佐藤友亮_飯田祐子ご家族_

第2回:佐藤友亮さん・飯田祐子さんご夫妻(前編)

 この連続インタビュー企画『困難な子育て』は、武道家・思想家の内田 樹氏が主宰する合気道の道場兼パブリックスペースであり、内田氏のご自宅である[凱風館]の門下生や関係者の皆さんの中で、現在子育ての真っ最中の方々——それもさまざまな職種や立場の——に、個々の子育ての実践やそこから得た知見、子育てにおける想い、子育てをされている方へのアドバイスなどをお話しいただくことで、少子化が先見課題であるにもかかわらず子育てがいささか困難になっているこの国の現在の、「子育てのかたち」や「子育てという営為の本質」について見つめ直していこう、という試みです。
 なお内田 樹氏の呼称については、[凱風館]に出入りしている方々の共通の呼称である「内田先生」に統一します。

聞き手・構成:堀埜浩二(説明家)


 今回お話しをお聞きしたのは、佐藤友亮(ゆうすけ)さんと飯田祐子(ゆうこ)さんのご夫妻。ともに大学で教鞭を執られており、内田先生と長きに渡ってお付き合いされているお2人です。芦屋にあるご自宅にお伺いして、10歳で小学校4年生の長女・仁怜(にれ)さんにも同席してもらいました。

夫:佐藤友亮さん

1971年、岩手県盛岡市生まれ。神戸松蔭女子学院大学准教授、内科医。1997年に岩手医科大学を卒業後、臨床研修医を経て2001年に大阪大学大学院医学系研究科に入学。大学院修了後も、同学で臨床と研究を継続。2012年より現職。大学院在学中の2002年に合気道の稽古を開始。合気道凱風館塾頭(会員代表)、神戸松蔭女子学院大学合気道部顧問。公益財団法人合気会四段。著書に『身体知性 医師が見つけた身体と感情の深いつながり』(朝日新聞出版・2017年)がある。

妻:飯田祐子さん

愛知県名古屋市生まれ。育ちは小牧市。名古屋大学人文学研究科教授。専門は日本近現代文学、日本文化論、ジェンダー批評など。名古屋大学・大学院を経て、1995年4月から2014年3月まで、神戸女学院大学文学部総合文化学科に勤務。2014年4月より現職。内田先生が始めた神戸女学院の合気道部で、1999年から合気道を始め、三段になったところで妊娠、出産。現在は芦屋〜名古屋間の通勤もあるため、合気道はほぼ休止中。著書に『彼らの物語 ―日本近代文学とジェンダー ―』(名古屋大学出版会・1998年)、『彼女たちの文学 ―語りにくさと読まれること―』(名古屋大学出版会・2016年)などがある。


職場近くの幼稚園から、自宅近くの小学校への変化が生んだもの

——お2人がご結婚されたのは、凱風館ができる少し前ですよね。
佐藤さん 祐子は内田先生とのお付き合いも20年を超えますし、凱風館のみなさんの中では私たちが最年長組のベテランチームです(笑)
飯田さん そうですね。子供がもう10歳ですから。

——仁怜さんが3歳ぐらいの時でしたっけ、凱風館ができたのは。
佐藤さん 凱風館は2018年で8年目、仁怜が生まれたのは2008年なので、2歳ぐらいの時ですね。この家も仁怜が1歳の時から住んでいるので、もう10年目です。

——今、仁怜さんが通学している小学校は歩いて通えますけど、以前は佐藤さんが幼稚園まで車で送り迎えをしていたんですね。
佐藤さん はい。位置関係で言うと、芦屋の家があって……。あなたはここに来た時はまだ神戸女学院だったよね。
飯田さん 女学院にいましたね。
佐藤さん 彼女は神戸女学院に通勤していて、当時私は吹田の阪大病院が職場だったんです。ここに越して来たのは2009年ですが、私は2012年に現在の神戸松蔭女子学院大学(神戸市灘区)に移ったので、住吉にある凱風館のすぐ西に、新たな職場ができた。そして仁怜が芦屋の保育園に入れなかったこともあったので、私の職場の近くの幼稚園に通わせることにして、送り迎えをすることになったんです。

——保育園に入れなかったというのは、やっぱり定員で?
飯田さん 最初は私が子育ての経験をいろいろしたいと思っていて、週に2・3日の一時保育でスタートしたんですよ。地元の保育所で。

——女学院の授業がないときは、子供と一緒にいる時間にして。
飯田さん ちょっと公園に行ったりして「公園デビュー」とか。それで仁怜が2歳になる時に、もう毎日でもいいんじゃないかなと思って預けようとしたんですが、そのタイミングではもう入れなくて。3歳になる時には、枠がちょっと増えるから大丈夫かなと思ってたんですけど、落ちちゃって。

——それは抽選に落ちた?
飯田さん 審査ですね。共働きで親も近くに居なかったのに、入れなかったんですよ。もう枠が一杯でダメだった。

——芦屋は、基本的に保育所の数が少ないんですね。
飯田さん とにかく足りてないと思います。私の時には待機児童が150人ぐらい。で、うちは入りそびれちゃって。神戸松蔭女子学院大学のすぐ側の幼稚園は夕方の6時まで預かってくれるので、そこに4歳の時から入れたんです。年中から2年間。
佐藤さん 芦屋でもこの辺りは結構、マンションも多くて、共働きの家庭も多いんですよ。親が会社勤めの人や単身赴任の人、普通のサラリーマン家庭もかなり多いので。
飯田さん 小学校に入ってからは学童保育のお世話になりました。仁怜は朝日ヶ丘小学校に通ってるんですけど、学童に行きたい人はみんな入れていると思います。今は6年生まで受け入れるようになっているんですけど、ただ芦屋でも岩園とか希望者が多いところでは、高学年で入れない子供がいたり、子供が多くて2クラスになっていたり。
佐藤さん 芦屋は小さいんですけど、場所によって結構偏りがあると思います。仁怜が通っている朝日ヶ丘小学校は1学年2クラスなんですけど、岩園はいわゆるブランド小学校で、建物も新しくて、クラス数もかなり多い。

——少子化で小学校がどんどん統合されていく一方で、ブランド小学校に人気が集中していますから。この辺りでは岩園ですか。マンションや家の広告などでも、「岩園小学校区」というのは大きな売り文句になっていますし。
飯田さん 同じ公立の小学校なのにね。
仁怜さん 岩園は6クラスもあるの。

——小学校で1学年6クラスっていうのは多い方で、今では珍しい。
飯田さん 朝日ヶ丘は1学年2クラス。一つ上は3クラスありましたけど。
佐藤さん 今年の1年生は、確か3クラスだよね。
飯田さん でも仁怜の一つ下の学年は、もっと少ないよね。
仁怜さん 1学年で50人ぐらいだけ。

——50人で2クラスだと、かなりゆったりしてますよね。我々の時代は50人近くまで1クラスに詰め込んでましたから、教室がかなりギュウギュウの状態で授業を受けてました。1学年で4クラスあったので、小学校の生徒数は1,000人を超えていた。
飯田さん 仁怜たちは1クラスで30人くらいかな?
仁怜さん 32人。

——ということは6学年で300人前後ですか。それぐらいだと先生も、わりと生徒みんなの顔を覚えられますね。
仁怜さん 370人。
佐藤さん まあいろんな事が重なった結果なんですけど、うちは共働きで近くの保育園に行けなかったから、僕の職場の近くにある、自宅から十キロ離れた幼稚園に通わせていたわけで。だから幼稚園の頃は、仁怜には近所の友達ってほとんどいなかった。夜も、私が仕事を終えて迎えに行ってから家に帰ったらもう6時過ぎだし、週に1回のバレエ教室に行く時ぐらいしか、友達と逢わないので。それが小学校に入り出したら急に、「こんなに近所に子供がいたのか!」って。うちの家はY字路の交差する通学路なので、うわっと子供たちが帰って来てうちで遊んで行って。
飯田さん もう、みんなで「うわぁ〜」って行って、「うわぁ〜」って帰って来ます。
佐藤さん 学校で約束してから遊びに来る子もいますけど、帰りにそのままこの家に寄ったり、「今日遊べる?」って電話して来たり。私たちのどちらかが家にいる時は、このリビングで自由に遊ばせています。もはやここは、子供たちの溜まり場みたいな感じ。

——他のお家にも、そんな感じで集まるの?
仁怜さん 他所のお家には、あんまり行かないかなぁ。
佐藤さん うちのリビングでは子供たちに自由にさせていますから、気を遣わないのが良いんでしょうね。その辺り、子供は敏感なのかもしれません。
飯田さん 仁怜は家にランドセルを置いて、お家に帰る子にくっついて行く事もできるし、通学路の途中に家があるから便利ですよね。あと、やっぱり学童。学童で本当に仲の良いお友達ができたので。長い時間一緒にいるし、学年を超えて遊べるし。

——学童は毎日ですか?
飯田さん 毎日です。土曜日もあります。通常は5時までで、延長したい人は7時まで預かってくれる。だからすごく助かりましたね。朝日ヶ丘小学校は、学校の中に学童があるんですよ。外に出ないで「おかえり」って迎えてもらって、そこでわいわい遊んでるって感じ。

——上の学年になったら下の面倒をみないとっていうようなセンスも、わりと自然に身に付いてくるし。
飯田さん そうそう。下の子と遊ぶのが好きとかっていうような事を、今でもよく言います。
——小学校の1年生から6年生って、大人と子供ほどの違いがありますからね。

「学校」の役割は、どこへ向かうのか

——今は大きな流れとして、学校で授業以外のことはあまりしないようにとか、クラブ活動なども学校外ですべきだとか、学校の役割も変わってきているような話をよく耳にしますが。
飯田さん どうなのかな? 親からクレームが来るのかもしれませんけど、校庭で遊ぶ時間や校庭の開放日は決まっていますね。長期の休みの時は平日も校庭を開放していません。そういう意味では、管理しないといけない雰囲気はあるんだと思います。

——校庭の開放日には、先生が見ているんですね。子供たちに介在はしないものの、様子は見ていて、何かがあった時には連絡するとか。
飯田さん たぶん誰かが付いているんだと思います。学童は、学童保育の資格のある人が見てくれます。その資格取得の要件がかなり緩くなるという話も出ていますが、学童は経験を積んだ資格のある人が見てくれているというところが良いのにって思うんですけど。あともう一つ、「キッズスクエア」って名前が付いている、学童じゃないけど5時まで遊べるっていう制度もあるんですよ。学校の中で学童とは別に。そっちは特別な資格は必要がなくて、見守る立場で大人が付いてくれています。
佐藤さん 公立の小学校なので、市役所の中で管轄が違うんじゃないかと。
飯田さん 学童の方は預ける費用も結構かかるんですよね。でもキッズスクエアの方は、子供を遊ばせているのを大人が見ているってところだから、保険には入るんですけど、かかるのはほとんど保険料ぐらい。なので、気軽に遊びたい人が「遊びたいです」って登録だけしておいて、遊んでもいいし遊ばなくてもいいし。

——学童はやっぱり「保育」ですからね。
飯田さん そうです。毎日ちゃんと行って、学童のイベントとかもあったりして、保護者の連絡会っていうのもあるし。毎日一緒に過ごすってことがすごく大事にされているんで、かなり質も違うんですよね。

——我々の子供の頃は、見事に放ったらかしでしたもんね。授業が終わったら、学校の何処に行こうが自由で。探検と称して屋上に上がったり、学校の中あちこち行ってたし。先生たちがお茶の時間にタイミングよく職員室に行ったら、おやつにもありつけたり。焼却炉もあって、冬場は当番制でゴミを燃やしてましたし。今となっては考えられないルーズさだった。

合気道とお酒が繋いだ「自然なご縁」から

——少し時系列を遡りましょうか。飯田先生は、内田先生が女学院で「合気道部を作ります」とスタートしてから、すぐ合気道を始められたんですか?
飯田さん いえいえ。私が‘95年に女学院に来た時にはもう合気道部はありましたけど、当時は時間のない生活をしていて。‘99年に合気道を始めたんですけど、そもそものきっかけは合気道部に松田先生っていう先生がおられて。松田先生はご自身が合気道をやりたくて、内田先生に「合気道部を作ってください」と頼んだ発起人的な方なんです。その松田先生と2人でお話しする事があった時に、「合気道部はすごく面白い」って薦めてくださって。お話しを聞いたら面白そうだったんですけど、同僚の先生がやっていらっしゃるのに、もし性に合わくて気まずくなったらどうしようかな……と思いもして。内田先生が学生向けの合気道の授業も持たれていたので、そっちなら14〜15回出て終わったところで「ありがとうございました」と言うこともできるので、その授業に出ることから始めました。
 前半は講義で、武道の考え方などを教えてもらうんですね。「居着く」というのはどういうことか、とか。それがすごく面白くて、後半になっていよいよ実地の稽古が始まるんですけど、その頃には道着も買ってくださっていて、そのまま合気道部に入りました。結果、すごく性に合って面白かった。

——教員も部活の部員になるって、大学では一般的なんですか?
飯田さん いや全然、一般的じゃないと思いますよ。女学院では事務の方とかも合気道部に入っていたけど。
佐藤さん そこが合気道の特殊性だと思うんです。試合をするわけでもないし、試合をするための練習期間とか、誰がレギュラーになってとか、そういうことがない。お稽古そのものが活動の中心になっているので、いろんな人が入りやすくって、自分のペースで続けられる。内田先生がああいう方で、門戸を広げているから可能なことだったんでしょうけど。

——合気道部って、部活動と言いながらサロン的な感じなんですね。知らなかったら、合気道部=スポーツクラブで、何らかの大会があってそのために頑張るみたいなイメージがあるかも。
佐藤さん 僕も今、勤務している神戸松蔭で合気道部を作りましたけど、事務の方とか同僚の教員、あるいは留学生なども一緒にお稽古しています。合気道は体系としてやりやすいところがありますね。全員一丸となるような、アメフトなどとは違いますからね。

——合気道を始めたのは、飯田先生の方が早かったんですね。
飯田さん そうです。私の方が早く始めた。
佐藤さん 僕は2001年に大阪に来たんですけど、毎月、豊中の病院に当直に行く時に雑誌の『ミーツ・リージョナル』を買って読んでいて。当時、内田先生が「街場の現代思想」を連載していて、面白いなぁと思っていた。そのプロフィールに神戸女学院大学教授ってあって、ホームページも記載されていて。で内田先生のホームページを見たら、「生まれて最初で最後の講演をやります」ってアナウンスがあったんです。僕はまだ内田先生に会った事がなかったけど、「最初で最後の講演を高砂市でやります」っていうんで、このチャンスを逃す手はない、と仕事を休んで行った。僕は当時大学院生だったんですけど、医学部の大学院のお話しをされたので、ちょっと質問したんですね。そしたらご縁ができて。

——内田先生が今のような「お立場」になる以前のお話。
佐藤さん その時の講演は「対話するスキル」というタイトルで。今ではあまりお使いにならない言葉ですけど、まだその時は人前で話すことを「スキル」とかという感じで、ご自身で持たれているものを提示されていた。

——その時は内田先生ご自身も、本当に「最初で最後」と思っていたんでしょうね。
佐藤さん 今となっては笑い話のような。で、講演会の後でメールを送ったんですよ。「今日のお話は面白かったし、いつも楽しく読んでいます」と。そして最後に一言、「合気道は試合をしない武道だと聞いた事があり、ちょっと興味あります」って書いたら、内田先生からすぐに返事をもらって、「合気道に興味おありなんですか? 芦屋の道場でやっていて、アクセスはこうこうで。どうぞ」って(笑)

——お誘いをお受けしないわけにはいかない感じになった(笑)
佐藤さん それが2002年の11月だったんです。最初に道場に行った日は土曜日で、その日は内田先生じゃなくて松田先生の代稽古だったんですけど、僕は合気道そのものに興味があったので見に行って。その時は、彼女は日本に居なかった。
飯田さん 私は2002年の8月から2003年の8月末までの13ヵ月、学校に休みをもらって、スタンフォード大学に行ってたんです。

——スタンフォードには勉強に?
飯田さん 一応、研究がメインで。ちょっと教えたりもしましたけど。まあとにかく、1年休みを取って、アメリカに行ってみようと思って。入れてもらえるところをあちこち探した中で、スタンフォードは教える期間もくれるって話だったから、いろいろ経験できていいかなと思って。アメリカに行ってる間に、内田先生のブログで、佐藤さんって人が道場に入って来たことは知っていたんです。で日本に帰って来て道場に行ったら、「あぁ、あなたが佐藤さん。飯田です」って。道場のみなさんが飯田先生って私の事を話しているのをこの人も聞いていたから、「あぁ、あなたが飯田さん。佐藤です」って。

——そこから飲み仲間になった。
飯田さん そんなにすぐに仲良くなったわけじゃなくて、何年かしてからですね。結婚したのが2006年。女学院で毎年行っているスキーにも来ていたので。内田先生が「お医者さんも居るよ」って、この人を連れて来て。
佐藤さん 当時は内田先生も独身だったし、合気道のコミュニティは神戸女学院の人が多かったので、女性が多くて。僕も独りだったし、内田先生は数少ない男性メンバーだった私を、とても気遣ってくださいました。女性の方たちも、稽古仲間としておおらかに受け入れてくれてありがたかったです。

——ドクター、ドクターって…。今となっては凱風館の周りにドクターがたくさんいますけど。
飯田さん 私もその頃はかなり飲んでいたから……。内田先生のご自宅でみんなで騒いだあげく、帰れなくなって泊めてもらったりとか(笑)

——もう今は、そんなに飲まれない?
飯田さん もう全然。仁怜を産む時に、お腹に赤ちゃんが居れば飲めなくなりますよね。出産してからはちょっとは飲んでいたけど、たくさん飲む事はもうなくなって。それからちょっと眼を悪くして、飲んで二日酔いになると眼が痛くなったりもするので。そういうことがいろいろと重なって飲まなくなって、今は飲まなくてもご飯が美味しく食べられるようになりました。昔はご飯の時にお酒がないなんて、考えられなかったんですけど(笑)。

——まだまだ先の話ですけど、仁怜さんにも一応、酒飲みの血が流れている。
飯田さん この人は絶対飲めると思いますよ(笑)
佐藤さん お酒のアテみたいなの、ほんと好きだもんねー。
仁怜さん (照)

——女の人はお腹に赤ちゃんが居る時は、基本的にはお酒もタバコもダメになって、子供が出来たと分かった時から、自分の今までの生活のベースが変わってしまう。
飯田さん でも産むまでは、大人だから自分で食べものや体調のコントロールも利くし。私は臨月まで教壇に立って、仕事もしていましたし。産んだ後ですよね、全然思っていたようにいかなかったのは。これほど生活が変わるとはって、ビックリしました。

——言葉で何かを伝えることができない、「理解を超えた他者」が登場したわけですからね。
飯田さん 交渉できない相手と暮らすっていう。こっちがひたすら合わせて行くしかないような生活は、初めてだったので。

——何を欲しているかもよく分からない、ただ泣くだけで。でも繰り返しているうちに、「今泣いているのはこれだな」と、少しづつ勘所が分かるようになってくる。そこが子育てを経験することで、学んでいく部分なんですよね。
佐藤さん 自分が変わっていくしかないわけですから。そういう意味では、彼女も私も、合気道を通じて身体やコミュニケーションについて考えたり実践したりしてきたことが、かなりプラスになっていると思います。僕の場合、仕事や家庭生活は、合気道をするときの心身状態と地続きになっているなと思います。

中編に続く)