見出し画像

アルテオとエドガー、正義の泥棒と追跡者の物語 「幻渇、頂きに立つ者」

「幻渇、頂きに立つ者」

カーナビは停止を指示した。人通りのない静かな場所で、車は郊外の公園に近づいて停まった。

沈黙が続く。運転手は尋ねることは許されていない。
待つことには慣れているが、今回は違った。リー・ミンジュンが後部座席に座っていた。

リーが口を開いた。
「私に足りないものがあるのか」

運転手はそう問われることを知っていたのか、すでに答えを持っていたのか、間髪入れずに答えた。
「いいえ、あなたには何も足りないものはないわ。ただ、あなたもいずれすべてを失う。その不安が、心の渇きの原因だわ。」

運転手はリーの情婦である「紫菫」だ。リーは情婦との付き合い方について全くわからない。社交の場で情婦をどう扱うかについては、他のエリートたちの模倣であった。しかし、情婦と二人になったとき、どう接すればいいのか皆目見当がつかない。
一度、肉欲に身を任せたが、そのときの嫌悪感は異様であった。リーは、自身の目的に対する情熱と努力以外に自分の感情を知らない。快楽などというものは、彼の生に意味がないと考えている。
パリに来て、自分の内に怪物がいることを知り、その怪物に手を焼いている今、新たな獣である肉欲などを調教する時間など微塵もない。
ただ、運転手というのはある意味、この世界では優れた演出であった。情婦に運転手の恰好させる。それがリー・ミンジュンの「人らしさ」だと他人が受けとめるからである。

リーは答えない。紫菫は続けた。
「誰もそのことに気づいていないけれど、あなたは他人をかいかぶりすぎているのよ。自分を厳しく見つめるから、足りないと感

じるの。」

紫菫はいつもよりも口数が多かった。リーにすべてを伝えようとしていた。

「例えば、デイヴィッドのこともそう。あなたはデイヴィッドが自分よりも優れていて、あなたの期待に応えていると思っているのでしょう。違うわ。デイヴィッドはあなたの言葉にない言葉を数十、数百と想像し、その中からただ一つ、正確なものを瞬時に選んでいるだけ。デイヴィッドには才能があるのではなく、あなたと同じように努力をしているだけなのよ。」

リーはうなずくこともしない。

「なのに、あなたはデイヴィッドを自分以上の存在だと思っているわ。それはあなたにとってもデイヴィッドにとっても不幸な事。あなたは自身の才能に気づくべきだし、デイヴィッドの努力に感謝すべきだわ。あなたが思っていることは逆なのよ。」

リーは何かを悟ったか、紫菫の言葉を制した。

「私に足りないものは、この世界の正しい認識なのだな。」

紫菫は答えた。

「そうよ。まさにその通りだわ。」

その時、紫菫の言葉が、嘘になってしまった。リーには足りないものが「あった」のだ。



カーナビが発進を指示した。

リーと紫菫の間には、二度とこのような会話はなかった。