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いまはとても真剣に地球の、そして人類の運命を考えている。でも、残念ながらこれも学校てはなく、アミに教えてもらったことだ。

アミ3度めの約束   エンリケ▪バリオス著
から抜粋させていただきます。😊

p15
アミに出会ってから、ぼくには新しい神が存在するようになった。
たぶん、神を信じないひとたちだって、宇宙の創造者にかんしてのぼくの新しい見方には賛成してくれると思う。
だってそれは、宇宙の進んだ世界のものと同じだし、そこから受け取ったものなんだから。
神はいままでも、そしてこれからもおなじだっていうことをぼくは知っている。
でも、ぼくたち人類の神に対する見方は、時とともに、ぼくたちの進化とともに変化していったんだ。
さいしょのころ、人々は、岩とか、かみなりとか、太陽とかを創造者と思いこんでいた。
その後、かならずしもそうでないということを学んでいった。
そして高いかたちで神を理解していくたびに、それがぼくたちにとって、新しい神に変わったように感じられる。
まさにそれとおなじことがぼくの中で起こっていたんた。

アミと知り合うまえ、ぼくが想像していた神とは、いつもぼくたちを見はったり、こらしめたりする、きびしくて復讐心のつよい、おこりっぼい神だった。
それはあるひとたちが、ぼくをこわがらせるために教えこんだイメージだった。
じっさい、それに似たようなことも聖書のある部分には書かれている。
そのせいで、子どものころ、ぼくは神がとてもこわかった。
だから、少し大きくなって、神のことを考えさえしなければ、こわいイメージの悪い波長に巻きこまれずにすむということがわかって、神の存在をうたがったほうがよいと思ったりもした...。
でも、いま、ぼくにとって神は、宇宙を操作する、善良で光かがやいた「知的な存在」となったんだ。
その「愛の神」は遠い星から円盤に乗ってぼくに会いにきたアミが教えてくれたものだった。
たしかにいまは、ぼくは神にとても関心をもっている。

だって、それはもう想像するだけのものじゃなくて、ぼく自身で体験できる身をもって感じられるなにかに変わったからなんだ。
愛が神だから、愛を感じるたびに神を体験しているんだ。
とても単純なことだけど、それをアタマのかたいマジメなひとが話すと、むずかしい神学の言葉を使ってすべてをヤヤコシクしてしまい、結局のところは、ぼくたちをほんとうの神から遠ざけてしまう。
ぼくたちの惑星の住人たちの内面は、半分ゆがんでいる。
だから、こんな単純なことが理解しにくいんだよ。
それとおなじことが、この世界の取りあつかいについても言えるんだ。
ぼくは惑星オフィルをはじめとする進んだ世界へと行った。
そうやって、宇宙の進んだところでは、ちょうど、惑星間大家族のように、愛をもってすべてを分かち合っていることを知った。
とても単純。
そして結果として、毎日お祭りみたいに楽しんでいるようにみえた。
だって、みんなよろこんで幸せそうに歩いていたんだもの。
でも地球では、通りに出て人々の表情を見ると、うれしそうな顔をしたひとは百人のうちせいぜいひとりぐらい、あとはみんな、不きげんそうな顔をして歩いている...。
そして大部分の人が、自分たちの問題はお金さえあれば解決できると思っている。
でも、豊かなところに住んでいるひとたちほど、もっと不きげんな、石のようにかたいしかめっつらをしている...。

つまり、物質的なものとは、たんに「外側の部分」にすぎないけれど、幸せとは「内側の部分」と密接に関連していて、どうじに愛とも関わっていることなんだ。
愛、それはまさにぼくたちよりも進んだ世界の根本指針でもあるんだ。
ぼくたちの生活スタイルはすべてそこから生みだされている。
「競争」といういっけん上品な言葉であらわされてはいるけれども、これはたんに先史時代的な「密林(ジャングル)の法」でしかないんだ。
この有名な「競争力」という「文明」のモーターにぼくたちの生活スタイルは動かされているというわけだ...。

でも宇宙の文明世界は、もうとっくに先史時代を卒業している。
そこでは共有はあるけど、競争はない。

そのために、そしてそのほかの理由もふくめて、宇宙の文明世界は、ぼくたち人類をまだ文明化した、進化したものとはみなしていない。
彼らにとって、ぼくたちはどっちかというと、一種の原始人のようなものだけれど、ぼくたちは自分たちのことを、いつも、「現代人」だと考えている。
きっと十三世紀のひとたちだって、そうだったろうし、いつどの時代のひとたちだっておなじように考えていただろうけどね...。

近ごろ、ぼくの住んでいる地球じゃとても追いつけない(と思う)ようなすごい技術をもったあの宇宙船がよく目撃されるようになってるみたいだけど、搭乗員たちは、ほくたちと正式なかたちでコンタクトをとるつもりなんてからきしない。
でもぼくたちは、それがちっともわかってないんだ。
考えてもごらんよ。
たとえば、地球の先進国の大学教授たちだって、いくら調査のためだとはいっても、好き好んで密林の奥深くに住んでいる未開人と直接に接触しようとはしないだろう。
なぜだろう?
教授たちを彼らのところへ送りこめって?
でもそんなことしたら、きっと毒のついた槍で、くし刺しにされてしまう...。
それより、彼らの手のとどくところから教えたいABCを書いたわかりやすいイラスト入りの本でもおいてくるほうがずっといいとは思わないだろうか。

アミはすべての人に対して、たとえこのうすぐらい未開世界の先史時代に生きていて、まだ愛を尊重することもその重要さもわからないようなひとたちにでも、あるいは自分の知識を新兵器の開発のために悪用しているような科学者やへいぜんと自然を破壊しながら商売しているようなひとたちに対してさえも、明るい波長をもって生きるようにと、そう言ったのだ(アミはこんな野蛮なひとたちを愛することをとてもやさしいことと思っている)。

アミが言うには彼ら「人類の慈善者たち」は(少なくとも彼らはそう思っているだろう...。でも、ぼくだったらぜったい彼らを刑務所に入れて、これ以上害を流さないようにするけれど)悪人というわけではなく、たんに無知なだけなんだという。
だから、その解決法は、彼らと争うのでも、刑務所へほうりこむのでもなく、(ほんとうのところ、ぼくはとてもざんねんだけれど)まず教えてあげること、頭や心を入れ替える手だすけをしてあげることだという。
少なくとも、これから変われる可能性の高い若い人たちにはとくにそうしてあげる必要があるというのだ...。(いま気がついたけど、スペイン語のADULT〈おとな〉とADULTERAR〈偽造する、姦通する〉はおなじ語源から派生している)。

でもいつかぼくたちはもっとちがった、ずっと人間的な世界にほんとうに到達することができるだろうかと考えてしまう。
確かじゃないと思う。
だって、学校では、よりよい人間になるようにとは教えてくれない。
ぼくたちの教育は「内面の部分」じゃなくて「外側のもの」ばかりに指導がむけられていて、そのためにすることといったら、ほとんど資料を暗記することばかり。
それも幸福になるためとか、人生の高い意識を理解するための資料というわけでもない。
そんな資料ばかりで頭をいっぱいにしたところで、深い意味のことはまったくわからないし、内側では、なにも変わらない。
ましてなんの進歩もない。
そして、ぼくたちを連帯感のあるひとになるようにうながすかわりに、すごく、「競争心」のあるひとになるようにかりたてる。
それはつまり、すべてにおいて、ひとを踏みつけ、押しつぶしてでも、とにかく勝たなきゃいけないってことだし、のしあがっていかなきゃ意味がないってこと。
ぼくたちは現在、こういう哲学、道徳、そして倫理でもって教育されている。
たしかに外見は以前よりもずっとよくなった。
みんなきれいな服を着て、思い思いの髪型で高価なブランド品を身につけて携帯電話をもっておしゃべりに夢中になって歩いている...でも、ぼくたちの内部は???...ほとんどなにも変わっていない。
こういった現状をまえにして、ぼくはときどき思ってしまう。
たぶん、ぼくたちの世代もおとなになったからって、特別にちがったことはしないだろうと...でもいつかきっと別の世代が?....

ーーーぼくは変わった。
いまはとても真剣に地球の、そして人類の運命を考えている。
でも、ざんねんながらこれも学校ではなく、アミに教えてもらったことだ。
ぼくの魂がゆく道を照らしだした「上の友だちたち」はいちいちぼくたち一人ひとりの目をさましているわけにはいかない。

それに地球では、人類の内的向上などということには、あまりにも関心がうすい。
だから、よほどの大さんじても起こらないかぎり、そしてかりに大さんじが起こったあとに生きのびられたとして、どうしてもいまとはちがった新しい世界をつくりなおさなきゃならない、ってことにでもならないかぎり、この世界がよいほうこうに変わるのはやさしいこととは思えない。

でもアミは、大さんじを起こすことなく変えるほうが、ずっと理想的だという。
そして、アミはそれに少しでも貢献するために、ぼくにひとつの使命をあたえた。
そして、ぼくはぼくたちがずっと進んだ世界のひとたちみたいに生きるためにはどうしたらいいのか、ごくごく初歩的なことだけれど、とってもたいせつなことについて、本を書いた。
もう前にも、言ったことだけれど、別のもっと高い世界では、すでに「宇宙の基本法」つまり「愛」にのっとっていて、愛にみちびかれている(これもぼくの人生にさしこんだ大きな光だったーーーもちろん地球からじゃない)。
それはとても単純明快ですべての人々にとってより大きな幸福や利益につながるものなんだ。
この手の話って地球では、「みょうにロマンチックで精神的」に思われがちだけど、あの光かがやいた世界ては、研究所や大学で特別に研究されているし、精神向上のための活動もさかんだ。
だって、あの世界では精神性と科学とは同一のものであり、すべてが愛に依存しているということを、みんなが知っている。
だけど、ここ地球では、すべての「価値」はみな株や銀行いわゆる経済しだい...。
世界をひとつにまとめて動かしていくなんてことは、びみょうで、ふくざつで、ちょっとしたサジかげんがたいせつなんだから、だれにでもできることじゃない。
だからほんとうは、すぐれた科学者とか賢者とかが世界を治めていくのが道理にかなっているんだけれども、ここ地球では、なにひとつ愛にもとづいて統治されていない。

だから、ぼくたちは論理的な存在なんかじゃないんだ。
インテリな読者のなかには、ぼくがいま強調したことは、ちょっとおかしい、愛と論理とは、まったく別のものじゃないかって言う人がいるかもしれない。
にもかかわらず、ここにアミがのこした、
「愛は最高位の論理である」という言葉がある。
でもこれはハートの叡知だけが理解できることで、ぼくたちを指揮しているえらい人たちにはまったく理解できないから、この論理が地球で適用されることもさらさらない。
ここ地球では、ほんとうにつじつまの合わないことが起こっている。
それこそほんとうに非論理的なことだ。

つまり、人類の運命、ぼくたちの未來、そしてすべての宇宙の生命は市場(かね)の法にゆだねられている...というわけなんだ。

こうしてぼくたちの美しい、そしてお金が大好きな目のくらんだ宇宙船地球号は銀河系をゆっくりとまわっている。
どんな手を使ってでも手に入れなきゃいけない(と思いこんでいる)ーーーお金、お金、お金!!みんなが目を血走らせて競争ばかりしているんだ。
自分たちの実入りさえよければ、ほかのひとたちの人生や豊かな生活、自然の保護、地球の未來なんかどうでもいい。
ぼくたちの地球を支配しているそうした哲学の結果は火を見るよりあきらかだよね。
大多数の人々は、幸せから遠いところにいるか、食べるものがないか、人生を楽しむ時間がない。
汚職のないところなんてないし、暴力や犯罪は増えるばかりで、研がれたつめや牙は隣人にむけられ、町には、錠前や鉄格子や拳銃やかべが増え、まずしい人々と富んだひとたちの差は、日ましにひろがっている。
そしてうまみのある「ビジネス」がぼくたちの惑星を汚染し、破壊していく。

人類にとっての必要なものとか、深い意義はどこへいったの?
ほんとうの友情とかやさしさ親切心とか愛情はどうなったの?
このまま進んでいったら、どんな未来が待っているっていうの?
ても、考えてみると、いまぼくが言ったことって一文の得にもならないことばっかりだ。
ここでは人々とはたんに、「生産するための機械」で「消費者」で、自然とは「商品」でしかないんだから...。
「もしあなたがこちらに利益をもたらすなら、わたしはあなたに親切に、そしてほほえみかけましょう。でもそうでないなら、早くオレの視界から消え失せろ。」...こんなふうにこのままつづけてったら、ぼくたちみんな絶滅してしまう、そしてほんとうはそんなこと、だれでもよくわかっている。
でも、すべては、まったく、おなじまま...。



つづく😊


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