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沖縄の秘技! 津堅島に伝わる棒術vs棒踊り|Report

沖縄には棒術と棒踊りがある。棒術は武芸の一種で、空手と近しい古武道のカテゴリーとして位置づけられる。棒踊りのほうは郷土芸能と言えるだろう。勝連盛豊著『検証 沖縄の棒踊り』から解説箇所を引用する。

沖縄の棒踊りは、主に六尺棒を持ち一人棒、二人棒、三人棒、四人棒、五人棒による一対一、一対二、二対二、二対三、一対四の組棒を一定のリズムで呼吸を合わせて、互いに突く、払う、打つ、飛び上がる、身をかわすなど約束の型を観衆受けする演武構成にしたのがほとんどで、武器も尺小と称する三尺棒が加わり、六尺棒対六尺棒、三尺棒対三尺棒、六尺棒対三尺棒、さらに槍、長刀、エーク(櫂)、鎌、ティンベーなどの組み合わせにより多彩になる。

【出典】p175

棒踊りをさらに分けると、スーマチ、組棒、舞方棒、フェーヌシマ(南ヌ島)等がある。
六尺棒、あるいは三尺棒を軽快な歌に合わせ激しく打ち合わせて踊る「棒踊り」は全国各地に見られるが、数百名からなる集団棒「スーマチ」は全国に類がない。

【出典】上p22、下p15

沖縄の衣装は、白上衣に白ズボンをつけ、頭はマンサージか鉢巻、タスキを掛け、腰帯を結び、白黒の縦縞の脚絆を巻き裸足になる。

【出典】p163

津堅島にはスーマチ棒がある。私は見たことがないが、13年マールで行われていたらしい。往時はシキルンチマーに200名ほどの男衆が集まり、二組に分かれて演舞したという。陣形は「チクラマチ」と呼ぶ。

棒術と棒踊りはどちらが先だったのか。そのことを検証する術は持ち合わせていないが、こと津堅島に関しては島に由来する「津堅棒」「津堅エークぬ手」などの棒術の型が現代に伝わっている。そして、津堅棒の達人といわれたのが津堅赤人(註1)である。

偉人として絵本にもなり、武勇伝が誇張されて伝わっている側面があるものの、津堅赤人は概ね次のような人物だと島では語り継がれている。

  • 6尺(180㌢)の背丈があり、怪力かつ敏捷で、角力も強かった。

  • 津堅親方に棒術を習い、師を超えるほどの腕前だった。

  • 漁の最中に暴風で朝鮮まで流され、そこで虎退治をした。

では、赤人に棒の手ほどきをした津堅親方について整理する。1990年当時の野帳を散逸してしまったので、前掲書と比嘉繁三郎著『津堅島の記録』を出典とする。

津堅親方の略歴

津堅親方盛則は唐名を全興盛といい、島ではチキンウェーカタやチキンペークーと呼ばれる。1609年の島津の琉球侵攻の際には琉球側の和睦交渉の一員だった。騎馬術に優れ、薩摩の島津義弘も認めた実力とされるが、『琉球国由来記』によると、このときの薩摩滞在時に習得したものらしい。

津堅島の拝領を三司官に願い出て却下された腹いせに、港の浚渫工事を監督する立場の三司官の長男(及び三司官本人も)を罷免したため、1615年に薩摩藩で裁かれ、鹿児島に抑留された、とある。裏事情があったのかはわからない。

なお、沖縄芝居の『大新城忠勇伝』では尚清王亡き後の王位継承に絡んだ逆賊として描かれている。これは事実無根の創作である。

示現流との類似性

「津堅棒とて津堅親方盛則の伝えし棒法あり、示現流剣術に酷似せり」と眞境名安興は『沖縄一千年史』に書いている。この見立てが当たっているなら、示現流は1600年代初めには沖縄に受け入れられていたと勝連盛豊は推測している。もしそうなら、示現流開祖の東郷重位の存命中であり、非常に早くから受容していたことになる。

薩摩発祥の示現流は初太刀からの鋭い斬撃が特徴で、そこからの連続技もみられる。立木に向かって左右激しく斬撃する稽古法がある。けれども、筆者には津堅棒に示現流の痕跡があるのかを判断する知識がない。

津堅赤人との接点

伝承では、薩摩から釈放されたあと津堅親方は津堅島に渡り、人目につかない島の北東部のペークーガマという洞窟で余生を送ったとされる。赤人はペークーガマに通って棒術を学んだということだが、勝連盛豊は、両者の生存した期間には200年の開きがあり、直接の師弟関係はありえないと結論している。

  1. 津堅島には赤人門中がある。ムートゥヤーは集落の中心部にあり、旧家群からは少し距離があることから比較的若い門中ではないかと考えられ、事実、安里門中からの分かれだと伝え聞く人がいる。


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