アナログ派の愉しみ/本◎大友克洋 著『童夢』

とんでもないものが
天から降ってくる


講談社が大友克洋の全集刊行をスタートさせたのに促されて、第一回配本の『童夢』を買い求めた。このマンガの完全版が1983年に双葉社の単行本として出て以来の再会だ。あのときに味わった衝撃はすっかり過去のものとなったつもりでいたのに、久しぶりに手にしてみたら、ほんの数ページを繰っただけでたちまちよみがえってきてうろたえてしまった。どうやらこの歳月のあいだ消滅することなく、無意識の底にずっと沈み込んでいたらしい。
 

物語の舞台は、いくつもの団地が高々と聳え立つニュータウン(もちろん、経済大国・日本のアレゴリーだろう)だ。ここで近年、飛び降り自殺が相次いで25人を数えるにおよび、警察も見過ごせず事態の解明に本腰を入れはじめたところ、当の捜査責任者までが深夜に不可解な転落死を遂げてしまう。やがて、この巨大な集合住宅に巣食った恐るべき無明の力が少しずつ正体を明かしていく……。こうしたストーリーを追いながら、わたしが背筋の震えるような感覚に襲われたのは、たんにそのオカルトめいた雰囲気のせいだけではなかったろう。
 

あのころ、極東の島国が世界から「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とおだてられて、意気揚々としながらも、この社会のどこかに途方もない歪みが生じていることをだれもが察していたのではないか。団地の屋上からつぎつぎと人間が落ちていく描写は、そんな不安に具体的なイメージを与えるものだったと思う。のみならず、いまにしてわたしをいっそう震撼させるのは、そのイメージが間もなく日本じゅうを揺るがした出来事までも先取りしていたかのように見えることだ。そう、1985年8月12日、真夏の夜空から日本航空123便のボーイング機が墜落して520名の犠牲者を出した出来事を――。
 

元・日本航空客室乗務員でジャーナリストの青山透子は、この事故の真相解明をライフワークとしてきて、最新の著作『JAL裁判』(2022年)では、遺族が日本航空に対して当該機のボイスレコーダーとフライトレコーダーの開示を求めた裁判についてレポートしている。そこでわたしが最も驚いたのは、これまでの調査・研究にもとづき、123便の事故は自衛隊の演習用ミサイルなどが垂直尾翼を破壊したことによるもので、自衛隊はファントム2機を追尾させ、御巣鷹山への墜落後に証拠隠滅のため現場を焼き払ったとする著者の見立てに対して、もはや国や日本航空は積極的な反論・反証を行わず、ひたすら波風を立てずに風化を待つかのような態度でいることだ。その真相のいかんはともかく、世界の航空機事故史に特筆大書される事故もまた、日本社会のとめどない歪みが生みだしたものだったと言うべきだろう。
 

大友克洋は全集のあとがきで、『童夢』の誕生にまつわるエピソードを紹介している。それによると、当時、『エクソシスト』や『HOUSE』といったホラー映画がヒットしていたのを受けて、つぎはホラーものにすることをアシスタントたちと相談していた際、「日本の幽霊屋敷ってどこなの?」という話になり、ちょうどそのころ、ある団地で飛び降り自殺の続くのが話題を呼んでいたことから「団地だ!」となったという。
 

「そこで、その話題に上がった団地を実際に見に行きました。そしたら、思いのほかのどかで、全然怖さのカケラもなかった。ふと、私が埼玉に住んでいた数年前、近くで巨大団地を建設中だったのを思い出したんです。当時、酒を飲んで敷地に入り、まだ工事中だった団地の最上階まで登ったりしてました。それを思い出して、アシスタントと現地に向かったんです。それは先に見た団地より高さもあり広くて、圧倒されました。敷地の真ん中に立つと、四方を建物に囲まれて抜けがない、それまでに見たことがない変わった雰囲気でしたね」
 

かくして、日本のマンガを革新したと評される壮大な作品世界がつくりあげられていったわけだが、その出発点に思いのほかのどかで、全然怖さのカケラもない場所があったことは重大なポイントだろう。空虚。それこそが「日本の幽霊屋敷」の実態に他ならず、ある日、そこへとんでもないものが天から降ってくることを『童夢』は40年前に予言してみせたのではなかったか。それは過去の話だろうか。まさか。北朝鮮による正体不明の飛翔体の発射にともなって、Jアラートがけたたましく響きわたるではないか。この社会の空虚に警鐘を鳴らすかのように。



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