手を伸ばせば届くのに…

 京都で一人暮らしを始めて8ヶ月…初めて、誰かと一緒に京都の街並みを歩いた。家族旅行の旅行先としていつも候補に挙がっていた京都、そんな観光地に住んでいるにも関わらず、8ヶ月間、一度も観光らしきものをしていなかったのである。なぜかというと、理由は大きく2つ。
 1つ目は、研究会や課題、アルバイトで忙しくしていたから。私は、何もするべきことがない時間をつくることが苦手らしい。忙しくしている方が頑張っていると評価されると思っていて、進んで時間外労働や残業をしてしまう人間に分類されるようだ。
 2つ目は、一人暮らしに中々慣れず、身体と心の調子を崩してしまい、エネルギーチャージのために、頻繁に岡山に帰省していたから。2つ目の理由の方が私にとっては大きい。一時は、岡山から通学することも考えたくらい。身体と心の調子を崩した理由はたくさんあるが、大きな理由の一つとして、何事も完璧にしようと頑張りすぎたことがある。自炊、学業、アルバイト…私のInstagramのおすすめ欄には、人気インスタグラマー様の日々の健康的な食事の投稿で溢れている。誰が何をどのくらい食べて生活しているのか、節約のためにどんな工夫ができるのか…一人ひとりに合った生活習慣があるはずなのに、それを無視してすべてを一気に頑張ろうとしてしまったのである。
 一日三食すべて自炊。そのうち一回はお弁当なので、作り置きも数品。食物繊維と野菜中心の食事を心がけた。既製品や化学調味料は身体に良くないという知識から使わず、塩麹やお味噌、醤油などの発酵調味料と呼ばれる世間的に身体に良いとされている調味料だけを使った。食材を買うときも、事前に買い物リストを作ったり、いくら使ったかをメモしたりするので、必要最低限で済ませる。「あれ食べたいな」と思っても、無駄なものだと言い聞かせ、できるだけ買わないようにした。また、運動も意識的に行った。そんな日々を繰り返しているうちに、十分な栄養が足りず、キビキビ動く身体と心からの笑顔を失った。何かをやりたいという気持ちが湧いてこない、こんな経験は初めてだった。現在は、心身ともに回復してきており、自分がやりたいと思うことに一生懸命に向きあえる心と身体を取り戻そうと頑張っている。
 周りの友達は一人暮らしができているのに、何で自分は高い交通費を払って岡山に帰らないといけない状況になっているのか分からなかった。自分を責めまくった。誰にもこんな恥ずかしい悩みを相談できずに、悶々とした日々だけが繰り返し過ぎていく。自己嫌悪という言葉では片付けられないほど、情けない気持ちで心が埋め尽くされた。なりたい自分になれていない事実を認められず、そんな自分が周囲からどう思われるのかを常に気にした。一番気になったのは、家族からの評価である。情けないと思われていないか、手のかかる娘だと思われていないか…できない「私」だと思われたくなかった。優秀で何でもできる「私」でありたかった。どうしてこんな自分なんだろう、自分はどうしたいんだろうと常に考えていた。
 そんな私に手を差し伸べてくれたのが、45歳の同級生。彼は現役の教師で、後姿が少しだけ父に似ている。私の語りを引き出してくれた。私は思いっきり語った。すると、「あなたはあなたのままでいい」、「私は今のように自分の思いを素直に語れるあなたが結構好きですよ」と伝えてくれた。私の叔父と同い年の男性に好きと言われたことへの驚きよりも、「私が私のままであっていい」と言われたことへの驚きの方が大きかった。そして、自分の言葉で語ることの高揚感を思い出した。私には語れるものがある、語れる言葉がある。そう思うと、自分の思いを必死に誰かに伝えようとしていた昔の私の姿を思い出した。何をやっているんだ自分は…なりたい自分は「食」に執着する私ではない。希望を持って教育について学び、語る私ではないか、自分のやりたいことに素直になれる私ではないかと気付いた。一人ひとりに大事にしたい軸がある。すべてを完璧にはできない。だからこそ、自分は何がしたいのかに素直になると、自然とバランスが取れるようになってくるのではないか。心に聴こう。「あなたはどうしたいの」、「何がしたいの」と。そして、言い聞かせてあげよう。「あなたはあなたであって大丈夫」と。
 昨日は、その同級生とデートに行ってきた。朝7時に最寄り駅に集合。久しぶりのデートに気合が入った彼は、朝から手羽元をポン酢で煮て食べたらしい。誰も聞いてないのに色々教えてくれる。語るということは、聴きあう扉の入り口を叩く勇気のいることだと思う。でも、その一歩を踏み出せば、そこには語り、聴きあい、分かろうとする関係が生まれる。
 まずは念願だった「嵐山」。竹林の中で写真を撮った。ピースは頬にくっつけて人差し指と中指を少しだけ離すのがこだわりらしい。「京都のいいところは咲いている花で季節の移り変わりが分かるところ」だと彼は言う。春は桜、夏は向日葵、秋は紅葉、冬は山茶花と椿。それを聞いて、これからも四季を感じられる日本であってほしいと強く思った。次に訪れたのは南禅寺。紅葉の美しさに自然と笑顔が出る。上を見上げれば水色の空。少し寒かったけれど、心は紅葉と同じ色。最後は永観堂。時間ギリギリであきらめればいいのに、ここまで来たらと欲が出て行ってしまった。おかげで美味しそうなおばんざいランチはあきらめて、少し敷居の高いスーパーで少し高いお弁当を買った。京都で初めて買ったお弁当は、野菜の味噌だれ丼とかぼちゃのキッシュ。後ろの原材料表示を見ないと買えない私の隣に何も言わずにいてくれた。何も聴かないことに助けられた。歩いた距離は19キロ、歩数にすると3万歩。本当に楽しかった。何も買っていない、ただ紅葉や山を見て、水の流れる音を聞いて歩いただけ。贅沢な楽しみ方だと思う。
 8ヶ月間、京都に住んでいるという感覚が持てなかった。どこか見知らぬ土地に置き去りにされたような感覚。大学院までの行き帰りの道は自分の足で歩いているというよりも歩かされているという感覚だった。でも、昨日は違った。歩きたいと思って歩いた。自分の足で歩いた。安心できる居場所を一つ見つけたのかもしれない。noteに書いている今、頭の中に昨日の様々なシーンが思い出される。こんなに楽しく美しいものがこんなにも近くにある。もっと知りたい、感じたい、味わいたい。手を差し出してくれたその手に自分の手を伸ばしたからこそ知れた誰かと過ごす時間の尊さ。今まで見えていなかった京都の魅力。自分が幸せであるということ。
 さあ、もう大丈夫。私がワクワクすることは私の心が知っている。それに素直になっていいんだ。そう思わせてくれる彼にこれからも金魚の糞のごとくついていこうと思う。次はどこに行こうかな~。そして、連れて行ってもらおうかな。


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