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今日、東長崎の鰻屋で特上と肝を馳走になった。

その肝は、予約してもなかなか口にできないのだという。
私に馳走してくれた方の好意で一本しかなかったものを
食べさせていただいた。
私は「苦味」を「苦痛を味わう」ものだと思っていた。
苦痛を「うまい」と称せてこそ、味を理解したと言えるものと思っていた。
しかし、鰻屋の肝の苦味は口の中に残しておきたい苦味であった。
苦味は酒で流すものと思っていた私には衝撃の「味」であった。
けして「悪い」味などではない。しばらく口の中に残しておきたいと思える味だった。
苦味のなんたるかを知り、かの御仁に「他では肝が食えなくなるよ。」と言われたが、確かにそのとおりだ。サンマの苦味もゴーヤの苦味も好きではあるが、それが「食える」にすぎないものと知らされた。
まさに「味わう苦味」だった。私は思わず彼に「良い経験をさせていただいた。」と伝えたが、言葉通りだ。

名士も愛するというその重は、私がこれまた経験したこと無い品だった。
すき家や吉野家で食べるアレとはまったく違う。箸で軽く抑えると身はほぐれ、口の中でとろける。ふわりとしたその身は、まさに淡雪と称されるにふさわしい。
「ごちそうになりました。次は自分の金で食べに行きます。」と彼に宣言した。自分の金で誰に気兼ねなく食べたい。いや、彼が圧力をかけたということではない。そういう話ではなくて、自分お稼いだ金で食べるべきだと思った。
大女将が外まで送ってくれた。
大女将さん、またきっといきますね。

かの御仁とは駅で別れた。
彼は東長崎の街に消えていった。
奥には内緒の逢瀬だと言う。
江戸の所著はまだこの日本に息づいている。
とか言いてみたりしてwww

一節。
吉田兄弟「風花」