治歌曲全集 イーハトーヴ歌曲集』というタイトルのCD(2022年)で、テノール歌手の福井敬が谷池重紬子のピアノ伴奏により、賢治にちなんだ28の歌曲をうたっている。その冒頭が、くだんの行進曲だ。軍楽調のリズムにのってぎくしゃくとうたわれる電信柱たちの自画自賛の歌は、その夜、恭一少年が見聞したところにとどまらず、日本列島の津々浦々に轟きわたったのではないか。

 
歌の最後はこんなふうに結ばれる。

 
 ドツテテドツテテ、ドツテテド
 でんしんばしらのぐんたいの
 その名せかいにとゞろけり。

 
当時、岩手県立花巻農学校の教師をつとめていた賢治はおそらく、放課後に生徒たちといっしょになってうたったのではないか。ことによったら、みんなで賑やかに行進しながら声を張りあげたのかもしれない。そうした光景を思い浮かべると、ひたすら生き急いだかれの37年の人生にあって、最もくつろいで、ことさらはしゃいでみせた息遣いがこの歌から伝わってくるような気がするのだ。
 

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