ハッピーエンドは遍在する

(偏在ではなく遍在でした。お恥ずかしい限りです)

 こんばんは。先日、上記のまとめを作成した者です。そしてこの記事は、まとめを作ってからの思考整理と後日談と自分語りとかそんな感じのものです。よろしくお願いいたします。


 あのまとめは「いっこのサンプルケースなんだけどどう思う?」くらいの軽い気持ちから来たものでした(あと驚きが強すぎて、とにかくなんでもいいから外に出してみたかった)。
 まあまず、人様に語って聞かせる話ではなかったよね。私事だし余談だよね。本当にそう思います。タイムラインで完結して然るべきものだったとは思います。ただ気が向いただけ。サンプルケースくらいにはなるんじゃないか? くらいの気持ち。
 だからこそ、計らずもああまで広まったことに本当に本当に本っ当に驚いて。なので、どんな揶揄も飛んでくるものだと覚悟はしていました。
 なのに、本っ当に全然お咎めとかお叱りとか暴言とかが、少なくとも直には来なかったので、ずっとびっくりしています。ありがとうございます。

 コメントも様々に来ましたが(これもびっくりした)(ちまちま読んでいます)(議論が難しくてうまく把握できず、むしろ申し訳ない)、当方のあれが理解できなくても全然構わないですし、そもそも理解の有無なんて全然肝心じゃなくて、なので痛いなと笑うのも別にアリです。それを表明するかしないかってのも個々人の自由でもあります(でもほかの困っている人のことは無碍に扱わないでくれるとありがたいです)。

 揶揄されたからってそう傷付くものでもなし、言った方をこちらが敵視するわけでもなし。わかるから賛同するから味方、わからないから否定するから敵、みたいな話をしたいわけではない。というのは無限に念押しさせていただきます。本当に念のため。

 理解や共感や賛同、揶揄や一石、どれも公開したことでついてきたおまけくらいの気持ちなので……公開したそのことだけで満足してたのに、お釣りが山ほど来すぎてびっくりして……ありがとうございます。


 だってなんかもうすごくないですか??
 言い回しをできる限りは明解に考えたにしても、それでも雑なまとめで、探せばいくらでもアラがある・揶揄のしようがある内容に対して、いろんな方がいろんなことを思ってくださったっていうの、すごくないですか??
(読みにくいから広まったという可能性もあるけど)

 たとえば9.9割に指をさされても、0.1割の似たような? 何かを抱えている方々に届いたなら、それで元が取れてしまっているんだよなーと思っていたら……いや0.1割どころの騒ぎでは……ない……?! って、後から後から無限にびっくりする。波及したってことにびっくりする。あれをとにもかくにも読んでいただけたことにびっくりする。あれをですよ……?!
 自分の言語化が……一応は少しくらいは大丈夫だった……?! 通じた……!? みたいな驚き。


 そこから数日経って、また長く書きました。
 思ったこと、わかったこと、知らなかったことがありすぎて、そういうことがたくさんたくさんあったんだととにかく報告してみたくて、そうするためには言語化できるレベルにまでそれがわからないといけなくて、考えて、言語化のために適当な言葉をかき集めて、そして実際に文章化する。
 ……というのが単に好きなので、ただの後日談と、あとはまとめの話をちょっとだけわかりやすくしたものと、自分語りで構成されたものですが、よろしくお願いいたします。


・まず、人々ふつうに優しすぎて困ったこと

 自称カルチャーショックに次ぐ驚きでした。いや、優しいことは知っていても、これほどまでとは……。

 人に恋愛感情や性的欲求が向きにくいの、あと生じているかもわかんないの、当方の育ちに何かあるんじゃないか。

 ってたぶんめちゃくちゃ思われたと思うし、実際育ちに難があるのは本当ではあります。が。
 それでも、たとえば愛されてこなかったとか、人から向けられてこなかったとか、そういうのはまったく全然ないんですね。
 かつては暗黒だったり視野が狭すぎたり、とにかくめちゃくちゃに迷惑かけてきたからアレなんですけど、少なくとも今はそう思える。「そこまでアレだったのに今はそう思える」ってレベルで支えがあったり見守ってもらったりした、ということです。
 おれほど支えられて目をかけられて大目に見てもらえたやつもそういないだろう、と。しかも、あの蒙昧まとめを読んでくださった優しい方々がめちゃくちゃにいる(無論、読まなかったからって優しくないわけでもない)。その時点で世界が優しい。ヤバい。
 でも、だからこそ、件のまとめで言っていた「自分の性質の話」にぜんぶ跳ね返ってきます。


・そうやってこれまで受けてきた親愛に報いることが、本当に難しかったということ

 人々、優しいんですね。たとえば自分の周りの人々だって、なんかそれぞれいろいろ人間関係をやっている。そういう人たち、おおむね「恋愛感情があって」「性的欲求もたぶんあって」そのへん兼ね合いながら、愛とか育んだりできてて。
 その中で自分が、その光景や存在は理解できても、その感覚をわからない。持とうとして、把握できない。出処や向け方がわからない。自分は人から思われているというのに、同じもの(親愛)を同じ形でうまく返せない。そうできる気がしない。ヤバくないですか。
 なので「同じものになるようにどうにか真似て、似せて、曲がりなりにも返そうとする」みたいなことをやろうとして、できなくて最終的に頓挫する。ヤバい。

 敬意には敬意を、誠意には誠意を、厚情には厚情を、みたいなことはできたつもりでも、恋愛感情とか性的欲求が何ひとつピンとこない。わかるフリをする。フィクションから周りの姿から、とりあえず想像してトレースしてみる。フリの域を出ないことにひたすら焦る。わっかんねえなと匙を投げる。いじける。自分は優しくしてもらっているというのに、優しくはできない生き物なんだなという自認に至る。……その過程で、優しくなさをたまたま詰られたりする。
 そのへんはたぶん、相手が望む優しさを向けることができなかった、とかそういうパターンだったりするのかもしれない。それでも当時は、望む優しさすら渡せないレベルで優しさが欠如してんのか、といっそう落ち込んだりもして。

 あー自分はもらっているというのに他者を愛せないというのか。マジか。なんでだ。努力が足りないのか。対人経験が足りないのか。でも、対人経験を重ねるにもその時点で優しさは必要だろ。おれが人に向けられる優しさ……なくない……? のループ。

 そこから導き出されるのはだいたい、「自分が人のように優しくできないのは、いろんなものが足りないからだ」という結論です。だから優しくされないとしてもそれはしょうがない。優しくされたとしてもそれを負い目に感じてしまう。どツボですね。ウケるね。

 そのへんの自論が板についてきて、「他者を想う類の恋愛感情も持てない人でなしなんだな」と思いながら生きてて、「持っていない以上、ちゃんとわかることだってできないんだから、その世界に入ってはいけない。資格もない。そしてそれは当然だし妥当でもある」という前提がそこで完成する。

 そこからの紆余曲折を経て、あのまとめの考えに至るわけです。
「人々、まさか、自分のように補わなくても探さなくても恋愛感情が"ある・生じる"」
「しかもそうした恋愛感情や性的欲求は"経験や理屈から生じるものではない"」
「なので、そうした感情や感覚は、フィクションとか周りの人間から"取り入れたり真似たりするものではない"」
「そういう風に生きているひとたちが、フィクション媒体でたとえば愛情や恋愛や性愛の表現をしている」

 びっくりするよね。そんな風に世界が回っているとか思わなかった。皆大なり小なり努力して磨いて自分のものとして完成させて、そうして他者への想いを携えているんだと本気で思っていたので。
「そうなろうと思えばそうなれるであろう自分がそうなれないのは、経験や努力が足りないからだ」とか、もはやそういう話ではない。
 もう少しわかりやすくなるかなということで、このへんをざっくり雑にガーデニングとかに喩えることにします。


・愛情という花をやり取りする世界

 に、自分たちが生きていると仮定して。
 それぞれ個別に鉢や庭があって、そこで育てた綺麗な花を渡し合うこと。それを、恋愛感情とかのやり取りとして見なした場合。

・多くの人々が花を渡し合っている
・そういう贈答が当然のものとして行われている
・その花がそれぞれに綺麗である
・その花を善意や厚意や好意で自分もいただけたりする
・しかし己に返せる花がない
・鉢も土もあるのに、芽が出ているように思えない
・そもそも種とか植えた? 種ってどこで手に入れるの? というか持ってる?
・よしんば芽が出たとして、手元にじょうろや肥料ある? ない? わからない……
・よしんば育ったとして、それ花になる?
・花になるとして、いつまでかかる?
・それ、人に渡せる代物?
・って考えてても芽が出ないんだよなあ
・土が悪いのか育てかたが悪いのか種が悪いのかどれだ?
・そうこうするうちに、人から花を受け取るのが嫌になる
・人々の花が綺麗であるほど、自分に花がないことのヤバさが身にしみて焦る
・花がないってどうしたの? もしかして渡したことないの? とふと庭を見た人が尋ねたりする
・花を育てるのも渡すのも楽しいよ、花を貰うのだって素敵だよ、と言われたりもする
・花を渡したりもらったり……したいか……? と自問しても、この期に及んでイエスと思いにくい
・もう花はいいや……外の綺麗な花をとりあえず真似て、花を持っていることにしてみよう
・花の形にならなくない???
・花の形すら作れない自分もうダメくない??
・あー皆花をちゃんと育てて渡しててすごいな……
・花は成長させていかなければならない(そして渡さなければならない)って当然のように言われたりするけど、花……??
・もう花はいいや……庭に何も植えていない人でなしでもまあいいや……

 みたいなのがざっくりと自分のケース……だと思います。たぶん。盛ってるかも。
 花は綺麗なのに、その贈答はどこを見回しても当たり前なのに、人は花をくれたりするのに、なんでか自分にはそれが返せないし、鉢にたぶん何も育っていない。
「みんな当たり前にできているのに、みんな持っているのに、なぜ自分にはそれがないんだろう。できないんだろう」というあるあるな引け目の「それ」が、内に抱く恋愛感情とか、他者へ向ける性的欲求とかだった。と言えば通りやすいでしょうか。

 そこからまとめの時のあれを通過してみると、「あっ鉢のこれ土じゃなくてまさか砂……? ?」みたいなことになります。
 自分の鉢にちゃんと土があると思ってたけどそれ自体が怪しいね……みたいなオチ。だったんじゃないかな、と振り返って今思っています。

 ただし。
 たとえば自分と同じようなことを思っている人がいたとして、「そういう性質のひとは花を持てない」というわけではきっと断じてなく、なんらかの花の種や芽はたぶんあるはずだと思います。
 それが育ったとしてももしかしたら、「世間的な花の定義ではない」みたいなことになる……可能性もあるはある……。だから苦しむ人が少なくないのだろうし。

 花を異性に渡したい人、同性に渡したい人、あるいは誰にも渡したくない人(ありだと思います)。
 この花は渡すに値するのかと悩む人。渡したい人に受け取ってもらえないケース、渡し方そのものに悩むケース。渡す相手がわからないケース。この人からの花がほしいと苦悩するケース。
 あるいは、花を育てられる気がしない人。育てるのが嫌になった人。育ったはいいけど綺麗だと思えない人。これ花? 自分で疑ってしまう人(こっちから見ればじゅうぶん花です!!!)。いろいろあるのかなーと勝手に思っています。たぶんみんなそれぞれに苦しみがある。

 自分のこれを楽観的に見るなら、土には土の、砂には砂の花が咲くのかもしれないけれど、自分の後者パターンはまだまるっきりの途上だと思うし、とりあえず全然わかんない。
 そこでもうひとつ。あるいはいっそ自らの花そのものを諦めて(人の花をそして否定せず)、
「相手がくれた花の綺麗さをめちゃくちゃに褒めたたえる」
「相手がくれた花を自分なりに(言葉や音楽や絵やその他で)形にして渡す」
「自分が思う、まだ見ぬ自分の花を、なんらかの形にして渡す」
 みたいなやり方に舵を切る、というのもありなのかもしれない、とも。現状、このへんも思考実験の話でしかなくて断定もできない。でも、その選択肢を思いつけただけでもめちゃくちゃ世界変わったんですね。個人の感想だけど。
「足りないけどまあしょうがないよねやっていくしかないよね。アテもないけど」と、「足りないけどそれはそれとして、もしかしたら意外と何とかなるかもしれないぜ」では感触がまるっきり違う、という話です。


 ……それで今、自分の花について考えるのを脇に置いたおれにとって、身の回りがどう見えるかといえば、

「外の花……めちゃくちゃ綺麗じゃん!!!」
「それを育ててきたガーデナーやばい! えっすごい!!」
「土とか花とかメンテしてんのすっごいえらい!!」
「売ってる花束のラインナップすげえやばい!!」

 です。
 外の花が綺麗であればあるほど、そう育てられないことに焦るから、手放しでその綺麗さを喜べなかった。むしろ別に見たくなかった。他の人の花がすごいことは身にしみてる。自分に花がないことを思い出さざるを得ない。
 というこれまでの感覚じゃあないんですよ。すごいやばい。

・花を育ててる人すごいし、育った花すごい
・それを他者に渡そうとする意思が美しい
・それを花束とかにして世界中に売っているプロがすごい(これは創作物を世に出すことの喩え……みたいに思っていただければ)

 あたりのことをずっと考えてて、世界やべえな……と今になってビビっているわけです。何言ってんだって思うでしょ。突然の人間賛歌とかめちゃくちゃキモくないですか。ましてやおれの柄でもない。
 自分でもなんでこうなっているんだってびっくりしてる。でも本当にそう思ってしまったので、しょうがない。


 花のたとえを、たとえじゃなく直に話すならこう

 このあたりなんですが、世界が激変してしまったということがおわかり……いただけるでしょうか。わかりにくいな。すみません。
 花を育てられない負い目をどういうわけか脇に置けてしまったことで、いきなり世界のすごさが迫ってくる。どんなライフハックだよと。

 でも本当に、人が「自分のような下手な苦労をせず(そのかわり別のたゆまぬ努力をして)花を育てている」ってことに、めちゃくちゃ安心してしまったのはある。
 花を育てることや渡すことに対して引け目や負い目がなくて、それが「楽しくて、やりたくてやっている」、っていうの。それが楽しいというのなら、なんていうか、人には幸せになる力があるってことじゃないですか(飛躍)
 ハッピーエンドが存在していることは(理屈では)知っていたけど、ハッピーエンドに向かう力が現に身近にあちこちに存在しているってことはよくわかっていなかったし。いま体感しているし。それを有している人々、人間、すごくない? ほんとすごい。すごいな。

 でも、だからといってほんとに、(世の中にあるような)花を持てない・持つ気がない人がいるなら、それはぜったい引け目に感じないでほしいし……あるいは他者がそれを謗ったりもしないでほしいな……と切実に思います。
 こればかりは本当に、こう。月並みだけど、幸せの形は人それぞれみたいなアレで……。

 ともあれ自分の世界の前提が激変して、でも人々は相変わらず優しいので、人生の一周目がハッピーエンドで締めくくられてしまったという感慨がすごい。
 二周目、この変化したバージョン前提のもとに渡っていくのだと思うと、未知すぎてすごすぎてすごい。

 勝手に叫んで勝手に納得して勝手に二周目にいこうとしていてほんっと無責任な……と思うんだけど、こういうケースがあるんだなって勝手に思ったり笑ったり参考にしたりしなかったりしてくれれば……いいんでないかと……思います。
「花を持てないのなら花を表現してけばいいんじゃない? 別に花でなくてもまあそれはそれ」って、我ながらわりと天才的な着地だと思う。
 でも、もっと前にそういう感じのことに気が付いた人たちも間違いなく存在しているので、めちゃくちゃにすごいな皆。みんな先輩なんだな。

 親愛や厚意や好意その他を向けられてきて、それはすごく有り難いことなのだと一応は体感できていて、でも受け取ることすら下手くそで、でも自分がそこに悩もうが悩むまいが、向けられてきたそれらは変わらずずっとそこにあった。というのがいかにすごいことかを、今になってようやく知ったわけです。
 本当に持っていないのに受け取ってもいいこと、向けてくれる人がいること、そういう世界に「持っているいない関係なく」アクセスしてもよかったこと。持っていないのに「生きてちゃいけない」わけじゃなかったこと。
 それをわかるだけの心がまさか自分にあるとは思っていなかったし、わかる日が来るなんて思ってもいなかったし、だからうれしい。
 持っていないんだから、わかることができないんだから、皆が生きているその世界からは一線引いて、窓の外の世界として、遠くから見るようにしてずっと生きていくもんだと思っていたんです。本当に。参加する資格はないんだからそれは当然で、それでいいとも思っていたし。


 でも、そう思ってきた前提から覆る。その世界は自分のこうした考えにかかわらずずっとそこにあったし、入ってはいけないという決まりは本当はなかった。それが決まりだと思い込んでいただけで。資格とか通行証だと思ってたけど、たぶんそうではなかった。
 自分の身近にいる友人とかは、それらをひっくるめて大丈夫だと言ってたのかもしれなかった。「何が大丈夫なもんかそもそも自分は何も返せないのに」と思ってきたのに。
 なんですかその……ものすごい愛みたいなの……泣いてしまうよな。それに気が付かなかったことにも無限に泣いてしまうよな。わかった気に今なれたことにも。
 これを読んでくれるひと、あるいはたとえばこうした述懐を笑うひとにだって、好きな人やものがあるんだろうと思うとそこにも泣いてしまう。
 だからたとえば人が死ぬのはいつだって無限に悲しいし、それでも悲しみと一緒に愛が残るってことがわかってしまってそこにも泣いてしまう。何見ても考えても泣いてしまう。こないだはディズニーリゾートのCMにも涙ぐんだ。
(たとえば推しが、そういう愛を持っていたり剥奪されたり、たとえば愛もて修羅の道にいるとか、逆に棄却して修羅の道にいるとか……はたまたそういうの全然関係なくクソだったり……そういうことに思いを馳せてはまた泣いてしまう)(どうでもいいんですけど、自分の推しの8割は破綻したクソなので、なんかその温度差も申し訳ない)


 愛によってすべてが成り立っているとは思わないけど、愛が成り立たせているものはあまりにも多いんじゃないか、と今になって衝撃が走っている。
 別にそうだからって世界平和とか、嫌な事件のない世界になるとか、そんなことはまずないんだけど、ハッピーエンドの可能性や道筋が身の回りに、人の中に間に、そして世界に存在するって思えるだけで違うわけですよ。
 自分が何者であるか、どういう傾向や性質であるのか、そういった自認から生き方を考えたりするのをずっとやってきたけれど。今になって「人々は自分のようではない」とわかったことで、他者や世界の捉え方がただわかった・とにかく変わったそのことに驚いている。そこから翻って、自認すら落ち着いてくるという……。
(でも「人に恵まれただけの生存バイアスじゃん」って言われたら、うん、ごめんなさい……とはなる)

 ただのサンプルケース語りと後日談ですが、だいたいのことは言葉にできたものだと思います。しかし読みづらかろうに……。お付き合いいただき、ありがとうございます。
 世の中クソなことが枚挙に暇ないけど、でもなんだかんだこれ読んでる人だって読まない人だってぜったい優しいと思うので(優しくないという証拠はないので)、なんかもうそれでいいじゃんね。と思います。
 少なくとも自分は、いろんなものが優しいなー今回も助けられてしまったなーってびっくりして考えてこれを書いたので。
 あのまとめから、自称カルチャーショックから、仕切り直しできたのは結局人々のおかげなんだなーって思うと何もかもすごすぎるな。
 そういうわけで、かような支離滅裂なお脳ハッピーテキストを……お読みいただき、ありがとうございました。さすがに読みにくすぎると思うので、サイレント推敲を……していくと思います。誤字もあるかもしれない。恥ずかしい。

 



(これは最後の余談)

 おまえはひどいやつだ、みたいな謗りを受けたりなじられたり、あるいは自分で自分をなじったり、そういうのあるあるだと思うんですけど。古傷? 生傷? 的な。
 でも、「ひどいやつである」と断じられたからといって、優しくないという証拠にはならなくない? そんなもん証明できなくない? と思いついて、ちょっと笑ってしまったんですね。
 優しくないという証拠にはならない、優しくないなんて証明はできない。もうそれでよくない? ダメ? 楽観的すぎる? 楽観的すぎるよなあ……。

 ……というのを、そのへん悩んでた過去の自分に対して言ってやりたいだけなんだけど(そりゃできるもんなら優しくなりたかったので!!)、だったら不特定多数に放り投げても同じでしょ。という気持ちでだらだら書きました。読みにくくて申し訳なかった。ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?