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【デュエマ】 個人的 ハイク評【森ジャングル】

現在、水文明のマジック達は、一部でハイクに興じている。ツインパクトという形でハイクとクリーチャーを一枚に収めることで歌人の札を再現し、新しいカードゲーム体験を作り出している点で、大いに評価している。
デュエマにおけるハイクでは和歌や俳句と時代、作者がごちゃまぜになっているが、それは問題とはならない。つまりそういう、カードゲームにテキストという形で再現できる昔の日本っぽい風流さが核となるデザインなのであろう。

一つ、大いに感銘を受けたハイクがある。
「五本まで 集めて林 森ジャングル」である。

上面のクリーチャーが、他のクリーチャーのハイクを使える能力で「DJ」を表現しているのも見事だが、なんといっても呪文面がひたすらに素晴らしい。

五本まで 集めて林 森ジャングル 

まず注目すべきは、「集めて林」とそれに連なる「森ジャングル」である。むろん、「木」を二本並べれば「林」、それを五本までならべれば「森」「ジャングル」というように木の本数が増えることの実直な表現であるが、それにとどまらない。 


五本まで 集めて生やし 森ジャングル


「集めて林」とはすなわち「集めて生やし」である。林のように木を生やし、それを五本まで行うことで森、ジャングルと段階的に成長していく様が詠み込まれているわけだ。これは一見すると表意文字としての漢字を木という形態にまで分解し、それを並べ集めるさまをテキスト上で視覚的に表現した「集めて林 森ジャングル」と違いがないようにも見える。しかしながら、「集めて生やし」と解釈できることによって、ややおおげさにいえば叙景歌としての見方もできると考える。何かを集めて生やして森やジャングルとするのは、テキストから(ハイクの文面から)離れた風景描写ともいえるからである。何らかのものを実際に、生やすという動作を織り込み、呪文が発動することによって起こる情景をも(つまり灰撫自身が「生やし」ているから起こる効果であるのだと)鑑賞者に知らしめることに成功している。動詞「生やす」を「生やし」と連用形で用いることで、「森ジャングル」にスムーズにつなぎ、連続して生やし続ける様子が印象的に浮かぶ点も見逃せない。

次に注目すべきは「五本まで」の部分である。なお、クリーチャー世界のハイクでありながら現実の俳句
「五月雨を 集めて早し 最上川」
にも一部触れることをお許し頂きたい。

先ほど、「集めて林」解釈で「木」という漢字をたくさん集めると「森」となり、さらに「ジャングル」へと連続して膨張していくとのべた。つまり私は先ほど、このハイクの「集めて」の目的語が「木」であるとしたわけだが、これは実際には早計である。呪文面のイラストでも分かるが、実際の木を集めている様子はないからである。おそらくは、上から下に伸びた、何らかの物体が集まっていくのを総じて『「木」が並んで林、森ジャングルとなっていく』様子に例えていると理解するのが無難であろう。そしてそれらを「生やし」ていくことで効果が重なり、カードの能力として発動する。これについては、これ以上考えても妄想の域をでないため結論を出さない。ただ、「五本まで」における「本」も「木」を連想させ、あとに続く漢字を用いた視覚的表現の布石となっているように思える。「五本の木」、林、森、ジャングルとの羅列によって異質な「ジャングル」という単語を森からの連続して集まった四本の木(のようななにか)として違和感なく落とし込んでいるのである。


五月雨を あつめてはやし 最上川

上は、我々がいる世界においてどうしようもなく有名な芭蕉の句である。「五本まで~」のハイクを見てこの俳句を連想するなというのも無理な話だから、少しばかり合わせて見てみる。「五本まで」は「五月雨を」を想起させるかのように「五」から始まる。これも灰撫が漢字による表現を重視していることの表れであるといえなくもない。
私が注目しているのは「五月雨を」との関連である。これは「あつめてはやし」の目的語となっていて、目的語が明示されない灰撫のハイクと一線を画している。ここにおいて、灰撫の歌の目的語を「五月雨」としてみると、また別の美しい風景が浮かんでくる。


(五月雨を)五本まで あつめて林(生やし) 森ジャングル 

五月雨は、激しく強い雨。雨は、上から下へ落ちる上下の運動であって、それをかき集めてみれば滝のような上下の流れとなる。これが林のようにみえ、たくさん降りかかるさまはさながら漢字の林が森となり、さらに強まって自然的風景と一体化、湿りきったジャングルとなるのである。
というように、(やや無理やりだが)、先ほど言った木を用いた比喩は雨の上下の流れに対してなされているのではないかと考えることができ、水文明らしさと叙情性が増す。一見数えられないように思える五月雨の動きに「五本まで」と本数の概念を導入し、木と雨の物質的境界を曖昧にしてひとつの流れとして詠む。木やジャングルといった自然文明然とした表現を表層とした、実に水文明らしいハイクだといえるだろう。

【総評】

灰撫は、「木」が並んで拡張されていく「林」「森」の漢字を比喩として用いておもしろみあるハイクを詠んだ。「林」は「生やし」であり、テキスト上の言葉遊びに留まらず動作が読み込まれ、アグレッシブか叙情性をもたらしている。何を五本まで集めているのかは確証がないが、我々の世界の「五月雨を~」とあわせると一層美しい水文明のハイクとなる。






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