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書いてるのは、存在してるものではなく、「存在してほしいもの」


写真はそこに存在している
世界じゃなくて、
撮る人が「こうあってほしい」
と思う文学の世界だから、
国民性みたいなものも見えてくるんだ。

「カメラは、撮る人を写しているんだ」
ワタナベアニさん

・日本では、ポートレイト機能が好まれる」
・それは、背景に映る電線やビルなど、
 映ってほしくないものを避けるためであり、
 日本は都市美観が、海外ほどに整って
 いないから

という理由で語られています。

最近、写真を撮る友人に教えてもらったので、
ポートレート機能を当たり前に使ってました笑

無意識、ってこわいですね。
そして文字通り、「背景」を
考えることは面白い。

noteに置きかえてみると、

「書く人が、書いているものは、
 『こうあってほしい』という世界(観)
 を投影している」

「そこに存在しているものを書く
 のではなくて、
 存在してほしいものを書いている」

んだなあ、と、
ハッと目を見開きました。

小説、エッセイ、ノンフィクション、
にしても、
きっとありのままではなくて、
ありのままにも書けなくて、
その行間にある、
その書き手なりの、理想があり、
それを読み紐解いていく余白。

が。楽しかったりするんだなと。
そこにこそ、の面白さ。

写真は選択で、選択とは弾丸の積み重ねでもある。
自分が好きなものはこれだ、
絶対にこれは嫌いだ、と
断言することで自分の考えをきつく縛る。

同上

選択とは捨てること。

キツく縛るのは苦しいけど、
本当に面白いもの、
伝えたいことが明確で、新しい発見があるもの
は、
とかく、「断言」であり、
「捨てられたもの」が膨大にあるはず。

「あれもこれも」と、
欲張った足し算の文章ではなく、
断絶されて残った引き算、割り算のあまり、
のようなところにこそ、
美しさがある。

そのためにも、
「書きたくないこと」
を明らめることから始めたい。

写真をはじめとした創作活動のほとんどすべてが
「精神」によってできているんだから当然のことさ。
その人の精神が
「何をしようと思ったか」で
創作物は最初から決まってしまう。

同上


せいしん。
自分はあるだろうか??

正直今はない。
いや、あるんだろうけど、見えてない。
書く中で、足していくのではなく、
削って削って磨き上げたさきに、

コレという精神

みたいなものが、見える予感はしています。

今日もお読みいただきありがとうございます。

写真は、毎朝の通勤道にある鉄塔。
の、先。複雑だけど、整然としてる。
それがなにか、自分の心を写してる、
としたら、

「複雑だけど、整然としていたい
 葛藤と、葛藤の先の自分のありたい姿」
かな。

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