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【デュエプレ】不死帝 デッド・エンド 


不死帝 ブルース

 デッド・オア・アライブ

彼は「不死帝」でありながら、ストーリーで絶命する。しかし、彼には「迷いはない」のだという。
 「バトルゾーンに出た時、自分の山札の上から三枚を墓地に置く」能力は、そういう彼を端的にあらわすものだ。
破壊されても墓地から蘇る「不死帝」はしかし、出た時に山札を削っていく。ブルースは何度となく蘇るが、そのたびに彼は死に向かって邁進している。「デッキアウト」という死に。山札を墓地に置く能力を防ぐことはかなわない。迷いのない不死帝。ゆっくりと、しかし確実に、総体としての死に向かっている。「何度でも蘇る不死帝が死ぬ」時。それは「ゲーム(戦い)が終わる時」である。

「迷いはない」



「迷いはない」彼の二つ名は、「不死帝(デッド・オア・アライブ)」である。生きるか死ぬか。それしかない。迷いのないはずの彼には選択肢が提示され、そして彼は「俺はデッド」と断言する。生きるか死ぬか。はじめから答えは決まっていたのだろう。だから山札を削る効果は強制だし、その意味でジャッキーたちの「無限」性に逆行する。
「不死帝」は、生死を繰り返す。ある意味それは無限である。しかしブルースの見据える先は、あるいはある種の迷いを超えたあとに待つ信念は、死という形の終わりである。これが「デッキアウトに近づく」形で表現されているとは考えられないか。そしてそれに抗うかのような、「不死帝」の名。ジャッキーとの、「終わらない戦い」は、たしかに終わらなかった。


「無限皇 ジャッキー」「神豚 ブータンPOP」 

山札の上から三枚を墓地に送る不死帝について考えたとき、デュエプレ版「無限皇 ジャッキー」、あるいは「ブータンPOP」の能力にはある種の対照性を感じざるを得ない。


「ジャッキー」「ブルース」「ブータンPOP」(あるいはブリティッシュROCK)はすべて、「山札の上から三枚」を参照する。これはまさに、次の事実を示唆するものだ。

「ジャッキー」と「ブルース」が盟友であり、対応関係にあること。

「ブルース」が「UKパンク」に取り込まれててしまう、あるいは取り込まれていること。

 
 よく見れば、いずれも墓地を経由する形となっているのも面白い。クリーチャーの能力によるストーリーテリングの推測は、あくまでその類似性から妄想じみた推察をしているにすぎない。しかし、こうした見方をすると、思わぬ楽しみが増えていく。

思えば「テスタ・ロッサ」「アリス」「クロスファイア」「5000GT」「キューブリック」「キャロル」「メーテル」「ドロン・ゴー」等、アウトレイジたちには、墓地に関連した能力を持つ者が多い。それらが一挙に、「不死帝 ブルース」というカードのもとで物語的に結ばれ、集約される。いままでなんとなく纏綿として紡がれたストーリーに、強力な求心力をもって風穴を開けることになるのである。まるで停滞を好まぬかのように。
「不死帝 ブルース」。すごいカードである。


おまけ テスタ・ロッサの話


デュエプレオリジナルのテスタの持つ能力とこのフレーバーテキストは、あるカードを念頭におけばさらに趣深い。


今回は下面を取り扱う。

テスタが燃え尽きても「答えは、返ってこない」。しかし返ってくるはずのアリスの「答え」は、神への旋律という形において、たしかにどこかに(TCGとして)存在している。デュエプレには、それは届かない。
テスタが破壊され、シールドを手札に加える。それにアリスのストライクバックが反応する、という実現しえないシナジーが、隔絶された世界同士で、確かに形成されている。そのことこそが、「答えは、返ってこない」に集約されている。テスタは本当に、「虚空」に問うているのだろうか? こういう物語を言外に作り出していることこそが、当フレーバーテキストの真の醍醐味ではないかと思う。

死別した二人の、世界と時代を超えた、もの悲しいクロスオーバー。

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