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縄文旋風 第11話 ウルシ村案内

本文


「ここがどんぐり小屋。木の実なんかを貯めておく所。ヨイショ!」
重そうな立て戸をハニサがずらし、そのすき間からシロクンヌは小屋に入った。中は無人だ。炉では細々と柴が燃やされていたが、少し煙っている上に、なかなかに薄暗い。目が慣れるのを待って室内を見渡してみると、まず炉の上部に設置されている火棚が目に飛び込んで来た。いや正確に言えば、火棚そのものは良く見えない。なぜなら火棚からは、様々な物がぶら下げられていたからだ。枝豆の束。皮を剥がれた赤ガエルが数匹。干からびた山椒魚の仲間。羽根を毟られた野鳥。大小の川魚。怪しげなキノコ。干し肉らしき物。鹿の石棒(?)と思われる物。その他正体不明な物達。そういった多種多様な食材または薬材がじっくりと燻(いぶ)されていた。
本来火棚とは、棚板を使うのではなく、細い竹や木の枝を使って荒く組まれるのが普通であり、荷載せにはすき間が多いのだ。その上にカゴを置き、そのカゴの中に木の実などを入れて乾燥保存させておく、そんな設備である。だからどんぐり小屋でも、火棚の上には何かが置かれているはずだが、とてもじゃないが火棚の上までは見通せなかった。だがシロクンヌは、そこに何か特別な物が置かれている気がして、ハニサに訊ねることにした。

一旦、登場人物紹介 
シロクンヌ(28)タビンド シロのイエのクンヌ ムマヂカリ(26)大男 タマ(35)料理長 ササヒコ(43)ウルシ村のリーダー コノカミとも呼ばれる ヤッホ(22)ササヒコの息子 お調子者 アコ(20)男勝り クマジイ(63)長老 ハニサ(17)シロクンヌの宿 ハギ(24)ハニサの兄 クズハ(39)ハギとハニサの母親 ヌリホツマ(55)巫女 ホムラ(犬)ムマヂカリの相棒


「また賑(にぎ)やかにぶら下げたもんだな。火棚の上には何が載ってるんだ?」
「あそこはアコの秘密の場所なの。だから絶対に見ちゃダメだよ。アコに怒られるから。」
どうやら直感が当たったようだ。シロクンヌは人一倍鼻が利くのだ。鼻が利くとは文字通りの意味で、鋭敏な嗅覚の持ち主なのだった。
「アコのって事は、タレの材料か?」
昨夜食べたナマの鹿肉は抜群に旨かった。腰を抜かすほど美味しかったのだ。熟し肉のコナレ具合がいい頃合いだったのもあるが、何と言ってもアコのタレが極めつけだと言っていい。複雑妙味に醸(かも)されていて、今までに味わった事がない美味しさだった。
「そう。アコはタレの作り方は、絶対人には教えないから。ほら、あそこにカメが二つ埋めてあるでしょう。あのどっちかが完成品のタレ。火棚から何かを下ろして来て、あそこで調合してるのはよく見かけるけど・・・」
壁際に脚立が置いてあるから、高所での作業にはそれを使うのだろう。
「火棚に何が載っているかは、アコしか知らないってことか・・・」
「うん。でもみんな、ひそひそ話は時々してるよ。アコが隠してるのは、猿の何かだって噂になってる。」
「猿の?」
「そう。それでヤッホは、絶対猿の脳みそだって言い張ってて、みんなはそれは無いだろうって言ってて、言い合いになったの。それでムキになったヤッホが覗きに行ったの。でも丁度脚立に登っているところをアコに見つかって、怒ったアコに脚立を蹴られて、顔から灰だまりに落下したんだって。ヤケドした鼻から鼻血を垂らしてた時があったもん。」
「ははは。アコは狂暴だな。気を付けておこう。だがハニサ、あそこには何があるのか、おれは分かったよ。」
「え?なんで分かるの?」
「匂いで分かる。猿酒だ。おそらくヒョウタンに入れてある。猿酒なのは間違いない。ひょっとすると、アコはどこかで猿を飼い慣らしているぞ。こっそり村を出て行ったりしていないか?」
「えー、驚いた!そんな噂、聞いたこと無いよ。」
「では巧くやっているのだな。でもそれも当然か。もしクマジイに見つかりでもしたら、たちまち呑まれてしまいそうだもんな。」
「あはは、そうだね。でもシロクンヌの言う通りかもしれない。アコしか知らないキノコの樹とかあるんだよ。女の人はあまり村から出ないんだけど、アコは平気で遠くに行くみたいだし。」
ここでハニサの言う「村」とは、「村域」という意味である。村域とは、居住区域とその周辺の林や畠や水場などを含んだ、人の手が入った場所を指している。だから結構な広さがあるのだ。そこは野生動物に対しても安全性の高い場所であり、村域内で人が襲われることは少なかった。だから女性や子供の日常は、村域内での行動に終始するのが普通であった。

「ところで外の軒下に、カモが6羽吊るしてあったが、誰が狩ったのか知っているか?」
「コノカミが5羽で、ヤッホが1羽。昨日の朝、競い合うと言って二人で出かけたの。ヤッホはアコから、1羽ボウズって言われてからかわれていたよ。」
「ははは。ヤッホはハニサのことが好きだったみたいだな。」
「一度言い寄られた事あるよ。二度と話しかけないでって言ってやった。」
「そりゃまた手きびしいな。」
「うん。あたしね、男の人が大嫌いだったの。今思うと、何でだろうって思うけど・・・ 今ならあんな言い方、しないと思う。」
「ハニサは普段は何をしているんだ?」
「あたしは器を作ってる。作業小屋で。ちょうど次に行こうと思ってたの。」

「あれが作業小屋か。昨日、旗塔を見ていたら、クズハがあそこまで手火を持って迎えに来てくれたんだったな。」
「そうなんだ。あ、忘れてた!母さんがシロクンヌの草履を作るから、足型が欲しいって。作業小屋に粘土版があるから、今からちょっと踏んでくれる?」
「足型を取るのか。なんだか本格的だな。そうだ、おれもハニサと同じような足半(あしなか)がいい。でも普通のも欲しいな。二つ作ってくれるかな?」
足半とはカカト部分の無い草履である。
「二つでも三つでも作るよ。母さんもシロクンヌの事が好きみたいだもん。いい所で思い出して良かった。」
「ハニサはいつも足半なのか?」
「そうだよ。あたし、体が弱かったでしょう。それでヌリホツマが母さんに、あたしには足半しか履かせるなって言ったみたい。だから子供の頃からだよ。」
「ふむ。体術で言えば理にかなっている。ヌリホツマにはそっちの知識もあるのだな。」
「ヌリホツマのお薬、よく効くんだよ。あたし、器を焼く時に灰を触るでしょう。手荒れがひどいの。でもヌリホツマのお薬を塗れば、直ぐに治るよ。」

そんな話をしながら、二人は作業小屋に入った。中は半分のスペースが物置になっていた。石斧などの道具類やザルやカゴ、ムシロの類い、そんな大量の日用品が、きれいに整頓されて置かれている。毛皮類も山積みになっていた。
「あの奥は、カジゴ置き場なのか?」
カジゴとは、炭の総称と思ってもらいたい。薪が燃えた後にできる燠を消した、いわゆる消し炭もあれば、山中に大きな穴を掘り、その中で倒木を数日間に渡って蒸し焼きにする、狭義のカジゴ(木炭)も混ざっている。小屋の奥の一角が竹で囲われ、その中に大量の炭が積まれていた。
「そう。まだあれだけしか無いんだけど、これからどんどん増えて行くんだよ。みんな必死になって消し燠もつくるし、台風の後なんかにはカジゴ焼きもするの。それで冬前にはね、天井まで届いて一杯になるんだよ。それが春には全部無くなってる。」
そう言って、ハニサは可笑しそうに笑った。
「ここらの冬は、寒いんだろうな。」
「すんごく寒いよ。ムロヤの中は、カジゴのお陰であったかいけどね。」
ウルシ村のムロヤは小さめだった。だから室内の炉では、薪や柴は焚けない。煙たくて居られないからだ。ムロヤでは、煙りの少ないカジゴで暖を取るのだ。
「あそこに一杯積んであるのは?」
「お祭りで使う明り壺。あたしが作ったんだよ。」
「毎年作るのか?あんなに沢山、大変だったろう。」
「お祭りの何日か後に火をともして飛び石の川に流すからね。毎年作るけど、焼かなくていいから簡単なんだよ。」
粘土は、水には溶けるが油には溶けない。だから粘土で形作れば直ぐにランプとして使えるのだ。焼く必要はない。
「雨だったらどうするんだ?」
「延びるって聞いた。でも雨降ったことって、一度も無いんだって。」
「天に守られた祭りなのか・・・ あれがハニサの作業台なんだな。あ、あの臼、割れそうじゃないか。あれで粘土を搗(つ)くんだろう?」
「そうなの。だいたい毎日搗くから、いつの間にかヒビが入ってた。」
「ハニサが搗くのか?」
「そうだよ。あたし、粘土取りだって、全部自分でやるよ。」
「重いだろう。粘土場は遠いのか?」
「飛び石の近くの崖。砂もそのそば。だから近いよ。」
「そうか。今日、槙の木を一本伐るから、新しい臼をおれが作ってやるよ。」
「いいの?ありがとう!」
「ああいいさ。ついでに杵(きね)も作ってやる。」
「ありがとう!大事に使うね。絶対に割らないようにしよう。」
「ここで作業するのは、ハニサ一人だけなのか?」
「うん。元はね、男の人達の作業場だったの。だけどあたしが使うようになってからは、なぜか知らないけど、男の人は使っちゃいけないって決まったみたい。」
「そうなのか。寂しくなかったか?」
「全然寂しくなんかないよ。粘土いじりしていれば楽しいもん。はい、粘土版。これを踏んだら、ウルシ林に行ってみよう。」

ウルシ林はさすがに広大であった。そこはウルシの樹の純林で、短い下草は生えているが、見渡す限り、ウルシの樹なのだ。秋が近づき、葉っぱは黄色がかって来ている。遠くでクマジイらしき人物が、何かの作業をしているのが見えた。そのそばに、三角小屋が一つある。三角小屋とはテントのような造りの簡単な小屋だ。台風や大雪で壊れやすいのだが、壊れたらまた造ればいい、そんな発想の小屋だった。
「あの三角小屋が、見張り小屋なのか?」
「そう。熊や鹿が、樹を荒らしに来るの。ムマヂカリは、あそこで見張ってて、何度か熊を仕留めてるんだよ。」
「帯に、いっぱい熊の牙をつけてるもんな。あれ?遠くに一個、別の小屋があるが?」
「あれは墨小屋。あの中でウルシの木を燃やすの。煤(すす)採りする小屋。」
「ああ、黒漆に使うんだな。ウルシの煙は浴びるとまずいから遠くで煤採りする訳か。しかし充実した村だな。そこが漆小屋だろう。小屋とは言うが、かなりの大きさだ。」
ウルシ林の入口に、大きな掘っ立て小屋が建っていた。ハニサの説明によれば、そこは漆小屋と呼ばれていて、ヌリホツマはそこで寝起きしているとのことだ。
「そう言えば漆小屋の近くに、一本だけ見た事も無い樹があったが・・・ 赤い花が咲いていたな。」
「サルスベリだよ。こないだまで、もっと一杯咲いてたんだよ。」
「サルスベリと言うのか。おれは初めて見たが、この辺りには多いのか?」
「あのね、あたしもよく知らないんだけど、何かの謂われのある樹みたい。他には無いって聞いたよ。でもあの樹のことは、クマジイやコノカミも、あまり話したがらないの。」
「そうなのか。ではおれは、あの樹の話題は持ち出さない方がいいな。」
「うん。その方がいいかも。じゃあ急いで祈りの丘まで行ってみよう。」

「ここで、明り壺のお祭りをやるんだよ。」
「ここは見晴らしがいいんだな。驚いたよ。フジの山があんなに見えるなんて。」
「フジの山って、村からでは見えないんだよ。大ムロヤの屋根からだって見えないって言ってる。」
「こっちに御山が見えて、あっちがフジか。見渡すと他にもいろんな山々が見える・・・ 何でこの丘には樹が生えていないのかな?」
そう言えば、昨日、ウルシ村を目指して尾根に登った時、旗の横にこの丘が見えてたのだった。
「ずっと昔からなんだって。一本の樹も生えたことが無いって伝わってるみたい。あ、ここは飲食禁止だよ。お祭りの日と、その翌日だけはいいの。」
「特別な場所なんだな。それも分かるよ。この丘に村を作らなかったのも分かる。ここに来るとそれがよく分かる。ここの匂いは他とは違う。」
シロクンヌは大きく息を吸い込んだ。
「ここは静かだな・・・ 鳥の声もここではほとんど聞こえない・・・ こことウルシ村の間に窪地があるから、あそこで水脈が切れているのか。」
ウルシ村のある丘よりも、祈りの丘の方が少し高い。水脈が途切れていなければ、祈りの丘に降った雨の水がウルシ村の竪穴住居で湧き出すことになる。そうなると炉も使えない。
「あの低くなってる所は、こないだまで麻畠だったんだよ。あの辺全部に麻が生えていたの。飛び上がっても届かないくらい背が高かったんだよ。」
「今、大屋根の下に積んであるのがそうだな。磐座の向こうに花がいっぱい咲いているが、あそこがお墓か?」
「そう。あたしの父さんもあそこで眠ってるの。お墓って子供の遊び場になってるけど、どの村でもそうなの?」
「そうだぞ。お墓で遊んだ子供は元気に育つんだ。」
「やっぱりそうなんだ。あたし、体が弱かったから、あんまり遊べなかった。あ、村の入口にコノカミがいるよ。呼びに来たのかな。」
「ヌリホツマもいる。では行って来るよ。夕刻前には戻るつもりだ。」
「うん。飛び石まで見送るね。」

第11話 了


幕間 「はたけ」について。


「畑」も「畠」も、いわゆる和製漢字です。日本で作られた文字ですね。「畑」は焼き畑ゆらいの「はたけ」であり、「畠」の白い田とは水の無い田んぼから来ています。私は意識して「畠」の文字を使っています。

私の中に二つの疑問符があって、一つは、5000年前の縄文人は鳥の卵を食べたか?です。もちろん、状況によっては食べたと思います。普段食べたか?という意味です。
人によっては、卵どころか、雌は狩りの対象から外していたはずだという意見もありますね。そうかもしれないな、とは思います。
で、『縄文旋風』の立場としましては、雌は、半分くらいのケースで狩らなかった。卵に関しては、親鳥が温めているものは、両者に対して絶対に手を出さない。何かの事情で親鳥が放棄した場合、それを確認した上で食べた。そういう考え方で行こうと思っています。

さてもう一つの疑問符、それは縄文人は焼き畑をしていたか?です。
多くの人が、縄文人は焼き畑をしたはずだと言っています。これはもう、焼き畑でなければならない!くらいの勢いです。
「黒ボク土」の問題(黒ボク土は縄文人が山焼きをした痕跡だとする説。黒ボク土は日本の国土の30%を覆っているが、外国にはほとんど無い)も含めて、いずれ別稿で詳しく書こうと思っていますが、ここでは結論だけ。

『縄文旋風』の立場としましては、縄文農法は焼き畑ではなく、自然農であった。そういう考え方で行こうと思っています。それを説明するには、日本人独特の「言霊」信仰も持ち出して来なくてはなりません。今、チョットだけ触れておきますと、自然界にあふれる音、それを「声」と捉えるかどうかの問題です。草木が燃える時に出る音を「草木がたてる声」と捉えたかどうかです。

ちなみに「自然農」と「自然農法」とは区別されています。自然農は耕しません。有機栽培で収穫したキュウリを放置しておくとドロドロに腐りますが、自然農で収穫したキュウリは腐りません。枯れるのです。
自然農は、細菌学や土壌学に基づいた、現代では最先端的な存在なのですが、原始農法もそれに近かった気がしてならないんですよね。いや、自然農が原始的だという意味ではありませんよ。現在行われているのは学術的に洗練された自然農ですが、縄文人は朴訥とそれに似たものを行っていたのではないかと思っている次第です。
私は、焼き畑をしたかどうかは、宗教観に係わる重大な問題だと思っています。


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