小学校で子どもと過ごすことから思うこと❁

 あっ!今日はこれをnoteに書こう!そう思える瞬間に出合えると思考がフル回転する。
 今日は、ある小学校にボランティアとして入った。
担当学年は3年生。子どもと過ごす時間が大好き。わざわざ目の前まで来て、にこっとして「白神先生、おはよう」と言ってくれる子ども。「あっ、先生!今日はメガネしてないんだね。」と伝えてくれる子ども。話しかけてくれることが嬉しくて、その度ににんまりと口角が上がる。休み時間もうろうろしていると、「白神先生、ドッヂ入る?」と誘ってくれる子ども。「いいの?」と言うと、「白神先生もやるらしいよ~」とすぐにみんなに知らせてくれる。私が逆上がりに挑戦していると、「できんのん!?俺も逆上がりできん」と隣で一緒にやり始める子ども。俺はできるという雰囲気やったから…「できんのんかい!」と心の中で突っ込む。子どもが生きている瞬間にともに私も生きている。それを端々に感じて、私も「必死」で生きたいとついていく。本気で生きるって面白い。

 休み時間のあと、ある子ども(Iさん)が急に泣き出した。何があったか分からないので、周りの子どもも私もおどおど。すると、ある一人の子ども(Kさん)がすっと隣に来て、顔を近づけて背中をさすり始めた。おお~と思ったけど、何も言わずに見守っていた。すると、担任の先生が「Iさん、何があったの?今話す?後で聴こうか?」と尋ねた。Iさんは、「後で話す」と一言。担任の先生は、「Kさん、Iさんは大丈夫やから、席に戻ってええよ」と言った。しかし、Kさんは席に戻らず、地べたにあぐらをかいて座った。動かない。「Kさん!そこに座る意味ないよな。早く自分の席に戻りなさい」と担任の先生は大きな声を出した。すると、Kさんが小さな声で、「意味はあるよ」と言った。私にもその意味は分かった。
 Kさんは泣いている子どもを見つけると、すぐに駆け寄って寄り添い続ける。彼の素敵なところだと思う。そんな彼にとってそこにいることは意味があることなのだ。私は、Kさんに「その意味は私も分かるよ。ただ、担任の先生がノートは書いたらって言ってるから、書く?どうする?」と尋ねると、ノートを取って来て地べたで書き始めた。彼にとって勉強することは2番目なんだと思った。
 4分後、担任の先生がやって来て、「Kさん、優しいな…その優しさは分かってるで。でも、Iさんが大丈夫って言っているから、席に戻って自分の机で書き。書きにくいやろうし。」と言った。すると、Kさんはすくっと立ち上がって自分の席に戻った。この数分でたくさんの感情が湧き出てきた。担任の先生に「地べたに座り込んだ意味」が分かってもらえてよかったね。こうやって、目の前の行動をそれに至るプロセスを辿って捉えることを大事にしたい。そのプロセスに向きあえる教師になりたい。「みんなの学習権を保障する」ことと「一人ひとりの生きる歩みに寄り添う」ことが難しい。一人の悲しみをみんなで分かち合い、少しでも幸せになれるようにみんなで考えることを大事にできる集団でありたい。


 4時間目は算数。IさんとCさんが立ち歩いて、窓際でお猿さんのようにぶら下がっている。以前の私だったら、間違いなく座らせてノートを取らせるように指導しただろうけれど、今の私はそばに近寄って二人を見守る。Cさんが「俺は自由な学校をつくる!!勉強大っ嫌い!!」と叫んだ。私が「面白い!」と言ったら、Cさんは驚いた顔でこっちを見た。「その話聴かせて!どうして自由がほしいの?」と聴いた。すると、「家では体操もやらされるし、手伝いもしないといけないし、宿題もやらされるし…」、「俺は子どもたちを自由にしたい」と言う。Cさんは「やらされる」ことの中で生きているんだ。Cさんのやっていることのすべてが「やらされている」と感じながらやっていることなんだと思った。そんな背景のある子どもを目の前にして、子どもの「やりたい」を大事にできる教師になりたいと思った。同時に、「自由と責任」の道徳の内容項目を思い出した。「でもね、Cさん、自由であるためには、自分の自由に責任を取れる人であることが必要だと私は思うな」とIメッセージを意識して伝えた。今思えば3年生に言うことではないと笑いが出る。そして、私は「じゃあ、今したいことは何?」とCさんに続けて尋ねた。「ゲームしたい、外で遊びたい」とCさん。「じゃあ、行ってみよう!」と言うと、またまた驚いた顔。Iさんも「行く!」というので3人で靴箱へ。そこでもう一度、「自由に生きることはその自由を選択する責任を自分でとらないといけないと思うよ。だから、他の友達が今やっている勉強はできないし、それを人のせいにもできない。どうする?」と私。すごくすごく考えている表情だった。いけないことをしようとしているワクワク感、先生に怒られることへの恐怖感、自分が選択できるという緊張感と喜び…きっと、色んなプラスの気持ちやマイナスの気持ちがあっただろう。
 Cさんを始め、子どもの多くに「選択する」チャンスはどのくらいあるのだろうと思う。「自分はどうしたいのか」と自分に聴いてあげることができているのかと…。そんなことを想っていると、「5分だけ遊ぶ」と言った。そこには「本当にいいのか」という思いも残っていただろう。そこで、「じゃあ、私も自分の自由を選んだから、怒られるときは一緒に怒られるよ」と言った。
 靴を履いて外に出ると、子どもたちが待っていた。待っているなんて今までなかったので、不安とワクワク感の葛藤から来る行動だと考える。思い切り遊んだ。走り回ってうんていをして鉄棒で逆上がり。平日のほとんどを体操教室に通わされていると言っていたCさんは軽やかだった。5分後、3人で走って教室へ。「この5分間にみんなが勉強していたところをカバーできるようにやろうか?」と言うと、二人はすぐに席に座り、必死に教科書を開いてノートを取り始めた。手を挙げて発表もした。(普段は面倒くさいと言って何もしないことが多い。)
 教師の前での自分、保護者の前での自分、友達の前での自分。どれが本当の自分なんだろう。もしくは、まだ知らない、見せていない自分があるのかもしれない。学校で生きづらさを感じている子どもたちがいる。その生きづらさの正体が自分を生きることができていないことであれば、教師の私にできることは何だろう。今すぐに言語化できないが、一つは私自身が自分を生きることではないか。そして、子どもも自分を生きていくことができるように考えることではないかと思う。一人ひとりが自分を生きる中で他者とかかわりあい、受け止めあい、分かりあい、学校をそんな時間と空間にしたいと思う。理想だと言われるかもしれないが、現場を知らない私だからこそ語れることが許される理想もあるのではないだろうか。
 子どもたちは勉強することで自由の責任を取った一方で、私はどのように責任を取ったかと言うと、担任の先生に、「外に行くなら、一言言ってください。」と指摘を受けた。きっとあきられただろう。そりゃそうだ。学部生の私なら、先生に怒られたとなると自分に対する評価が落ちたと相当へこんだと思うが、今は子どもたちとどう生きるかを本気で向きあった結果なので、すがすがしいと思えるようになった。
 教師として学級をまとめないとと思うことも本当に大切である。でも、国のトップだって、みんなをまとめることは難しい。そもそもまとめるなんてことできやしないのかもしれない。みんなは一人ひとりでできている。それを忘れず子どもの前に立ちたい。教師は子どもが出会う大人の一人であるからこそ、こんな大人もいるんだと思ってもらえるような私でありたい。まずは、私自身が様々な経験と言葉、感情と出あい、自分を生きることが大事だろう。今日も楽しもう♬

 好き放題書いてしまって申し訳ありませんが、最後まで読んでいただいたことにお礼を申し上げます。ありがとうございました。


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