見出し画像

母親こと”かーはん”の話

先日、令和元年8月19日昼頃に母親(かーはん)が永眠しました。

19日の朝に実家京都帰り、今日までいろいろな事があり、また自分自身もまだ心の整理が出来ていないところもありますが。。。取り急ぎやるべきことが一区切り終わりました(アニキに、他の部分を全部引き継ぐ形になり申し訳なかったのですが)ので、自分自身の気持ちを整理する事も含め書きたいと思います。

少し長くなりますが、経過の話をします。

私は、実家京都にて学生まで過ごし、それから関東で働いています。そう家族は、両親と兄姉私と3人兄弟の次男です。兄姉とも所帯を持ちそれぞれ大阪に住んでおり、私一人が独身で、神奈川にて気ままに?一人暮らしをしており、毎日忙しく仕事をしております。その為、ここ10年は、大型連休しかもともと帰省しておらず、GWは社内の研修旅行を、夏は両親と旅行(顔見世なら京都に帰らなくても旅行で会えばいいのではという考えから)そして、冬年末年始は、友人との飲みもあり、実家に帰るという感じで、年に1週間ほどしか京都に帰っていませんでしたし、両親とも10日~2週間ほどしか会っていませんでした。兄弟に至っては年に1回あるかないかぐらいしか会っていませんでした。

そんな中。。。

実は母が病気を患ったのは3年(2年数か月?!)前、もともと糖尿関係で血糖値を気にしており、食事と運動でこれまで抑えて来ていたのが、そのころ、どんなに頑張っても数値が落ちず、何かおかしいという話になり、膵臓に何か異変があるかもしれない(癌かもしれない)という話を毎年夏に行っている旅行の初日に母から聞かされました。母はこれまで大きな病気にかかった事もなく糖尿だけを気にしているぐらいでした。なので、旅行から戻ったら検査する事になっているとの話を聞き心配していました。

検査の結果、早期の癌という事が分かり、切除すれば治るとの事で、手術をする事になりました。9月に手術、それも何とか無事終わり、10月10日体育の日に退院、その後、予防の抗がん治療をする事になり、そこから半年、体調も良好で無事半年が過ぎ、少し安心しかけたところ、定期検査で、ある数値が高い事が分かり、再度精密検査をしたところ、昨年の7月、肝臓に転移している事が分かりました。そう、これは肝臓癌ではなく、膵臓の癌が肝臓に転移して出来た癌ということで、転移した膵臓癌という事になるそうです。

その時、実は、兄と私は、担当医に個別で呼び出され、「統計は統計としてありますが長く生きれるのか、それよりも短くなるのかはわかりません、覚悟をしてください」と言われました。正直その時の母親は元気そのもので病人とも思えないぐらいでした。なのでその時に「あんなに元気なのに、覚悟しないといけないのですか??どうする事も出来ないのですか??」と詰め寄って聞いたことを覚えています。ただお医者さんも「この種類の癌は、抗ガン剤が少なく、対処が難しい」「なのでこれからの時間、生きれる時間を大切に、一つ一つの四季を、正月などを、家族で一緒に過ごしてあげてください」と言われました。その話を父親には後ほど話しましたが、父は信じられない様子で、また現実として受け入れてはいなかったです。

そこから、改めての闘病生活がはじまり、抗ガン治療をする為、予定していた東北の旅行をキャンセルし、近場にてして、その治療に備え、そして、私と兄は、抗ガン剤治療以外で出来る限りの治療(抗ガンで難しい場合、それに代わるような治療や和らげる治療がないかと探し)がないかを模索し、宝塚にあるマイクロ波の治療を知人より紹介され、その治療を試みることになりました。

ただ保険のきかない治療にて子供たちに費用負担がかかるのをよく思っていなかったかーはんは、私の勧めでは断り続け、兄からの説得でようやく治療をしてくれることになりました。そして、兄を中心に兄弟で付き添いながら通うようになりました。京都から宝塚片道2時間ぐらいを月に3~4回ほど行くことになりました。

そこからの抗がん治療とマイクロ波の治療が半年間続きました。抗がん治療は副作用が起こるとの事でしたが、マイクロ波の治療もあってか、手足の痺れは多少あったものの、下痢や腹痛、嘔吐とは特になく治療をすることが出来ました。(ただ女性にはつらかったと思いますが髪の毛が抜け、カツラや帽子で暑い中過ごさないといけなかったのは少し辛そうでした。)

そして、一時抗がん治療で癌も収まりつつあるとの報告を聞き、少し安堵していましたが、昨年の年末、12月の末に病院より、数値の上昇と抗がん治療の効果がないとの話があり、急遽、実家に戻ってきてほしいとの連絡がありました。そして病院と話し合った結果、その当時、母の転移は珍しい事に肝臓だけだった事から患部だけを集中的に抗がん治療するカテーテル治療が出来るかもしれないとの事で大阪吹田の病院を紹介され、次の日に訪問、そして正月明けすぐにカテーテル治療をして頂けることになりました。そのカテーテル治療は3週間に一度の治療にて、数日の入院しての治療になる為、私も当初は何度か車で送り向いをして、治療にあたっていました。そして、その治療も半年、一時的に効果が見られましたが、最終的にはGW前で治療の効果が得られないとの事で治療が終わりました。その後を病院より温熱治療を紹介され、この7月まで行っておりました。

それまで、多少治療の関係もあり、つかれているところはありましたが、比較的元気に過ごしておりましたし、7月も両親と神戸の街や箕面の滝へ歩いて観光をしていました。そんな様子でしたので、私自身、しばらく病気の事を忘れていたわけではりませんが、少し安心して自分の生活に集中していました。

そんな中、この8月、別のプライベートの予定で実家に立ち寄った時、いつも事前にメールを入れると必ず返事が変えてくるかーはんから返事がなく、少し心配していたのですが、戻った時具合が悪そうで寝込んでいました。そう、7月私との観光に出かけたあと、急に具合が悪くなり、薬等を追加で飲むようになったぐらいから、ご飯が食べられなくなったようで、その影響で歩くことも出来なくなったとのことでした。8月の夏季休みでは近場で旅行する事になっていましたが、そのことも含めてだと思いますが、かーはんから「今度帰ってくるときは、覚悟してもらわないといけないかもしれない」と言われました。その日は励まし分かれたのですが、夏季休みの旅行、明らかに体調が悪かったのですが、行くことになり、岡山蒜山、京都城崎に行きました。特に城崎からは兄と姪っ子が来ることになっていましたので。。。とにかくこの旅行は、かーはんも体調の悪い状況での旅でしたので、本人もまわりも辛かったのですが、その中でも普段、食の進んでいなかった母親がご当地のトウモロコシ、焼き魚、果物を多くは食べれないなりに食べてくれ、また姪っ子とも何とか一緒にお風呂も入ることが出来きたようで、あとから「連れて行ってくれてありがとうね」と言ってくれました。

それから、神奈川に帰り、仕事をしていましたら、兄からかーはんの入院の話と調整が取れるなら帰ってきてほしいとの連絡がちょうど先週ありました。その時、先日帰省した時「眠るのが怖い、もう目が開けられなかったら怖い」、「また入院したら家に帰れないかもしれない」と言っていたのを思い出し、そして仕事を調整し19日の早朝京都へ。病院へ着くと、すでに会話ができないくらいの状況になっていました。その後医者からは数日、数時間単位での話を聞きましたが、実際は、その数時間後、家族に見守られながら息を引き取りました。本当に突然でした。あれよあれよの出来事です。

私は関東で仕事をしている以上、親の死に目にはいれないかもしれない覚悟は常に持っており、今回も覚悟はしておりましたが、兄の連絡で何とか最後の時間を一緒に過ごせ、看取ることが出来ましたので、その点についてはよかったです。

その後は、葬儀の事、今後の事、各種手続きを。。。特に今回、家の大黒柱にて家の事をほとんどしていたかーはんがなくなったとの事で、残される父親(とーはん)のこれからについて、兄貴と話し合い、そして、とーはんともよく話しました。

そして、濃い濃い怒涛の1週間が終わりました。

長くなりましたが、

実は、この2~3年は、橋本の家にとっては、かーはんの病気をきっかけに濃い期間でした。そして、これまでバラバラ(実際はバラバラではないのですが各自忙しく、それぞれに関われなかったというのが本当の話です)だった家族が、今一度この2年で結束して、かーはんの闘病に立ち向かいました。今から振り返ればあの時こうしていればとか、もっと会いに帰ればとか、親孝行していればと、思う事はありますが、過去は過去として、その時その時、最善の事をやり切った気持ちはありますので、後悔はしていません。家族のみんなも同じ気持ちだと思いますし、その気持ちをもって、最後まで見送るが出来ました。

ただ後悔とは言いましたが、やはり心残りはあります。兄は姪っ子の成人式の姿を見せたかったと言っていました。私は、自分自身に問題があるのだと思いますが、人生の伴侶を紹介できなかった事、また、病気が分かった時に行けなかった青森?の奥入瀬渓流に連れてやりたかったという2点です。

でもやっぱり居なくなったことは寂しいですし、悲しいですし、やっぱりつらいです。この1週間は人目もはばからずよく泣きました。それだけ私にとっては大きな存在でした。

そう、私にとって、かーはんは偉大でしたし、ホント優しく、愛情いっぱいに育ててもらったと思います。特に私は末っ子で、他の兄弟よりも少し年が離れている関係で、色々な面で甘えていたと思います。ほんとこの人の子供でよかったと改めて思いますし、その頑張る姿勢は、今も心の残っています。学生時代、朝ご飯を食べない私に毎日紅茶を作ってくれたり、高校の昼休み自宅でご飯を食べていましたが、いつも大盛りの焼き飯を作ってくれていました。大学の試合で早朝近く家を出るため、「寝てていいよ」と言っても、必ず起きて、紅茶をつくってくれて見送ってくれました。就職して、初めて京都を出ることになった時にも、別れ際に、涙ぐまれ、困った事もあります。ほんと私の事を心配してくれていたのだと思います。父の家系はどちらかと言いますと少々粗く、そして不器用で人懐こいところはありますが、母の家系は優しく人情味があります。その両方の血を受け継いでいる私ですが、そんな私でも、かーはんのやさしさにびっくりする事があり、それも家族だけでなく、まわりの人にも優しくて。。。とーはんも、たまに「仏さんのようなあんたの考えについていけない」とあきれるほどです。

そんなかーはんが一番優しく、気にかけているのが、もちろん、とーはんでした。特に病気になってからは献身的で「たまにそれぐらい、とーはんに自分でしてもらったら?!」と伝えたところ、「いま病院とか迷惑をかけているし、自分にできる時に、出来る事は、出来る範囲でやってあげたいねん」と言われた時に、二人の強い関係を感じましたし、かーはんが闘病で頑張っていた理由もとーはんにて、よく私と2人で話していた時、病気の話もありましたが、とーはんの心配と「このままやったら安心できない、あと少なくとも5年、いや、2,3年は最低でも頑張って生きなあかん!!」とよく言っていました。それがモチベーションになって頑張ってくれていたようです。とーはんにその話をしたら、涙ぐんでいましたし「なんで約束守らないんや」と、力なくぼやいていました。

それ以外にも、私が生まれてほぼ48年、多くの事や時間があるため、上記のように勢いで書き込んでしまいましたが、なかなか、伝えたいこと、話したいことのすべてがすべて語れませんし、まだ整理しては正直話せません。

また、実際、この数年、覚悟しながら過ごしていた期間の中で、かーはんの急な別れに、戸惑いと心の動揺、気持ちの整理が出来ていませんし、未だに現実か現実でないのか、不透明に感じる事がありました、なので通夜、告別式でなぜか客観的に見ている時があり、不思議な気持ちになりました。

ただ、荼毘に付され家に帰ってきたかーはんをみると、現実と今後の事を考える自分があります。なのでかーはんについて話したいことはまだまだありますがこれ以上悲しんでいても喜ばないと思いますので、そろそろ気持ちを自分なりに現実に戻して、頑張らないと思っています。

長々となりましたが、人生の節目、この瞬間に感じたことを書き込んでおきたいと思いましたので、なぐり書きのような内容で、読みにくいところやよくわからない表現もあるかもしれませんが、何卒ご容赦頂けましたらと思います。また、気持ちの整理が出来ましたら改めての機会にて、家族の事、かーはんの事は書きたいと思います。

橋本 和聡

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?