見出し画像

吉田松陰が心を寄せた女性 高須久子 

高須久子(たかすひさこ)
西暦1817~不明
吉田松陰との関りが深い女性の話です。

吉田松陰については、みなさんご存じですね。
西暦1830年に長州で生を受け、兵学者、教育者として幕末で活躍した志士の先駆けとして有名ですね。
彼の秀才ぶりは、幼少のころから顕著で、遊学先である江戸では「佐久間象山」の元、西洋の軍事技術などの学問を貪欲に学んでいたところ、折しも浦賀に着港した黒船を目の当たりにして、その好奇心に火が着き大いに刺激されました。

そして、翌年その雄大な黒船に密航を試み、渡航を懇願したもののペリー提督に拒否され、試みは成らず江戸の地へ戻りました。
しかし、密航は死罪という時勢、処罰を覚悟をしていた松陰ですが、周りの計らいもあり死罪は免れ、長州藩へその身柄が送られ「野山獄」という監獄に幽閉されました。

獄中の囚人は11人
しかし、そのほとんどが、お家の都合で投獄された不幸な者たちでした。
その中に、高須久子という女因がいたのです。
当時、37歳。
松陰、25歳。

久子の罪状は、武家の寡婦(夫に先立たれた夫人)でありながら、音曲を好み河原乞食(かわらこじき)と蔑まれる身寄りの無い者たちに衣食を与えるなどの施しを続けていたのですが、その行為が家門の恥であると当主の逆鱗に触れたため獄中行きになりました。

松陰は、獄中でもその旺盛な行動力を発揮して、囚人たちに日々講義を続けていたところ、あっという間に獄中に「ネオ松下村塾」ともいうべきコミュニティが生まれました。
当然ごとく、聡明な久子は松陰の教えを早くに会得してそれぞれ心を通じあわせ、句を交わすまでの仲になりました。

松陰が出獄する際、久子は句を詠みます。
 鴫(しぎ)立つてあと寂しさの夜明けかな。
※ 鴫とは松陰の字の「子義」にかけたようです。

出獄後は、叔父から松下村塾を引き継ぎ、本格的に弟子を迎え入れるようになります。

獄中知り合った富永弥兵を講師に据え、そこで学んだ門下生は、高杉晋作、久坂玄随、木戸孝允、山県有朋、伊藤博文など、時代を変えた志士たちですね。

武士政権に失望を覚え、改革の時世をここぞと見据え、余勢を駆るがごとく幕府転覆を狙い老中暗殺計画を弟子たちに提案した松陰は再び投獄され、松下村塾は閉鎖されます。

再び「野山獄」で相見えることとなる松陰と久子。
松陰は「獄居」も「家居」も大差はないとのちに書き残しています。
封建社会を忌み嫌い「平等」を求めた久子、改革と自由を求めて国外へ雄飛をも企てた松陰。

野山獄という閉鎖された空間で出会った不運な類まれなる知性。
抑圧されているが故に、それぞれの思いは強く重なっていきましたが、憂憤にかられて行動を起こした松蔭は、西暦1859年に江戸へ送られる事となりました。

江戸伝馬町の獄舎へ移送される際して、久子は松陰に汗拭きの手ぬぐいを贈ります。
共に、死での旅たちであることが分かっていた二人。

久子は思いを句に
  「箱根山越すとき汗の出でやせん 君を思ひてふき清めてん」
と詠み、松陰は
  「一声をいかで忘れん郭公(ほととぎす)」
と句を贈りました。

江戸での詮議に際して、否認することなく暗殺計画を指揮していたことを自ら暴露した松陰は、処刑場の露と消えます。
時世の
 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留めおかまし大和魂。
は、有名な句ですね。
自ら、死すことで弟子たちが、行動に出ることを見込んだ決断だったとも言われています。

久子は、明治まで出獄が許されず、世間に出た後も足の障害を負っていて、88才で他界したとの一説があります。

また、松陰の生涯の初恋の相手とも語り継がれていますが、時代の松陰の神格化に反比例して久子の存在は薄くなっているきらいがあります。

獄中、否、獄居での久子との触れ合いが、松陰を動かす原動力になったのだと思います。

※ 松陰については、その存在や思想が熾烈であるが故にいろいろな評価がありますが、生涯独身であった松陰の心には、いつも久子がいたのだと思いました。



お付き合いいただきありがとうございました。


いただいたサポートは、地元の観光情報発信に使いたいと思います。