論11.ヴォイストレーニングの統一化について

Q.どうしてヴォイストレーニングのメニュは統一して、もっと客観的なものにできないのですか。とてもシンプルなことさえトレーナーによって答えが異なるのはなぜですか。

○誤りの起因

 他の先生のように、「自分は正しい、他のトレーナーが間違っている」というようなレベルの低い批判をしても、この分野の信用を、落とすだけなので、具体的にその原因を述べていきます。

 いくつかの質問を例に、トレーナーがうまく対応できていないこと、誤解が生じることをみます。これは

1.トレーナーが無知であったり、誤解(思い込み)している場合(理論や説明が古くなった場合も含む)

2.特定のケースを一般化してしまう場合

3.一般ケースなのに、生徒さん(トレーニングをやる人)が特別で、当てはまらない場合もあります。

どちらにしても、私は「健康法と同じく、自分に合っていることを取り入れてください」と注意しています。「誰かがよいと言っても、誰によかったとしても自分によいとは限らない」からです。人によっても体調などによっても、状況、目的によっても違うものです。

○(例)「水を飲め」というアドバイス

Q.「声のために水をたくさん飲んでください」とよく言われますがよいのでしょうか。

水を摂るのは、声帯の潤いのためにはよいことです。しかし、水分をとればすぐに食べたあとの胃のように、声帯が満たされるわけではありません。これは体から水分が失われると発声によくないということでの注意です。

 私が吸水をあまり勧めてこなかったのは、健康上に関わることだからです。水を多量に飲むことを医者によって禁じられている人もいるし、医者には言われなくても同じ状況の人はいます。

 年配になると、水は必要です。しかし飲み過ぎは危ないのです。コップ一杯なら体にはよいと思うのですが、急に一気に飲むことはやめたほうがよいでしょう。そのなかで、「毎日、何リットル飲め」などという、根拠のないことを示すのは、医者であっても、トレーナーであってもよくありません。ある人には危険だからです。また、体重が80キロの人と40キロの人が同じわけがありません。

 どんなものを飲むのかにもよります。多量の水を摂取すると、血中におけるカリウムやナトリウムの数値を下げます。熱中症を避けるため「こまめに水分補給しましょう」くらいでよいのです。いっきに飲むなど無理は禁物です。知識をうのみにする先生から、知識をうのみにする生徒さんに、こういうアドバイスがいくと困るのです。

Q.スポーツドリンクや氷水ならよいのでしょうか。

スポーツドリンクを勧めているトレーナーもいます。これにはアスリートがハードなトレーニングで、汗で出た分を補う成分が入っています。そこまで汗もかかないようなヴォイトレではお勧めできません。年配の人なら、糖尿病になりかねません。水でうすめるようにすることです。

 この前、あるトレーナーがTVの番組で「歌ったときには、氷水で冷やすのがよい」と言っていました。歌の途中で氷水を飲んでいるアーティストもいました。どちらも勧められません。

「冷やすのはスポーツでも終了後、動かさないときに」という条件下においてです。アイシングはクールダウン時にはよくとも、使っている最中に筋肉を冷やすのは、だめです。

○説明の不足は必ず起こる

 説明不足というのも、どこまでをいつどこで説明するかです。私共のQ&Aも万能でありません。同じ答えでも、その人の時期や状況によってはプラスにならないどころかマイナスになります。なかには、使いようによっては、危ないような回答もあると思います。メンタルやフィジカル、あるいは、喉に問題がある人なら、トレーニングそのものがよくないこともあります。喉の調子の悪いときは、使わずに休めることがもっともよいのです。充分な睡眠と栄養補給が大切です。

 「何でも疑え」ということではありません。しかし、医者よりも直感を信じて助かる人もいます。私は直感の大切さを述べています。  

どんな専門家も専門外では素人なのです。ですから、きちんとした専門家であれば自分の専門の範囲を知り、それ以外は他の専門家へ任せます。声は、何が専門で何が専門でないかさえわからないのが厄介です。だからこそ、勘の鋭いトレーナーにつくことです。それをみつけられる勘を磨くことが大切です。

・直観を磨く。

・トレーナーとの距離を考える。

・納得できないことはうのみにしない。

(参考)日録再録

○体の怪我

 それから十数年後、またもや足首を折った。怪我の直後両足のレントゲン写真を撮られたから、今度の怪我は前の時よりもう少し悪いですよ、と言われた。夫はその時、私がもうこれで立ち上がれないだろうと思ったという。

 しかし私はめちゃくちゃな性格だった。折れた部分は少し歩くとてきめんに腫れたが、私はその結果を気にしないことにした。とにかく人間の体というものは、使わないとだめになる。(中略)

 母のいない時に限って私の足の裏の魚の目が膿みだした。家にある薬を塗っておいても、膿み方はだんだんひどくなる。私は仕方なく一人で近くの外科病院に行った。そして直径1センチ5ミリ以上はあったと思われる魚の目を「えぐり出す」処置を受け、約三百メートルほどの距離を一人で、靴を片方だけはき、包帯で靴を履けなくなった方の足はソックスの踵だけで歩いて帰ってきた。

 当時はまだ戦争中で、その辺にタクシーもなければ自家用車を持っている人など一人もいなかった。母がいないので、支えてくれる人もなかった。帰って見ると包帯は血まみれになっていた。この小さな事件を、みじめな記憶だと私は思わなかったようだ。そうだ。やってみれば一人でなんとか生きてこられることも多いのだ、という輝かしい小さな勲章と受け取ったのだろう。(中略)

 子供の時、穏やかな恵まれた家庭に育ち、苦しい記憶もなく、親に充分に愛されて暮らした人には、それなりに善意で人生を受け止める姿勢があって、私は惹かれる。しかし苦労(くろう)子供(にん)にも、その体験の使い道はあるのだ。要は、何でもおもしろがれる余力を残しているということなのだ。

 その人が、怪我した体をどの程度なら酷使してもいいと感じるかは、恐らく主治医も推測できないだろう。なぜなら、救急車で運び込まれた時が初対面の患者の、精神的な履歴など知りようがないからだ。だからリハビリの程度一つでも、患者当人が判断しなくてはならないものかもしれない。

曽野綾子さん [週刊ポスト]

(参考)日録2003/10/03・04再録 「バカの壁」養老孟司さん

・バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。 

・安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。 

・現代においては、そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。皆が漫然と「自分たちは現実世界について大概のことを知っている」または「知ろうと思えば知ることができるのだ」と思ってしまっています。 

・(NHKは神か)私自身は、「客観的事実が存在する」というのはやはり最終的には信仰の領域だと思っています。なぜなら、突き詰めていけば、そんなことは誰にも確かめられないのですから。今の日本で一番怖いのは、それが信仰だと知らぬままに、そんなものが存在する、と信じている人が非常に多いことなのです。

・今、若い人で個性を持っている人はどういう人かを考えてみてください。真っ先に浮かぶ名前は、野球の松井秀喜選手やイチロー選手、サッカーの中田英寿選手あたりではないでしょうか。要するに身体が個性的なのです。 彼らのやっていることはまねできないと誰でも思う。それ以外の個性なんてありはしません。 

・近代的個人というのは、つまり己を情報だと規定すること。本当は常に変化=流転していて生老病死を抱えているのに、「私は私」と同一性を主張したとたんに自分自身が不変の情報と化してしまう。だからこそ人は「個性」を主張するのです。自分には変わらない特性がある、それは明日もあさっても変わらない。その思い込みがなくては「個性は存在する」と言えないはずです。 (『平家物語』と『方丈記』)脳化社会にいる我々とは違って、昔の人はそういうバカな思い込みをしていなかった。なぜなら、個性そのものが変化してしまうことを知っていたからです。 

・桜が違って見えた段階で、去年までどういう思いであの桜を見ていたか考えてみろ。多分、思い出せない。では、桜が変わったのか。そうではない。それは自分が変わったということに過ぎない。知るというのはそういうことなのです。知るということは、自分がガラッと変わることです。したがって、世界がまったく変わってしまう。見え方が変わってしまう。それが昨日までと殆ど同じ世界でも。 

・意識にとっては、共有化されるものこそが、基本的には大事なものである。それに対して個性を保証していくものは、身体であるし、意識に対しての無意識といってもいい。

(参考)日録2003/10/27再録 「バカの壁」養老孟司さん

・意識は、共通性、自己同一性を求める。自分は変わらないというのは、思い込みにすぎない。そのため、情報を求めようとする。個性教育が、関心のないものへの無視、知識の限定化を生み出す。本来、知るというのは、自分が変わる、成長することだったのだ。「理屈ではわかるのですけど」というのは、嘘つきで、理屈で誰もやらない。体感、体験でやる。腑に落ちないとわからない。その回路がなくなってきた。


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