京都の大学院に進んだ意味

 noteを始めたとInstagramで伝えた次の日の朝。
ストーリーを目にした方々から、私にとってはたくさんのハートマークやメッセージが届いていた。こんな光景は、自分の誕生日とお正月ぐらいしかなかったので慌ててパスワードを打ち込む。
 物理的に離れていても、中々連絡を取れていなくても、私の言葉を受けとめ、わざわざメッセージを伝えてくれる方々がいる「私」なんだと思うと、すごく温かく幸せな気持ちになれました。この場をお借りして、私と出会い、ともに歩んで下さっている皆様に感謝をお伝えしたい。本当にありがとうございます!!!皆様との時間があっての今の「私」です。
 京都に来てから、「どうして大学院に進学したの?」、「何がしたいの?」、「どうして教職大学院なの?」と聞かれる。そのたびに、偽ってはいないけれど、モヤモヤとした気持ちを抱きながらお決まりの言葉を述べる。実は、その理由を自分の中でちゃんと言葉にしたことがない、いや、言葉にすることを避けているとも言えるかもしれない。言葉にしてしまうと、弱い自分と向きあい、それを認めなければならないからだと思う。でも、その理由は心の中では分かっているのでここに綴っておきたい。
 まずは、大学院に進学した理由を二つ。
 一つ目は、大学のときに道徳についてもっと考えたいと思ったから。何を夢のようなことを…と思われるかもしれないが、大学時代、一人ひとりの子どもたちが幸せを感じられる「夢の国ディズニー」のような学級をつくりたいと本気で思っていた。そのために、どの教科の基盤ともなる道徳教育を大切にすることが一番近道ではないかと…そんなことを考えて取り組んだ卒業論文を経て、夢や理想を形にすることの難しさにぶち当たった。それを形にするべく大学院に進むことを決意。
 二つ目は、教師になるという決断がぶれかけていたから。大学でともに学んだ仲間たちが、「どんな教師になりたいか」、「どんな子どもを育てたいか」を自己と向きあい、言語化している姿を見て、自分だけが置いていかれているような感覚だった。いや、置いていかれたのではなく、同じペースで走り抜けることができなくなったんだと、今になって思う。自己の教師像を描けなかった。教師になる覚悟を持てなかった。教師をし続けられるか不安だった。すべての物事において全力で取り組み、手が抜けない、肩の力の抜き方が分からない私の性格を考えると、教師として働くことに自分の人生のすべてを注ぎ込んでしまうかも…と思った。 (やってもないのに言うなって当時の私に言いたいけれど…) それまでは、「小学校の先生っていい仕事だよね」という父の言葉を信じ、その道が私のすべてだと思って走り抜けてきた。父に褒められたいという気持ちが私を支えていたのかもしれない。

 次に、現在通っている教職大学院を選んだ理由について…きっかけは大学時代の恩師が薦めてくれたから。正直に言うと、あまり深く考えずに選んでしまった。岡山という土地を離れて一人暮らしをしなければいけない、祝日は決まって授業日、おまけに夜は20時まで授業がある、授業料はめっちゃ高い…もう少し考えて選んでおけばよかったと思うときもある。でも、御縁というものを大事にしている私にとって、現在の教職大学院に進学しなければできなかった経験や他者、価値観との出あいは、きっとすべてに意味があって、これからの私につながっていると信じたい。このように思うから、目の前のことに手を抜かず誠心誠意向きあっているつもりである。

 今日、私が一番このnote綴りたかったことは、誰かのために働いているあなたって本当に「すごい」っていうこと。これは教師だけではなくて、働いているすべての人に当てはまることだと私は思います。5月のゴールデンウイークが明けた頃、友達の何人かから教壇に立つことができなくなったと連絡がありました。「子どものための教師になりたい」と語ってくれたあの子がどうしてこんな目にあわないといけないのか…一方で、私はいつまでぬるい環境の中にいるんだ…と心がとても苦しくなりました。何かしたいのに、何もできない悔しさで涙が止まらない。「私には何ができるの」、「何をすればいいの」と自分で自分の頭を何度も殴りました。学校の先生として子どもたちの前に立つ仲間の顔が浮かびました。そして、「本当にいつも子どもたちを守ってくれてありがとう」と伝えたいと心から思いました。同時に、誰かのために働くためには、誰かにささげる分のエネルギーが自分の中に必要だと気付きました。日々のあたりまえがあるのは、そこに「誰かのために」と働く方々がいるからなのです。毎日、学校で子どもたちを迎え、無事に家に帰すこと、電車が時間通りに来ること、お金をいつも通りに引き出せること、それらはあたりまえではありません。あたりまえを守る「あなた」がいるからなのです。
 教職大学院の授業の中で、「よりよい教育とは」、「理想の学級像とは」と多くの理想を語りあっています。でも、学校現場に一歩足を踏み入れると、その理想があっという間に崩れてしまいます。学校現場は本当に厳しい環境にあります。しかし、私は理想を形にすることをあきらめたくない。仕方がないでは済ましたくない。学校で働く先生方一人ひとりが「しんどいこと、苦しいこと、めんどくさいこといっぱいあるけど、やっぱりこの仕事やめられないよね」と笑いあえる場所をつくりたい。そんな場所をつくる一人になりたい。それが教職大学院で学ぶ私だからこそできる働き方なのではないかと思っています。素直に言うと、小学校教員としての人生を歩み始める覚悟はまだありません。でも、私は隣の誰かの少しのひかりになりたい。私の両親がつけてくれた名前の由来でもある、誰かのひかりに。そのためにも、まずは、自分自身が誰かにひかりを分け与えられるようなひかりになること。そして、私のことを大切に想ってくれる仲間の少しのひかりになれたらいいなと思っています。
 今日もお疲れ様でした。自分の心と身体を大事にしてください。まずは、自分を大事にすること、それが隣の誰かを大事にすることにつながります。ここで、一呼吸、ありがとうございました。


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